呪われた瞳
朝日が昇ると青晶は自然に目が覚めた。麻布と毛布をめくり、癖のついた髪の毛を撫で付ける。青晶には小さな部屋が一つ与えられていた。本当は導諭が使うために用意されている書斎を、娘のためにと譲ってくれている。居間で寝起きしている導諭は、もう起きているようだった。隣の居間から書物を動かしている音が聞こえる。
勉強する机と、腰までの高さの着物入れだけを置いた質素な部屋だ。着物も派手な色は一つもなく、若い娘が身につけるには地味すぎる色ばかりだった。着物を適当に身に着けて、窓辺へ向かう。
窓を開けて、髪に櫛を通し、顔を洗って初めて導諭に朝の挨拶をする。それが日課だ。青晶は普段通り窓を開け、髪の毛をとかし始めた。しばらく髪の毛に没頭し、ふと窓の外を眺める。平屋の窓から見える景色は、遠くにある集落と田畑だ。導諭が住む神学は緩やかな山の中央に位置していた。夏に向かっている筈なのに、今日はとても冷たい風が吹きあがってくる。少し寒い。
毎日変わらない景色を眺める心には薄い靄がかかっている。冷たい風が髪の毛を撫でていき、不思議な香りが鼻先をかすめた。
青晶は顔を上げる。忘れるはずがない。昨日初めて匂った、とても不思議な香りだ。
「……え?」
青晶の手から櫛が落ちた。
「おはよう、早いね。」
青晶は口を開いたまま、固まった。
優しげな笑顔がこちらを向いている。白い生地に紫色の刺繍が細かく入れられた着物。端正なつくりの顔は、改めてみると人形かと見紛うほど整っている。
尋と名乗った男が、窓の脇に背中を預けてこちらを見ていた。
「な、なにをしているのですか……。」
かろうじて悲鳴を飲み込んだ。隣ではきっと導諭が書物を読んでいる。悲鳴を上げて導諭の邪魔をしたくない一念で、青晶は震える唇を動かした。
決して、尋に近づきたいと思ったわけではない。
だが、尋は青晶の反応が意外だったのか興味深そうに壁から背中を離した。思わず一歩後退してしまう。
「あ、あまり近づかないでください……。」
尋は軽く笑った。
「ひどいな。まるで病原菌を見るようだね。」
尋は窓枠に上半身を預けて、両腕を組む。青晶は胸元に両手を合わせて、立ち尽くした。鼓動が狂ったようにとても速い。
「そんなこと……。」
思っていないけれども、姿を見るだけで心臓がおかしくなる。思考も冷静さを欠いてしまっていると自覚できる。側に来て欲しくない。心の中でははっきりと言い返せても、唇は震えたまま動かなかった。
尋が青晶の様子を楽しそうに眺めている。そして諦めたのか、溜息と共に笑った。
「まあ、いいよ。話をしたいのだが、もう少し近くに来てくれないか?」
「話?どうして、私なんかに……近づくの?私に近づいても、いいことなんて何もないわよ。」
尋は青晶の言葉を聞いているのかいないのか、視線を落として手招きする。顔が見えない。ただ繰り返し手招きをしている。
「……ねえ、聞いている?」
青晶はつい、尋の側に近づいた。そして目を見開いた。
「ひゃっ」
尋は顔色を伺うように屈んだ青晶の手首を、矢のような速さで捕らえた。手首を引かれ、青晶はよろけて窓に手をつく。
驚きで目じりに涙が滲んだ。
「なっ」
「すまないな。こうでもしないと、君は俺の傍に来てくれないと思ってね。」
青晶の手首を自分の胸元まで引っ張り、尋は人のいい笑顔を浮かべている。青晶は頬に朱を上らせ、自由な片手を目の前の端正な頬にぶつけた。
「!」
かすかな衝撃音と、目の前の歪んだ顔が青晶を混乱させる。
「どうして……っ。力で思い通りにさせようとするの?とっても卑怯だわ!男の人だったら……、もっと紳士に振舞うべきじゃないの?」
「悪い……。だが、もう少し失礼を働こう。」
尋にとってはたいした衝撃でなかったようだ。笑って青晶を捕まえた手首に力をこめる。
「い……っ」
腰に男の手の感触を感じたと同時に、周囲の景色が一変した。
「やめっやめて!離して!」
「暴れると、本当に離すよ。」
青晶は両足をばたつかせ、本当に手を離されそうになって動きを止めた。足元に何もない。足元に見えるのは、恐らく先ほどまでいた神学の建物だ。青晶は口を開いた。とても遠くて、神学の校舎だと断定する自信がない。
青晶は左右を見渡す。何もない。先ほどまで青晶の周囲にあったすべては、青晶自身の足元─それもはるか下にあった。
自分が空中にいることを確認し、青晶は腰に手を回している尋を間近に見上げる。柳眉を吊り上げた。
「どうして、こんなことをするの?悪ふざけが過ぎるわ。」
