第51話 織川凪沙<羽本ルカside>
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森を抜けた後、道で見かけた公衆電話に入って、急いで家に電話をかけようとした。だけど、お金がない。わたしは唇を噛んだ。
近くの自動販売機を回り、地べたを這ってお金を探した。こんなこと、初めてしたわ。コンクリートの暗闇に、きらりと光る100円玉を見つけた時は、思わず安堵の息が漏れた。
公衆電話から家に電話をかけると、お手伝いのタマ子が出た。「お嬢様! 無事だったんですね!」そんな、昂る声に涙ぐんでしまった。数時間かけて、家の者が車で迎えに来てくれた。その時、わたしは衝撃の事実を聞くことになる。
——この数ヶ月、わたしが行方不明だった事実を、父親が世間から隠していたのだ。
てっきり娘が反抗して、家出でもしたかと思って、放任していたようだ。すぐに帰ってくるはずと、たかを括っていた。
しかし、時間が経つごとに、ただごとじゃないと思い始めた頃にはあとの祭り。父親は、最初の選択を誤ったためか、今更警察に言うのもおかしいと思って、そのまま隠したということだった。また、娘の部屋に監視カメラを仕掛けていることもあってか、逆に警察に追求されると思って、言い出せなかったのかなとわたしは思う。
——実の親を心から軽蔑した瞬間だった。
カイエンともすぐに顔を合わせた。「心配したよ」「もう大丈夫」と"許嫁"っぽいことをしっかりと口にしていた。抱きしめられる中で、わたしはもう処女ではないということを伝えた。
あの時のカイエンのゴミを見るような目は忘れない。きっと、相手は監禁していた男性だと思ったことだろう。きっと誰だって、そう思うに決まっている。
そこからはとんとん拍子でカイエンとは破談になった。わたしは笑ってしまった。家に居場所がないのも変わらない。とても苦しい時期だった。
だけど、わたしには女優になるという夢がある。もはやそれだけが生きる理由だった。
——それに、わたしが"羽本ルカ"になれたら、凪沙についた嘘を本当にすることができる。それは甘美な響きだった。
だから、死に物狂いで頑張った。
元々の演技の素質もあってか、チャンスはすぐに舞い込んできた。あけぼのの恋のリメイク版に出演することが決まった時、震えるほど嬉しかった。
憧れの都実ユウリさんにも会うことができた。脇役のわたしにも、「よろしくお願いします!」と礼儀正しく挨拶してくれたのが印象的だった。
あけぼのの恋がきっかけで「かわいい!」「あの子は誰?」「演技うま!」と世間から注目されるようになった。そこからは次々に仕事が舞い込んできた。街を歩くと、「ルカちゃん!」と握手を求められて、囲まれるまでになった。
——でも、まだ足りない。もっともっと上を目指さなければならない。
織川凪沙に見つけてもらうために——。その一心で努力を重ねた。
だけど、いざ、こうして手紙を目の前にすると怖かった。呼吸が乱れて、立っていられなくなる。
近くに沼田がいるから、普通にしないと。
変に追求されて、手紙を取り上げられるなんてことになったらごめんだ。
織川凪沙。その名前を何度も目で追う。住所も焼き付けて、覚えてしまうほどだった。わたしのマンションからは結構、遠い場所に住んでいるのね。
恐る恐る封を開けてみると——そこには賞賛の言葉がたくさん書いてあった。
わたしの演技を隅から隅まで褒めてくれて、まるで本当のファンからの手紙のように思えた。
——もしかして、凪沙は怒っていないのかしら。
わたしが嘘をついていたことに。
もう一度、手紙に書いてある住所を見た。今から行こうと思えば、今日中には、たどり着けてしまう場所ではある。
本当だったら、今すぐにでも会いに行きたい。でも——。わたしは沼田をチラッと見た。寝ずに業務に取り組んでくれている。彼女はふわぁと、一つあくびをした。
わたしは芸能人だ。自覚を持って行動しないといけない。突然、一般人の家を訪ねるなんて問題になってしまうだろう。わたしがヘマをすれば、沼田の仕事も減る。路頭に迷わせることにもなりかねない。
わたしは改めて、凪沙といる場所が違うことを悟った。
目を閉じるだけで、隣で彼女が眠っていた頃のことを鮮明に思い出せる。ぐぅぐぅとかわいい寝息を立てることも知っている。
怖い夢を見て、夜中に飛び起きた時でも、凪沙がそこにいれば、安心して再び眠りにつくことができたものだ。
凪沙に認めてもらいたいのに、その代償に、彼女に近づけないのは、わたしに相応しい罰のように思えた。
「はは……」
乾いた笑いしか出てこない。
わたしは近くにあったレターを手に取る。背筋を伸ばして、咳払いをした後、凪沙に返事を書くことにした。
どんなに忙しくても、ファンからの手紙には返事を書いている。だから凪沙に返信するのも、何も私情が入っていない、普通のこと。
だけど、ペンを取った後、なんて書けばいいのかわからなかった。
伝えたいことはたくさんあるはずなのに、何も出てこない。
『応援してくれてありがとうございます。これからも精一杯頑張ります。』
迷いに迷った挙句、人並みなことしか書けなかった。
"羽本ルカ"として、もっと機敏な返事を書くこともできた。だけど、彼女のことを考えると、あの頃の指しゃぶりをしていた、わたしに戻ってしまう。それを隠すように、きれいな取り繕った文章になってしまった。
凪沙はわたしの手紙を読んで、どんなことを思っただろう。聞くことができないから、また、レターを書いて送って欲しかった。
——しかし、それから、凪沙から手紙が届くことは一切なかった。
「はぁ……」
ため息をつく日々。演技をしていても熱が入らない。
これじゃ駄目だと思った時には、いつも見計らったように、夢に凪沙が出てきた。制服を着た彼女が「頑張ってね」と、わたしの背中を押す。ただそれだけなのに、不思議とやる気が満ちてくる。
森の中のホテルで監禁された数ヶ月。凪沙が大地に抱かれようとした夜、ベッドのマットレスに死んでも良いと覚悟を決めて、わたしはダイブした。まるで契約を結ぶように、月夜に照らされながら、彼女が血を妖しく舐めてくれた。
すべてが演技の糧になった。わたしが過去に囚われるほど、世間が良い演技だと褒めてくれた。そんな時、わたしはいつも心の底から笑うことができてしまうのだ。ああ。こういう生き方も悪くないわね。




