コイトヒトガタ
店長から言われた仕事内容は、店内にいてくれるだけでいいとのことだった。
満面の笑みで彼女は快く引き受けた。
そうして店主の予想を超えて、彼女は看板娘までになった。
店の外、空は白く混濁した雲がゆっくりと青を侵食し始めていた。
「今日は雨か」
店主がぽつりとこぼした。
雨は客足が遠のき、この店の売り上げにもひどく影響する。こればかりは看板娘の彼女の微笑みでもどうにもできない。
店主の嘆きに彼女は少し悲しくなったが、雨と聞き彼女の心は踊った。
申し訳ないと店主に思いながらも、彼女は雨が嬉しかったのだ。
彼がやってくるのはいつも雨だった。
仕事帰りなのか疲れ様子でカウンターに座り、店主に嘘みたいな話を話すのだ。
けれど彼女が、そんな彼の話を覚えていることはあまりなく、覚えているのは多くない。
彼は雨の日に来るということ、それと彼自身のことだけだ。あと、好んで飲む銘柄はブルーマウンテンブレンドだ。
店主が淹れる珈琲は絶品と言っていた。珈琲が飲めない彼女はその香りを楽しむしかできないが。
彼女が何故、彼が雨の日に来るかを覚えているかといえば、驚くことに彼は、傘を一度も店に忘れたことがなかったのだ。彼の傘は良い物というのはすぐに判るが、決して高級そうな傘ではない。
彼の服装も高級感あふれるものでもない、おそらく安物の背広だ。
「いらっしゃいませ」
彼が訪れると深い紺色で水をよく弾くのだろう傘は、濡れて草臥れる様子もなく店先で自分の持ち主を辛抱強く待つ。
会計の入り口近くで、彼はその傘を持って出ていくので、よく覚えていた。いや、覚え始めたのは、おそらく彼女が彼に恋をし始めたときからだろう。
店内には今日もチルが流れていた。
やはり今日は、午後から雨が降るらしい。店主が携帯端末で調べていた。
もう彼女はときめきを隠せなかった。
彼の話す仕草や彼の優しい笑い声に一喜一憂してしまう。彼を知らなかったあの頃は、雨の日は本当に嫌いだった。厭で嫌で仕方なかった。
この喫茶店にやってくるのは基本的に近所の年寄りたちで、集まると井戸端会議が始まり、結局「まぁ昔はよかった」というところに落ち着いて、店主ご自慢の珈琲を啜って帰って行くのだ。けれど帰る際にはもう冷めてしまっていて、「ここの珈琲は相変わらず酸っぱいね」と言われながら笑顔の店主。「今日もお前は可愛いね」と言われて笑顔の彼女。
彼女はそんな光景を眺めることを愛してやまない。けれど、雨の日は誰も訪れない。そのことが耐え難かった。
いや、耐え難かったのは過去形だろう。
店主と二人きりの時間が過ぎていく。嫌いではないが、彼女は店に人が溢れていることがやはり好きだ。
ぼんやり外を眺めるだけの時間。
雨の音と静かな店内。店主の好みでかけられるBGMは、会話の邪魔にならない様に小さく静かで微かだった。
彼女は地面を叩く音の中の沈黙が、苦手だ。
彼のことを考える。苦手なことに直面したら、まずは好きなものを考えることにしていたからだ。
「雨宿りできますか?」
「……どうぞ」
静かに呼び鈴の音に店長は、カウンター席へ案内した。
彼女の記憶が確かならば、おそらくそんな始まりだ。
彼女の記憶が確かならば。
その日も雨で、閑古鳥が鳴いている。けれど彼女は上機嫌だ。
喫茶店「シュガー&ビター」の店内は、木目調で調子で統一されていた。店主ご自慢のウォールナットの家具と建具、それに映えるような白壁。難点は、カウンター席しかないということだろうか。
カウンター席で用意されていた暗い落ち着いた机は、彼のお気に入りの席だ。
呼び鈴が鳴った。
彼女は扉の方を反射的にみてしまう。
彼だ、きっと彼。そう思うと、そうじゃなかったときのガッカリが大きいから思わないようにしようと、そう心に決めていても、期待する。
雨に濡れて深い紺色が、傘立てに置かれた。
彼女は心の中で深いため息をする。誰にも聞こえないのに、恥ずかしくなる。
「今日は、やけに早いね」
「そうなんですよ、仕事が早く終わって」
「いつものでいい?」
「はい」
彼とマスターの会話は、静かだ。
「来年の今頃って、なにやってるでしょうね?」「何唐突に?」
珈琲の匂いが店内に広がっていく。店主が丁寧に珈琲の準備をしていた。
「いや、今日出会ったお客さんが、ね」
彼の嘘みたいな話が始まった。
店主は笑顔で、それを聞いている雨の日の風景。
「とっっ……んでもなく、不幸な顔をしてて。思わず聞いちゃったんですよ。どうかしたんですかって?」
「ほぉ、それはそれは」「いつもなら聞かないんですけどね。カレシにフられたとか、かなぁとか軽く考えてたんですけど、まぁ、そんな服装だったしね、イケイケの感じの。したらば、…」
彼と店主のはなしは盛り上がっていく。彼女は二人に近づこうとするが、足が動かない。怖じ気付いてしまうのだ、そして今日もそうだっただけ。
彼は店主と会話を楽しみにきている、自分に会うわけではない。そうは解っていても、嫉妬と呼べるかも分からない感情が芽生え、心の中で否定した。
他に客もいないせいで、ついつい二人の会話を聞き入ってしまう。
「な、ことがありまして……」
「それは不思議なことだね」
「本当に」と彼は言いながら、彼女を見た。にこり、と笑いかけられて彼女は恥ずかしさの余りに逃げ去りたいが、同時にこのまま見られていたいという気持ちにもなった。
彼の顔をマジマジと見れるまたとない機会。チャンスは逃したくないのだ。
それに、彼のこの笑顔で、彼女は彼に恋をしてしまったのだ。
そんな日々、彼女は夢を見た。
雨の日に、彼が来なくなる夢だ。彼女は悲しさのあまりに、動きたくなくなってしまった。目を瞑り俯いてただこの世界を直視できなくなった。世界が真っ暗になっていく。
そんな夢とは別に違う夢を見た。
とある雨の日に、彼が彼女の手を引いてこの喫茶店から連れ出す夢だ。
流行りの映画を観て食事をして彼女の行ってみたかった場所へ連れ出してくれる、そんな夢だ。
最後は結局、この喫茶店に戻ってきてお茶をして「楽しかったです、また雨の日に」と言われて彼の笑顔にときめく。
今向けられているような眩しぎる笑顔。
今日は雨。
店内をよく見渡せる位置に置いてあった人形がコトリと倒れた。