尋は青晶に睨まれている自覚がないのか、人のいい笑顔を浮かべる。悪びれずに首を傾げた。
「悪ふざけ?そんなつもりは無いよ。俺はいたってまじめだ。」
「はあ?」
不機嫌に聞き返し、青晶はその顔をまじまじと見返す。人のいい笑顔はずっと浮かんでいる。この人の笑顔は作り物だ。もしかすると、真剣な顔をできないのかもしれない。
尋は考え事をしている青晶の首筋に手を滑らせる。青晶の肩が跳ねた。
「なにするの!やっ…………。」
暴れようとして、動きを止めた。腰の手を離されると落ちて死ぬ。青晶は身動きが取れない。尋はそれが分っていて、あえて青晶を空へ連れ出したのだと思い至った。青晶は忌々しく尋を睨み付けた。
「ひどい人ね。どうして私に構うの?私を捕まえたって、あなたに何の利益ももたらさないじゃない。特別なところなんて、この呪われた目だけよ!」
着物の襟を勝手に捲っていた尋は、手を止めて青晶の瞳を見返した。眉を上げる。
「呪われた目?それが?」
まともに聞き返されて、青晶は言葉に詰まる。
「……っだって。こんな色の目、誰も見たこと無いっていうわ。灰色で、青味がかっていて気持ち悪いって……みんな言うもの。呪われるって。」
尋はとても面白そうに笑い声を上げた。
「呪う目なんかあったら、ぜひ欲しいものだ。」
「あ、あげないわ!」
あわてて声を上げる。目を奪われてはたまらない。尋は笑いながら首を振った。
「とらないよ。君の目は確かに変わった色をしているけれど、呪いの力なんて一つもないよ。他人を呪えるような力のある瞳だったら、ぜひ欲しいところだけどね。」
「……そう。」
よかったと、青晶はまぶたを閉じる。伏せたまつげが光を反射する。その色は髪の毛と同じく黒く見えたが、よく見ると青味がかっていた。それを見た尋が、髪の毛に視線を向ける。髪の毛もまた、光を受けると青味がかった色をしていた。
「へえ。」
口の端を上げて、不思議そうに見返した青晶には何もいわない。
「このまま、連れて帰ってしまおうかな。」
青晶は体を強張らせる。面倒くさいから、内臓を売り払ってしまおうという意味に聞こえた。
「でも君は、なにも知らない……というわけだ。」
「……?」
風が吹き抜ける。尋は微笑んだまま、青晶をまっすぐに見つめた。青晶は胸中の息苦しさを感じながら、首を傾げる。この人と一緒にいると、胸が苦しい。昨日のように涙が流れないのが不思議なほど、見つめられると心が平静を失う。
青晶はあわてて視線をそらした。
「青晶。」
名を呼ばれ、振り返る。いつの間に名前を覚えたのだろう。尋は何か考えているような難しい顔をして見せた。
「……私を、家に帰して。」
尋が何を考えていようが関係ない。元いた場所に戻り、いつもと変わらぬ生活を過ごせるならそれがいいに決まっている。
おそらく、そうだ。物事の摂理はそうなっている。
尋は数秒黙り込み、青晶に首を傾げた。
「本当にそう思っている?」
青晶は言葉に詰まった。息が絡み合う距離で男の唇が弧を描く。己の魅力をわかりきった漆黒の瞳が甘い色で青晶をひたと見つめた。
──本当はどう思っている?
心音がまた速まってきていた。両手で口を覆い、まぶたを閉じる。口にできない。
「……あなたに私は必要ないでしょう?」
自分の意見をかわし、息を吐き出す。耳元で尋が笑っていた。
「次は無いよ?」
「──うん。」
もう出会うことは無いという意味にとって、青晶は頷いた。額に気配を感じる。まぶたを上げると、そこに手のひらがあった。
大きな手のひらだ。銀色や赤や緑の指輪がたくさんついている。見上げているうちに、背筋に寒気が走った。瞳を逸らそうとした時にはもう遅かった。全身に鳥肌が立ち、瞳の奥に熱い塊を感じる。
焼け付くような熱が瞳を襲う。体が震えた。
「やめて……。」
耳が遠くなる。意識すら遠退き始め、かすかに声が聞こえた。呪文だ。それは呪文。導諭に教えてもらった覚えがあるけれど、何に使う呪文だったか思い出せない。
「──お願い、やめて……。」
呪文が耳の奥に張り付いて離れなかった。目が焼かれている錯覚に陥り、悲鳴を上げていた。高い悲鳴が己の意識を奪う。
魔術師の手のひらは、その目にかざされたまま解かれなかった。
「やめて─っ」
意識が掻き消える間際に、青晶はつぶやく。
「……それは…………解毒の……。」
──解毒の呪文。
尋は意識を失った体を、大切な宝物でも扱うようにそっと抱き上げた。か細い首筋に顔を埋めて、瞬きの間だけ抱きしめる。
意識のない少女のまつげから、涙の滴があふれて出した。