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第3話 聖女に名前をつけてあげたら、狂犬ごときが「心を透視」されて怯えだした件

スラムの奥地にある廃屋。  天井は抜け落ち、床板は腐り、カビと埃の臭いが充満するこの場所こそが、これから世界をひっくり返す我々の「王宮」だ。




 私は、井戸水で濡らしたボロ布を絞り、少女の顔を丁寧に拭き上げた。  こびりついた泥が落ちるたびに、その下から隠されていた輝きが露わになる。




「……ふむ。悪くない。いや、上出来すぎるな」




 すべての泥を落とし終えた少女は、薄暗い廃屋の中にそこだけスポットライトが当たっているかのように輝いていた。  透き通るような銀髪。宝石のようなアメジストの瞳。  栄養失調で頬はこけているが、骨格の美しさは隠しようがない。今はまだ蕾だが、水をやって育てれば、確実に国を傾ける大輪の花ファム・ファタールになる。




 少女は、不安そうに上目遣いで私を見つめている。  まるで、捨てられることを恐れる子犬のようだ。




「名前は?」




 改めて聞いてみる。少女は小さく首を横に振った。  親がいなかったのか、あるいは辛すぎて忘れてしまったのか。  どちらでもいい。都合が良い。  私が名付け親になることで、刷り込み(インプリント)効果はより強固になる。




「ならば、今日からお前の名前は『アリア』だ」




 私は、前世の音楽用語から適当に見繕った。  独唱アリア。  一人で舞台に立ち、観衆を魅了する歌姫。これからの彼女の役割にふさわしい。




「……ア、リア……」 「そうだ。いい名前だろう? 私がくれてやる最初のプレゼントだ」




 少女――アリアの瞳に、光が宿った。  名前を持たなかったゴミ(・ ・)が、名前を持つ人間・ ・になった瞬間だ。  彼女は私の袖をギュッと掴み、頬をすり寄せてきた。  完全な依存。  よし、これで精神的な首輪はついた。




 だが、問題はここからだ。  「商品」は手に入れたが、それを守る「金庫」も、敵を排除する「武器」も、今の私にはない。  このスラムで、子供二人きりで生きていくのは不可能だ。夜になれば人攫いや強盗の餌食になる。




 早急に、護衛が必要だ。  それも、ただの暴れん坊ではない。私の手足となって動く、忠実な暴力装置が。




 その時だった。




 ドカッ!!




 腐りかけた木の扉が、乱暴に蹴破られた。  廃屋の空気が一瞬で凍りつく。




「あぁ? なんだこりゃ。俺の寝床にドブネズミが二匹も入り込んでやがる」




 入り口に立っていたのは、巨漢だった。  身長は二メートル近いだろうか。  筋肉の鎧をまとったような体躯。無精髭に覆われた凶悪な面構え。  そして何より、その手には錆びついた鉄剣が握られている。




 この廃屋の先住者か。  アリアが「ひっ」と短い悲鳴を上げ、私の背中に隠れた。ガタガタと震えている。




 男は、酒臭い息を吐きながら、ドスドスと足音を立てて近づいてきた。  殺気。  明確な殺意が肌を刺す。  スラムの住人にとって、自分の縄張りを荒らされることは死活問題だ。問答無用で殺されても文句は言えない。




「ガキども。ここが誰の家か分かってんのか? ……あぁ?」




 男の視線が、私の背後にいるアリアに止まった。  一瞬、その凶悪な目が丸くなる。  やはり、アリアの美貌は猛獣すらも一瞬黙らせる威力があるらしい。  だが、すぐに下卑た笑みが浮かんだ。




「へェ……上玉じゃねえか。ガキにしちゃあ綺麗すぎる。こいつは高く売れそうだ」




 男が剣先をこちらに向けた。  切っ先までわずか数メートル。  子供の身体能力スペックでは、絶対に逃げられない距離。




 男は舐めている。  目の前にいるのが、ただの無力な子供だと思っている。




(ククッ……最高だ)




 私は内心で嗤わらった。  これこそが、私が最も得意とするシチュエーションだ。  暴力という「物理」を振りかざす相手を、言葉という「情報」だけで無力化する。




 私は一歩前に出た。  逃げるどころか、男に近づく。




「なんだテメェ。死にたいのか?」 「いいえ。ただ、挨拶をしようと思いまして」




 私はニッコリと笑った。  その間に、私の目は高速で男の全身をスキャンしていた。




 発動するのは、最強の心理テクニック《コールドリーディング(Cold Reading)》。




 これは「予言」でも「透視」でもない。  外見、仕草、声のトーンといった些細な情報から、相手の過去や心理状態を論理的に推論し、さも「心を見透かした」かのように語る詐欺師の技術だ。  シャーロック・ホームズの推理術を、対人操作に応用したものと言えば分かりやすいだろうか。




 観察オブザベーション開始。




 1.剣の握り方  男は剣を片手でぞんざいに持っているが、人差し指と親指の付け根に深いタコがある。そして、構えの重心が低い。  これは我流のゴロツキの構えではない。騎士団や軍隊で叩き込まれる「正式な剣術」の基礎だ。




 2.左足の引きずり  入ってきた時、左足をわずかに引きずっていた。靴底の減り方も左側だけ偏っている。  怪我をしてから長い。古傷だ。戦闘による負傷か?




