新生活
スタジオから出たギルスは、たちまち懐かしい刺激に包まれていった。
涼やかな風と青い空、眩しい太陽。彼にとっては全てが心地良い。
どれも長いあいだ求めてやまなかったものだ。
ユリカに連れられて役所に向かうまで、人知れず幸せを噛み締めていた。
だが、新しい日常はそう簡単にはいかない。役所の中で、同行していた保護課の職員三名は難しい顔をしていた。
彼は記憶を失い、自分の本名すら覚えていない。
さらには国の行方不明者リストに、彼と思わしき存在はいない。ユリカはリストを見ながら悩んでいた。
「お名前、お住まい、これまでの経歴が不明で……うーん」
ダンジョン帰還者の保護という業務において、彼のような前例は少ない。
本来であれば戸籍を確認し、住んでいた家や親族の元に送るだけで、大方の仕事は終わるのだが。
今回のような場合、するべきことは三つあった。
一つは当面の住居を用意してあげること。もう一つは、帰還者の素性を世に知らせ、知人の情報を募ること。
最後は本人が記憶を思い出せるよう、できる限りの補助をすることだった。
「分かりました、とにかくこれから探していきましょう。安心してください。長い間転移していたことで、自分のことが分からなくなった人は過去にもいらっしゃいます。でも、地球で暮らしていくことで、自然と思い出した人も多いんです」
「そうですか。早く思い出せれば良いですが」
「焦らずにいきましょう。時間はあります」
今は車で、彼のために用意した仮住まいに向かっている。永らく地球を離れていた者にとって、見慣れない景色ばかりが広がっていた。
「あちらの世界は、どんな所でしたか?」
ユリカの声は穏やかそのもので、どこか懐かしい気がする。自然とギルスは心が落ち着いてきた。
「大変な世界でした。人が生きていくには困難で、死ぬかもしれないと思ったことも、何度もありました」
「まあ……それはつまり、魔物の脅威があったのでしょうか」
「ええ」
ギルスは目的地に着くまでの間に、転移した先の世界についてを語った。
どんな世界で、どんな国があって、どんな文化があって。
そしてどのような魔物の脅威があり、自分がどう過ごしていたかを、聞かれたことを答え続けた。
「ギルスさん。本当に、辛い体験をされていたのですね」
後部座席で隣に座るユリカは、いつの間にかハンカチで涙を拭っていた。
「辛い体験……そうかもしれない。ただ、最近は辛いというより、忙しいと思うことが増えていました」
「向こうでは、どのようなお仕事を?」
「仕事は、その日暮らしというか。日雇いの力仕事のようなことを」
この時、初めてギルスは彼女に嘘をついた。仕事に関してだけ。
しかし、既に彼に同情しきっていたユリカは、微妙な反応の違いに気づかなかった。
その後もしばらく二人の会話は続いた。どうやらダンジョン庁の職員は、自分のことを気に入ったらしい。
そう彼が解釈していると、いつしか車は目的の場所に到着していた。
「ここが、ギルスさんにお住まいになっていただくアパートです」
ごくありふれた二階建てのアパート。エレベーターはなく階段のみで、203と書かれた札は色褪せている。
中は八畳一間の洋室で、カーテンやベッド、テーブルに小さなソファ、冷蔵庫や洗濯機など、必要なものが揃えられていた。
「凄い……こんなに快適な部屋を貸していただけるんですか」
「はい。でも、私としてはもう少しだけ、設備が整ったものにしたかったのですけれど」
「とんでもない。十分過ぎるほどです。ありがとうございます」
好感触だったらしく、ユリカは幾分ホッとした。
「良かったです。では、使い方について説明していきますね」
(そんなことまで教えてくれるのか)
てっきり家の鍵を貰えたら去っていくものと思っていた。
実際のところ、ほとんどの職員は帰還者について、ある程度説明したら放置することが多い。
だが、ユリカは最初から最後まで手を抜かずにサポートしてくれる。
ギルスは断片的ながら記憶があり、冷蔵庫や洗濯機といった電化製品については、すぐにやり方を思い出していた。
ただ、自分が転移する前とは、いろいろな点で進化していたことに驚いたが。
「はい。では最後に、こちらの紹介をしますね」
「それは?」
「スマートフォンです」
「すまーと……ふぉん?」
最後に借り受けた四角い物体に、彼は首を傾げている。実はギルスが異世界に転移したのは、1987年のことである。
スマートフォンが存在しなかった頃であり、ピンとこないのは無理もない話だった。
ユリカはスマホの概要から、使い方までを懇切丁寧に教えてくれた。
「LINも登録しておきましたよ。私の電話番号も教えておきますね」
「これは……」
「チャットツールなんですけど、うーん。そうですねえ、簡単にいうとお電話でできるお手紙……に近い感じですかねー」
(電話で手紙が?)
