第42話 神様、お願いします。
「……凪沙がそこまで言うなら、いいけど」
「ありがとう」
ルカは後ろ髪を引かれながらも、渋々とお風呂場に向かった。私は一人、ベッドのふちに座りながら、床に転がる腕時計をじっと見ていた。
ドアの前に人の気配がした。次の瞬間、ドンドンと乱暴にドアがノックされた。
私が返事をする前に鍵が施錠されて、扉が開かれる。
「迎えにきた」
ノックの意味ないじゃん。
大地は、昼間見た時となんら変わりない格好で私を上から下までジロジロと見た。
「……」
その場に立ち上がると、大人しく彼の元へと向かった。
これから、どんなことをされるのだろう。震える手をギュッと握った。
「——ねぇ。約束わかってるよね」
「あぁ。凪沙を好きにして良い代わりに、ルカを自由にさせてやるって約束だろ?」
「……」
わかってるじゃん。
「覚悟を決めたんだろ? なら、俺もしっかり約束を守ってやるよ」
「ありがとう」
大地の目を食い入るように見た。
……彼が嘘をついているかどうかはわからない。
けど、信じるしかないのだ。
部屋を出る前、ぐるりと辺りを見渡した。座り心地の良いソファー。かわいいテーブル。ぐしゃぐしゃに乱れた掛け布団にも、すべてのものに愛着を持った。
「行くぞ」
大地の合図を元に、部屋を出て行こうとした。
あれ。
——今、ルカがこっちを見ていて、目が合ったような気がした。
もう一度確かめようとしたら、無常にも大地がドアを閉めた。ガチャリとしっかり鍵もかける音がする。
目の前が真っ暗になったような気がした。
すぐに大地が強引に私の手を握ってこようとする。
「わっ……」
「いいだろ?」
気持ちが悪い。
だけど、振り解けなかった。
私は自分の運命を受け入れつつあった。
それからは二人で薄暗い廊下を突き進み、1階に降りた。絨毯の上を歩いていると、足元から冷えが伝わってきて、すごく寒い。
無常にも大地の手のあたたかさが際立つ形になった。
「なぁ」
大地が前を見据えたまま声をかけてくる。
「何?」
「"羽本ルカ"とは仲良くなれたか?」
「……うん。まぁ。それなりに」
大地に正直に答える義務はない。
「そっか」
彼は何が聞きたいんだろう。後ろ姿からは心情を読み取ることができなかった。
「——羽本ルカは、凪沙に大きな嘘をついているのに?」
「へっ?」
思わず大きな声が出てしまった。何それ。
……面白くない冗談。
「凪沙がここまでする義理はないと思ったから、言っただけ。なぁ。気付いてなかったの?」
大地はケタケタと笑う。
この人は何を言っているんだろう。
その時、私の体に鈍い痛みが走った。まるで、このホテルに連れてこられてすぐに感じたような衝撃だ。
思わず、歩くスピードも遅くなる。
月明かりに照らされた大地の顔は、恐ろしいほど白かった。
「——羽本ルカとの生活が楽しかったとしたら、それは夢を見ているにすぎないということだ」
話が見えない。
おかしなことを言わないでほしい。
——なのに、彼から目を離すことができない。
——ルカが嘘をついている?
そんなはずはない。
だって、彼女は——。
あれ。どうしよう。私はルカの何を知っているのだろう。
あの部屋で過ごした時間は大切でも、何が真実で嘘かどうかは、確かめる術は一つもないのだ。
むしろ、ここに連れてきた大地の方が、私たちの情報を深く知っているというものだ。
そのことに気付いて、今更ながらゾッとした。
パリン。
——あれ?
何か今、音がしなかった?
大地が天井を見る。微かに振動がする。
だけど、耳を澄ましても正体はわからなかった。
「——まぁいい。行くぞ。交渉は成立した後だからな」
再び大地が私の手を強引に引いた。
「それにしても、今日は月が綺麗だな」
彼に言われて、窓を見ると空には、まん丸な月が浮かんでいた。憎らしいほど完璧な円の形をしていた。
「……素敵な夜になりそうだ」
気持ちが悪い。
私は今頃、ことの重大さを理解した。この人の何もかもが嫌いだった。
大地の動きがピタッと止まると、私に向き直り、顔を近づけてきた。
えっ。まさか、ここでキスするつもり?
嫌だ。嫌だ。だけど私に拒否権はない。
目をギュッとつぶると、目尻に涙が浮かんだ。
——その時だった。
信じられないぐらいの衝撃音が間近で響いた。鼓膜が破れるくらいだった。
思わず大地が私から手を離した。
ホテルが大きく揺れるのを感じる。だけど、すぐに収まった。
窓からは、ぼんやりとした四角い物体が見えた。
「——はっ?」
彼は窓にべたりと両手を付けている。
大地がポケットからスマホを取り出し、ライト機能を使って、辺りを照らした。窓の向こうに、浮かび上がるものがある。
……ベッドのマットレス?
何で? 私は息が詰まる思いがした。
——次の瞬間だった。
白いマットレスの上に何かが落ちた。
人? もしかして——。
「あっ。おい!」
私は、いても立ってもいられず、窓を開けた。暗闇に目を凝らしてみると、なんとそこにいたのは——ルカだった。
血の気が引いた。なんで。どうして……。
彼女は、ぐったりと倒れて動かなかった。
「いやーーーーーーーーーー!!!!」
私の叫び声が、夜の森に響く。
大地は急いで、外に出ようとした。私を廊下に残して、一人暗闇を進んでいく。
私は腰が抜けてしまい、ろくに立っていることさえできなかった。
そういえば鬼ちゃんが言っていた。
同室だった西奈という女の子が飛び降り自殺をしたということを。彼女はそのことを、とても後悔していた。
まさか、ルカが自殺——。
嫌だ嫌だ嫌だ。
どうか無事でいてほしい。
神様、お願いします。私のすべてを差し上げるので、どうかルカを救ってください。




