第44話 嘘
——私は彼女の手を取ると、忠誠を誓うように静かに舐めた。あたたかく、生の匂いがするそれは、悪くないと思える味だった。
ルカは肩を小さく振るわせた後、吐息を漏らした。
舌の上を這う赤い血。勿体無いというように少しも飲みこぼすことを許さない。
人差し指と中指の付け根に舌を入れると、ルカの顔が歪んだ。それは痛みと甘美に酔いしれるものだった。
——私を止める人は誰もいない。指先ひとつにも、しつこく絡みついた。
「……あはっ。あったかい」
その声を合図に、私はルカにキスをした。彼女は目を閉じなかった。
まるで先ほどのベッドでの行為の続きをするかのように、加減を知らなかった。
——自由になれた喜びだろうか。大地が追ってくるかもしれない恐怖からだろうか。
私たちを突き動かすものは——。
もしも、今近くに獣がいて襲われても悔いはない。そんな生きていることを喜ぶかのように戯れを楽しんだ。
遠くの方から鳥の鳴き声が聞こえる。木々が揺れる度に、ルカとくっついていたくなる。彼女の口内に紛れ込んでいると、寒さも和らぐような気がした。大丈夫。ずっと二人でいれば何とかなるよ、ね。
◇
いつの間にか眠ってしまったようだ。辺りには優しく陽が差している。
私の隣にはルカがいた。落ち葉をかき集めて、暖を取っている。頬には土が付いていて、親指で拭って取ってあげた。
喉が渇いたなぁ。昨日、無我夢中で走ったから——。
自然と、目の前にある湖に意識が向いた。
あの水、飲めるかな……。
立ちあがろうとした、その時だった。ルカの手が私の服の裾を掴んでいて、前のめりになってしまった。
「んんっ……」
どうやら起こしてしまったようだ。ルカは寝ぼけ眼で私をぼんやりと見る。
「おはよう」
「凪沙、どこ行くの? 行かないで……」
彼女はすがるように、私をギュッと抱きしめた。
あれ。なんか……いつものルカと違う!
まるで甘えん坊だ。ギャップを感じてドキドキしてしまう。
「あそこの湖だよ。水飲みに行くの」
「わたしも行く……」
「危ないからそこにいて。ルカ、怪我しているでしょ。まず安全なところかどうか、私が確かめてくるから待ってて」
「……」
右手から流れる血は止まったけど、まだ充分に痛いはずだ。どうか安静にしていてほしい。
ルカをその場に残して、私は湖に一歩ずつ慎重に近づいた。水面は朝陽がキラキラと反射していた。
近くでは小鳥が水を飲んでいる。なんだ。安全そうな気がしてホッとした。
湖のほとりに近づき、しゃがんでみると、水が透き通っていた。私のシルエットも薄く映っている。
——今も夢を見ているみたいだ。心はあのホテルの部屋の中だ。
ここは、どこなんだろう。
ガサッ。
後ろから何かの気配がした。誰か立っている気がする。
ルカ?
——いや、違う。直感がそう告げていた。
私をじっと見ていて、様子を伺っている。
振り向きたかった。だけど、動けない。
——もしかして、人じゃないかも。
自分の心臓の音が大きく聞こえた。
湖が大きく揺れる。もう一つのシルエットが顔を出すまで、時間がかかった。
「にゃあ」
「えっ?」
振り向いたら、私の愛猫——ゴロロがいた。
ホテルの部屋まで会いに来てくれた、愛しのゴロロ。
「にゃあ」
目を細めて、もう一つ鳴いた。
「な、なんで、ここに……」
「にゃあ」
ゴロロは愉快そうだった。
「家まで戻ってくれたの?」
「にゃあ」
ゴロロは言葉を喋れるわけではない。
お父さんやお母さん、雫に声をかけても、「にゃあ」としか伝わらず、きっと誰も私がここにいるとはわからないだろう。
——だったらと、ゴロロはきっと、もう一度私に会いに来てくれたのだ。
「ありがとう……」
無茶なお願いをしてしまった。
私はゴロロをギュッと抱きしめた。
背中にあるハートマークの模様が眩しかった。
「にゃあ」
ゴロロはご機嫌そうに、尻尾をゆらゆらと動かしてみせた。
◇
「わー! 元気だった?」
ルカがゴロロを見るなり、頭を撫でた。
湖の水を口に含んだら、普通に飲めそうで、ルカを呼んで水分補給をすることにした。
「にゃあ」
感動の再会だった。
しかし、ゴロロはすぐに立ち上がり、私たちに背を向けてゆっくりと歩き出した。どこに行くんだろう。もう少し休んでいけば良いのに。
ゴロロは焦ったそうに私たちを振り返る。かと思えば、前を向き少し歩みを進めて、またチラッとこっちを見た。
「——もしかして、森の出口まで案内してくれてるんじゃないの?」
ピンと来たルカが言う。
「そうかも!」
「それなら、早く行こうよ! 大地に見つかると大変だし」
ごもっともだ。水飲み休憩も急ぎで終わらせて、私たちはすぐにゴロロの後を追った。
森の中はしんとしているのに、不気味な気配がある。スマホがあれば、ここがどこか一発でわかるのかな。それとも電波すら届いていないだろうか。
ゴロロは真っ直ぐに歩いていく。木の枝も、盛り上がった土もすいすい飛び跳ねて前へと進んでいく。
視界が次第に開けてきて、一度は人が足を踏み入れたような道も見えてきた。ルカの背中を見つめながら、無心に歩く。
安堵の中、思考も整理されていく感覚があった。
「——ねぇ。ルカ」
気の緩みから、つい彼女に声をかけていた。
「大地がね。"羽本ルカは大きな嘘をついている"って言ってたんけど、そんなことないよね?」
「……」
何それーと笑い飛ばしてほしかった。
だけど、ルカは振り向かない。明らかに動揺しているのが伝わってくる。
「……ルカ?」
「——うん。わたし凪沙に嘘をついていたの。実は最初から」
観念したように口を開いた。
「えっ?」
思わず足が止まった。ルカがくるりと振り向いた。
何がおかしいのか、彼女は優しく笑う。今まで見たことがないような表情だった。ぐにゃりと視界が歪んだような錯覚に陥る。
「——ごめんね。凪沙」
ビー玉のような、まあるい瞳を直視することができなかった。ゴロロが遠くで、「にゃあ」と言う。頭が痛い。
その時、ひときわ大きな風が吹いた。落ち葉が一つ私の腕に引っ付いた。ルカの目が追う。スローモーションのようにゆっくりだった。
あっと思ったら、視界が真っ暗だった。
「凪沙!?」
私を揺さぶるルカの声が耳に届く。とても心配しているように見えた。
——ルカの嘘ってなんだろう。今、聞かないといけない。
なのに、目を開けることができなかった。意識が遠のく中、誰かの叫び声が聞こえたような気がした。