まさに衝撃であった。ここまでの進化は想像もしていなかったからだ。
ギルスの初々しい反応をみると、ユリカは少し楽しくなる。
説明に熱が入り、いつしか彼が困惑していたことに気づき、ハッとして頭を下げてきた。
「すみません! 私ったら、沢山喋りすぎちゃって」
「いえ、助かってます」
「そうですか、良かったぁ。ではギルスさん、今日のところはこれで失礼しようと思います。何か最後にお聞きしたいことはありますか」
ユリカはギルスの担当となり、彼が地球の生活に問題なく戻れるまでサポートするつもりだ。
ここまで懇意にされるとは予想していなかった青年の姿をした男は、頭を掻きながら苦笑いした。
「今のところは、特には」
「分かりました。ではまたお伺いしますね。もしお困りのことがありましたら、電話でもLINでも、お気軽にご連絡ください」
「すみません。いろいろと」
「とんでもないです! では、今日は本当にお疲れ様でした。失礼します」
「はい。失礼しました」
去っていく後ろ姿が見えなくなるまで、ギルスはその場にいた。
ユリカが階段を降りていくところまで見届けた後、家に戻ってドアを閉める。ここで小さく溜息が漏れた。
(バレていないな)
帰還してから今まで、そのことだけを警戒していた。
なぜ昭和の時代に転移して、今に至っても青年の姿でいるか。そこには秘密がある。
実はギルスは、もう人間ではない。
魔人と呼ばれる存在になったことにより、人よりも長寿なうえに、長く若い時を過ごせるようになったのである。
自身の正体を、ダンジョン庁や国民が知ってしまったら危険なことになりかねない。そう彼は理解している。
向こうの世界では、彼は魔を統べる王であった。いつの間にか誰も上ることができない高みに至った、唯一の存在。
つまり魔王であることを知られた時、国は保護ではなく敵にまわってしまう可能性が高い。
だから、向こうの世界での仕事について嘘をついた。そしてこれからも、その点だけは嘘を貫くつもりでいる。
(ようやく俺は解放された。さて、どうやって生きていこうか。というか、俺はこの世界で、何をやりたかったのだろう)
自分のことが断片的にしか思い出せない。でも、どうしてもこの世界でしたいことがあったはずだ。
その何かを思い出し、叶えてみたい。
後はただこの世界で、のんびりと生きていきたい。
ギルスは久しぶりにテレビの電源を入れた。見たことのない芸能人ばかりが映っている。
ふと気になったので、ベランダから景色を眺めてみた。何もかもが美しく映る。
やや遠くにスーパーが見えたので、足を運んでみた。
食材を買い漁り、家に帰って自炊をする。何もかもが懐かしく、だんだんと過去のことを思い出していく。
しかし、まだ自分自身のことは思い出せない。二時間後にユリカから電話があり、今後の予定について教えられた。
(第二の……いや、第三の人生か)
彼は今の自分に幸運を感じていた。ようやく望んでいた生活が手に入ったと思ったからだ。
もう一度ベランダに出て、五月の涼やかな風を体に受ける。こんなに気持ちの良いものだったろうか。
一体これから自分は、どうなっていくのだろうか。まだ何も分からない。
(だが、長い異世界生活は終わった……それだけは確かなことだ。ここはあの世界より、ずっとずっとマシだ)
ギルスは心から安堵していた。




