第52話 きれいな名前<羽本ルカside>
◇
凪沙から手紙が届いて、2年が過ぎた。わたしも21歳になっていた。ありがたいことに女優の仕事も増えてきている。最近は、苦手なバラエティ番組にも挑戦していて、この前は顔中を真っ白にして笑いを取った。
ありがたいことに充実した日々を送っていた。だけど、夜に一人になると、ボーっとしてしまう。
わたしはどこに向かっているのだろう。しかし、朝を迎えて鏡を見ると、にっこり笑っている自分がいるのがおかしかった。
沼田が車のハンドルを握る。わたしは後部座席にいた。
「羽本さん、後10分でつくから」
「はぁい」
沼田にはマネージャーの仕事から、車の運転まで何でも任せている。敏腕な彼女に、ついつい頼ってしまう、わたしがいた。今度、長期的なお休みをあげないとね。
間延びした声で返事をすると、バックミラー越しに沼田と目が合った。呆れているのかな。その目は心配しているようにも見えた。
今日の仕事はドラマの撮影だった。タイトルは『君とワタシのストーリー』。わたしは主演の女の子の友人"カエラ"を演じることになっている。編み物が好きで涙もろい女の子——感情の揺れをどう表現するかがポイントだった。
もう一度、台本でも読んでおこうかしら。
——その時だった。車体に衝撃が走った。
「きゃっ」
前のめりになるけど、シートベルトが体を支えてくれた。突然のことに驚いてしまう。
「羽本さん! 大丈夫?」
沼田が頭に手を当てながら、後部座席を振り返った。
「大丈夫よ! 何が起こったの?」
「後続車から衝突されたみたい」
後ろを振り返ると、間近に迫った黒の車があった。ご年配の男性が慌てた様子でガラス越しに、こちらを見ていた。
ついてないな。
このまま現場に向かうことはできない。足止めをくらってしまった。わたしは、がっくりと肩を落とした。
◇
知らない街を散策するのは好きなほうだ。
だけど、わたしは今、景色を楽しむ余裕なんてまるでなかった。
遅刻だ。事故の処理は沼田が担当するからと告げられ、わたしはすぐに現場へ向かうように指示された。
タクシーが全然つかまらない。時間は刻一刻と過ぎていくのに。
もどかしい。
「——いいよ。走って行くから!」
体力には自信があった。あのホテルにいた頃、暇を持て余してトレーニングルームで走ってばかりいた。おかげで運動の楽しさを知り、自然と筋肉もついた。
今日は雲ひとつない快晴だ。暑いと言っていいほどだ。
そういえば昨日、雨が降ると言っていた。こんなに晴れ晴れとしているんだから、天気予報が外れたということだろう。珍しいこともあるもんだなぁ。
今日のドラマの撮影は、M高校で行うことになっている。もうとっくに学生ではないわたしにとっては、懐かしさを感じる。
女優っていいわね。20歳以上でも、高校生の役になりきることができるんだから。
わたしは今日、カエラを演じるためにセーラー服を着る。
「すいません。遅れました」
M高校に着いて、廊下にいた監督に頭を下げた。目の前のヒゲを生やした男性は、「災難だったね。今ちょうど12カット目を撮影しているところだから大丈夫だよ」と言ってくれた。事情は伝わっているらしかった。
横を見ると、教室があった。わたしくらいの年齢の女の子たちが、机を囲んで談笑していた。何でもない場面なのに、目が離せなかった。鳥肌が立つ。
主演女優・加藤梨依音の隣にいる人から目が離せなかった。
先ほどから、彼女もわたしのことをじっと見ていた。一つ結びにしたポニーテールが印象的だった。目を細めて、ゆっくりと笑う。
わたしは思わず駆け出していた。リハーサル中であるにもかかわらず、勝手に画角の中に入っていた。
——"あの子"だった。見間違いじゃない。
ホテルで過ごした時間が一気にわたしの胸に押し寄せ、息もできないほどだった。
「ちょっ。なにー?」
加藤梨依音が気だるそうに声を出す。
「ルカちゃん駄目だよ。勝手に入ってきちゃー」
「す、すいません……」
プロデューサーに注意をされて引き下がる。心臓がバクバク音を立てて鳴っていた。
彼女の、前より大人びて見える美貌に翻弄された。
「あ、あなたの名前は?」
早く教室から出ないといけないのに、つい彼女に話しかけていた。声が震える。
「——織川凪沙だよ」
やっぱりあなただった。彼女は女優になっていた。
数年ぶりの再会で、周りの景色も人も息をひそめ、凪沙の存在だけがひときわ輝いて見えた。
「わたしは羽本ルカ……」
「うん。知ってるよ」
彼女は軽く微笑む。後光が差しているようだった。
「どうして……」
「——会いたかったから。どうしてもルカに」
真剣な瞳がわたしを射抜いた。まるで心を奪われてしまったかのように、鼓動が弾んだ。
「……」
「芸名を決める時ね、違う名前にしようか迷ったんだ。でも、ルカが"凪沙"をきれいな名前と褒めてくれたでしょ? ——だからこれにしたの」
そうだ。
わたしが初めて凪沙と顔を合わせた時、確かに彼女の名前を褒めた。
自分の名前とは違う漢字を、心からきれいだと思ったのだ。
まさか、忘れずに覚えていてくれるとは。そして、女優の名前に選ぶとは思わなかった。
ドラマ『君とワタシのストーリー』の台本には、友人役・カエラの他に、友人役・芽衣子がいた。役を担当する女優の名前は『本多よし乃』と書かれていた。
だけど、ベテランの彼女は現場にはいなかった。後で聞いたら、諸事情により役を降りたらしい。代役に、織川凪沙が回ってきたということだった。こんなサプライズあっていいのだろうか。
ホテルの中で二人顔を見合わせて、勉強していた日々を思い出す。
あの時、ふと思ったことがあった。もしも凪沙と同じ学校に通っていたら、こんな光景もあり得たのかなと。「ここわからない」と言うわたしに「どれどれ?」と顔を近づける凪沙。放課後には甘いパフェを食べに行くこともあっただろう。
——それがドラマという形で叶う。これ以上ない幸せだと思った。
「うわぁぁああん」
「ルカちゃん!?」
涙と汗でぐちゃぐちゃの、わたしの顔は女優にあるまじきものだった。周りにいる大人たちが、なんだなんだと集まってくる。
大勢の前で泣くなんて恥ずかしい——。
だけど、不思議と気持ちはスッキリしていた。今まで溜め込んでいたものがすべて流れ落ちていくのを感じる。
わたしは演技ではなく、ありのままの自分として、湧き上がる感情に身を委ねていた。
凪沙はわたしを抱き寄せ、まるですべてを許してくれるかのように、そっと背中を撫でてくれた。




