第50話 最後の記憶<羽本ルカside>
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<羽本ルカside>
織川凪沙から羽本ルカ宛に手紙が届いた。その名前を見た瞬間、時が止まったような錯覚を味わった。背中から汗が一気に吹き出てくるのがわかった。
ファンレターにはすべて目を通している。宛名を確認してから手紙を読むのがわたしのルーティンだった。今日も段ボールをゴソゴソしながら運命の一枚を手にしたところだった。
「どうしたの?」
マネージャーの沼田が訝しげな目を向けてくる。テーブルの上にパソコンを広げて事務作業をしながら、おせんべいを食べていた。徹夜明けもあってか、目元が疲れている。
「な、なんでもない」
わたしは嘘をついた。
「ならいいけど」
沼田はすぐに自分の仕事に戻った。わたしはバレないようにふぅと息を整えた。
——織川凪沙。
忘れもしない。あの森の中にあったホテルで、数ヶ月間、共に過ごした女の子だ。監禁された部屋の中で、同じベッドで毎日寝ていた。
——それに、わたしが嘘をつき続けた子でもある。
彼女と初めて会った時、なんとなく自分と似ている子だと思った。無表情に近い——しかめた顔をした時、その子の中にわたしが見えた気がした。
——まさか、名前まで同じだとは思わなかった。
わたしの名前は、喜多島渚だ。
織川凪沙とは漢字は違うけど、下の名前の"なぎさ"が一緒だった。
先に彼女が自己紹介をした時、自分の名前を言うことができなかった。
これは罠だ。
同じ名前の女の子が部屋に集められていると瞬時に思ってしまい、わたしは女優の名前として使うつもりだった——羽本ルカと名乗った。
こうすることで、いつもわたしが上手にいられると思ったからだ。
一度嘘をついたら、気持ちが楽だった。本音と建前を混ぜながら、日常を過ごすことができたのだから。密室で狂わずにいられたのも、きっと羽本ルカになりきっていたからだろう。
——織川凪沙を信用することができなかった。
でもそれは、少しの間の話。
一緒に過ごすうちに、彼女の人の良さを知っていった。女優になりたいという夢なんて言うつもりはなかったのに。気づけば、一緒に演技の稽古をする仲にまでなっていた。
今思えば、大きな嘘をついたのは名前。あと、葵台高校に通っている……というくらいだろう。
カイエンという許嫁がいることも、父親から部屋に監視カメラを仕掛けられたことがあるっていうのも本当。ふふっ。嘘であってほしかったけどね。
凪沙に噛み付くようなキスをしたのは、演技じゃない。したかったから? ……衝動的に体が動いてしまったというのもあるわ。第一、泣いている彼女を放っておけなかったからって言うのはズルいかしら。
大地から、凪沙と同じ部屋に監禁された本当の理由を聞かされた時は、「同じ名前だからじゃないの!?」とは思った。まさか、処女だったからとは誰も思わないじゃない。
だけど、この広い世界で"未経験の女の子"ってだけで、あの部屋に集められて、出会ってしまったのは、ある意味運命なんじゃないかしら。
まぁ、大地は憎くて仕方ないけど。
ああでもしなければ凪沙と出会わなかったと考えると、複雑な気持ちにもなるわ。
凪沙と二人でホテルを抜け出した時、本当の意味で自由になれた気がした。なんでもできそう。わたし達は最強だった。
しかし、彼女が言ったひと言ですべてが崩れてしまう。
『——ねぇ。ルカ。大地がね。"羽本ルカは大きな嘘をついている"って言ってたんけど、そんなことないよね?』
まさか、こんな場面で突きつけられるとは思わなかった。
わたしがついた嘘は、そのまま自分に跳ね返ってきた。
一瞬だけ、逃げたいと思った。
だけど、すぐに心をあらためる。
凪沙には正直でいたい。
軽蔑されるだろうか。でも、しっかりと向き合わないといけない。
『……ルカ?』
凪沙がわたしの名前を不安そうに呼ぶ。無理もない。少しだけ握る手に力を込めた。
「——うん。わたし凪沙に嘘をついていたの。実は最初から」
心臓がうるさい。だけど、本音を話す度に、肩の力が抜けて、解放感に満たされていくのがわかった。正直者は救われるという言葉の意味を知る。
『えっ?』
凪沙が驚いた声を上げた時、どうしていいのかわからなくなった。
演技で取り繕うことなんてできない。凪沙の前では、ベールを脱がされてしまう。
わたしが振り返ると、凪沙はそこにいた。ただそれだけの事実が胸が震えるほど嬉しかった。
「——ごめんね。凪沙」
ゴロロが遠くの方で「にゃあ」と鳴いた。ごうっと大きな風が吹くと、わたし達を包むように辺りに落ちていた葉が優雅に舞った。
その時、凪沙がばたりと倒れた。最初、何が起きたのかわからなかった。1秒経つごとに、現実の残酷さが体の隅々まで突き刺さっていくのを感じた。
「凪沙!?」
森の中に広がる声。鳥が木から羽ばたく音と重なっては溶けて消えた。
凪沙を揺さぶっても、目を覚ますことはなかった。
どうしよう。誰か……。
早く、どうにかしないと。
わたし一人じゃ凪沙を助けられない。
人を呼びに行こう。
「ねぇ。ゴロロ、凪沙を見てて!」
「にゃあ」
彼女を背負ったまま森を抜けるのじゃ、時間がかかる。それに、ゴロロに人を呼んできてと、お願いするのも現実的ではなかった。
凪沙を置いていくのは不安でたまらない。けれど、今動けるのはわたししかいない。
先を急いだ。駆け出してからすぐのことだった。
「きゃーー」
後ろから女性の叫び声が聞こえた。振り向くと、蛍光ピンクのウインドブレーカーを着たご年配の方が、ギョッとした顔で、横たわる凪沙を見ていた。そのさらに背後にも、数人の人影が列を成して続いていた。
「なんだ、どうした?」
チェック柄の帽子を被ったおじいさんが身を乗り出した。背中のリュックには、小さな鈴が付いていた。
——良かった。人が来てくれた。
「大丈夫かい! お嬢さん!」
ご年配の方は、凪沙を心配して声をかける者。様子を伺う者。スマホを取り出して、救急車を呼ぼうとする者に分かれた。
あれは……登山グループだろう。格好や手際の良さから見て、緊急事態には慣れているように思えた。
「——大丈夫、息はあるわよ」
首にタオルを巻いたおばあさんが、確かにそう言うのが聞こえた。良かった。ホッと胸を撫で下ろすことができた。
木々が遮っているせいか、向こうからは、わたしの姿は見えていないようだった。
……。
まるで映画を観ている、観客のような気分だった。蚊帳の外に置かれていて、不思議と、冷静な視点を持つことができる。
——ここが、わたしと凪沙のお別れに相応しい場面ではないのか。ふと、そんなことを思った。
凪沙は、わたしが嘘をついたことを認めたあと、すぐ倒れてしまった。——それだけショックだったということではないのか。
気持ちが軽くなるのは、いつも打ち明ける側。受け止める側の負担については想像したこともなかった。
目が覚めた凪沙と、顔を合わせるのが怖い。嫌だ。——嫌われたくない。
ねぇ。神様。
もしもいるのなら、凪沙と出会う前に戻してください。
次はきっと素直になれるから——。
気づいたら、わたしは森の中を駆け出していた。ゴロロがじっと見ていたような気がしたけど、振り返らずに走り抜けた。
足が悲鳴を上げているのに、胸の方がもっと痛かった。
——それが、わたしと凪沙を繋ぐ最後の記憶となった。




