第9話 ルカからキスをされた
「どうしたの?」
体を洗い終えたらしいルカが、私の顔を覗き込んできた。
「……私たち、生きてここを出られるよね」
彼女は私の言葉を理解していなさそうに、きょとんとした。無垢な少女のようだ。瞳だけがただ潤っている。ルカの紅い先端が目に入ると、喉が鳴った。
「——死んじゃうかもね」
彼女は唇の端を上げる。それは美しい死神のように思えた。
ルカはお構いなしに、バスタブの中に入ってくる。私と向かい合う形になっても、飄々(ひょうひょう)としている。
さっきは、そのうち外に出られるなんて言っていたくせに。強がっていたのかな。やっぱりルカも、命の危機を感じているのではないか。
しかし、目の前にいる彼女は、凛としていた。まるで最初からこうなることが決まっていたのを知っていたかのように、うやうやしくまつ毛を伏せた。入浴剤をいれていないから、互いの肌の色がまざまざとわかる。彼女は今、何を考えているのだろう。
「やだ」
耐えられなかった。思いがけず出した声は、湯気の中に迷い込んで静かに消えた。
「怖い。やだ……。助けてよ」
一度弱音を吐き出したら、もう駄目だった。恐怖で涙がこぼれ落ちる。頬を伝った先は、お湯の中に消えて行方がわからなくなった。
「泣かないでよ」
「だっ、て……」
「しっかりしてよ。年上でしょ」
そんなこと言われても。怖いものは怖い。
例えば今日、何者かに殺されることだって十分にあり得るのだ。その場合は、先ほど食べた餃子が最後の晩餐ということになる。
「はぁ……ひっく……うぅ」
嗚咽が止まらない。何で私は裸で、それも初対面の女の子の前で泣いているんだろう。
ルカの手がそっと私の頬に触れた。流れ落ちる涙が彼女の指先にくっつく。
——ルカは少しも怯えてはいなかった。
ちゃぽんと一際大きな水音がしたら、ルカの顔が目の前にあった。
大きな瞳の中に、私が映っている。うっとりとめまいがしそうになった。まるでスローモーションのよう。
——私はルカにキスをされた。
最初何が起こったのか、わからなかった。混乱する頭の中で、同じ匂いをした彼女が、唇を寄せたという事実を理解した。
動揺して、体を引いたら、少し滑った。浴槽のお湯が首元まで跳ねる。
「なっ……なっ……」
「あっ。涙止まった」
ルカは無邪気そうに言う。まるで今したキスに何の意味も持たないような軽い調子で言う。
どうやら驚くことがあると感傷的には浸れないらしい。死についてはとっくに頭から消えていた。
初めてのキスは——よくわからなかった。
レモンの味がすると言っていたのは誰だったか。
初めての恋人ができる前に、同性のしかも年下から唇を奪われてしまった。そんなことを唯ちゃんに言ったら、失笑されてしまうだろうか。
「わたし、簡単に泣く人って大嫌い」
ルカはとんでもないことを言う。鋭い言葉が痛かった。
「うるさいな。仕方ないじゃん」
情けない言葉しか出てこなかった。
「……」
「私だって——簡単にキスする人って大嫌いなんだけど!」
ルカには婚約者がいるんだから、キスなんて当然したことがあるだろう。
こんなの全然ロマンチックじゃない。プライドが傷つけられた。気づけば、彼女に怒鳴ってしまっていた。
「——へぇ。言うじゃん」
「……」
ルカの目の奥が笑っていない。感情が読み取れなかった。
「大嫌い同士だから、両思いだね」
そう言って、性懲りも無く顎を掴んで唇を重ねてきた。噛み付くような、乱暴なキスだった。
「まっ……」
抵抗すると、お湯がバシャバシャと陳腐な音を立てる。水しぶきがルカの顔にかかって、涙のように垂れた。
ルカは熱が冷めたように身を引くと、バスタブから抜け出して、脱衣所へと続くドアを開けた。こっちを見ようともしない。
お風呂場に一人取り残された私は、唖然とする。
唇を触ると痛みが走った。浴槽から出て曇った鏡で確認してみると、血が出ているのがわかった。
何これ。何これ。
ムカついた私は、頭からシャワーを浴びた。彼女の成分が混じったお湯が、体に付着したままなのが許せなかった。
脱衣所からは、ドライヤーで髪を乾かす音がけたたましく聞こえる。私は耳を塞ぐように、シャワーの水圧を高くした。
◇
部屋に戻ると、ルカがベッドの上でストレッチをしていた。
涼しい顔をして、足を広げて、体をペタンと前に突き出している。
テーブルの上にあったお皿とおぼんは、きちんと重ねられていて、床の上に置いてあった。ルカが片付けてくれたのだろう。
「おかえり」
私を見るや否や、親友みたいな挨拶をしてくる。てっきり、無視されると思っていたのに。不意を突かれて、うまく返事をすることができなかった。かろうじて、咳払いをするような「んっ」という声が出た。ルカは肯定と捉えたのだろう。
「——ねぇ、この部屋さ、何があるかしっかり調べておかない?」
左腕をめいいっぱい伸ばしながら、そう言った。体、柔らかいなぁ。
「私もそれ思ってた」
暇つぶしと言えば聞こえは良い。だけど、生き残るためには必要なこと。
私たちの手元にあるものをしっかりと把握しておきたかった。