 3.匂いと目つき  強烈な安酒の臭いがする。だが、瞳孔は開いていないし、足取りもしっかりしている。  つまり、「酔っ払っている」のではなく、「シラフでいるのが辛いから酒を浴びている」タイプだ。  現実逃避。過去への執着。




 ――情報が揃った。  プロファイリング完了。  この男は、ただのゴロツキではない。「堕ちた英雄」だ。




 そして、プライドの高い元エリートほど、心の守りは脆い。




「剣を収めてください、騎士様・・・」




 私が放った第一声に、男の肩がピクリと跳ねた。




「……あ? 誰が騎士だ。俺はただの――」 「隠しても無駄です。その剣の握り方。重心の置き方。スラムの喧嘩殺法じゃない。王国の騎士団で教えられる『対人制圧術』の構えだ」




 私は畳み掛ける。相手に思考する隙を与えてはならない。




「それに、その左足。……古傷が痛みますか?」 「ッ!?」




 男の顔色が変わった。  当たり前だ。初対面の子供に、服の下にある古傷を見抜かれたのだから。  だが、これは魔法ではない。歩き方を見れば誰でも分かることだ。  しかし、動揺している人間は冷静な判断ができない。「なぜ分かった!?」という驚きが、「コイツには全て見えているのか?」という畏怖に変わる。




 ここからが仕上げだ。  《ストックスピール(誰にでも当てはまる悩みを具体的に語る技術)》を用いて、彼のトラウマ(傷口)をえぐり出す。




「貴方は、自分の意志でここに来たわけじゃない。……追放された(・・・・・)のでしょう?」




 男の喉がゴクリと鳴った。




「貴方は強い。そして、真面目すぎた。だから、組織の汚いやり方に納得できなかった。……違いますか?」 「てめぇ……何を知って……」




 男の声が震え始めた。  剣先が下がる。  「真面目すぎた」「納得できなかった」などという曖昧な言葉は、不遇な環境にいる人間なら誰にでも当てはまる。  だが、彼は勝手に自分の過去――例えば、上官の不正を告発して逆にハメられた記憶など――をその言葉に当てはめ、「図星だ」と錯覚する。




 私はトドメを刺すために、一歩踏み出し、彼の目を真っ直ぐに見上げた。




「守りたかったんですよね? ……本当に守るべきだった誰かを、守れなかった」




 男の動きが完全に止まった。  目が見開かれ、そこから急速に殺気が抜けていく。代わりに浮かんだのは、深い絶望と悲哀。




 ビンゴだ。  スラムに流れてくる元騎士の過去など、相場が決まっている。  護衛対象を守れなかったか、家族を人質に取られたか。  具体的な名前を出す必要はない。「誰か」と言えば、本人が勝手に脳内で一番大切な人間の顔を思い浮かべてくれる。




 男の手から、カラン、と乾いた音を立てて剣が落ちた。




「……俺は……俺は……ッ」 「辛い記憶を消すために酒を浴びても、その左足の痛みだけは消えない。……そうでしょう?」




 男は膝から崩れ落ちた。  巨大な体が、小さく丸まる。  物理的な攻撃は一切していない。ただ、数言の言葉で「心」を解剖しただけだ。  だが、その威力は剣よりも鋭く、魔法よりも深く突き刺さる。




 私は、崩れ落ちた男の前に立ち、落ちていた剣を拾い上げた。  重い。子供の腕では持ち上げるのがやっとだ。  私はその剣の柄を、男の方に向けて差し出した。




「選べ、野良犬」




 私は冷徹に見下ろした。




「このまま酒に溺れて、過去の亡霊に怯えながらここで野垂れ死ぬか」




 男が顔を上げる。  涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。




「それとも、俺の剣・・になって、失った誇りを取り戻すか」




「……誇り……?」 「そうだ。過去は変えられない。だが、未来は買える(・・・)」




 私はニヤリと笑った。




「俺についても来れば、お前を陥れた連中への復讐も、騎士としての死に場所も、全て用意してやる。……どうだ? 悪い取引じゃないだろう」




 男は、呆然と私を見ていた。  薄汚いガキの戯言だ。普通ならそう思うはずだ。  だが、私の言葉には、彼の心の防壁を全て破壊した実績という「重み」がある。  今の彼にとって、私はただの子供ではない。自分の全てを見通す、恐ろしくも底知れない「導き手」に見えているはずだ。




 男は震える手で、私が差し出した剣の柄を握った。  そして、ゆっくりと――まるで主君に対するように、頭を垂れた。




「……名前は……ガルフだ……」 「そうか。俺はルシアンだ。……立て、ガルフ。俺の騎士」




 ガルフと呼ばれた狂犬は、よろりと立ち上がった。  その目には、まだ迷いがある。だが、先ほどまでの「死んだ目」ではない。  主あるじを見つけた猟犬の目だ。




 私は背後を振り返った。  アリアが、驚きと尊敬の眼差しで私を見つめている。    完璧だ。  「神の奇跡」を信じる聖女アイコン。  「悪魔の知恵」に屈した騎士(暴力)。    これで、国を崩すための最低限のピース(手札)は揃った。




(さあ……反撃の狼煙のろしを上げようか)




 廃屋の隙間から差し込む光が、私たちの歪な、しかし強固な同盟を祝福しているようだった。

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