第40話 最後の夜
「——コーヒーでス。織川さん、ブラックは飲めますカ? 真里さんのは砂糖たっぷり入れておきましタ」
「ありがと〜♪」
ちょうど良いタイミングで、アイリスがティーカップを持ってきてくれた。だから、話はそこで途切れた。
華やかで香ばしい香りが部屋中に漂う。
今夜、私は大地の部屋に行く。そこで彼に酷い目に遭うことになっている。
もしかしたら、生きて帰ってこれないかもしれない。
だけど、その代わりにルカが自由になる。夢に向かって邁進できる。だから、それでいいと思った。
今、鬼ちゃんが明るい未来を想像するようなことを言ったからかな。きらめくような幸福に、胸がときめいてしまった。
——もしも、もしも私も自由になれて、"女優"になることができたら、テレビに映ることができるかな。
そしたら、鬼ちゃんは見ててくれるかな。「私の夢が叶った!」と思ってくれるかな。
ティーカップを持つ手が震えた。
「ねぇ、アイリス。何かお菓子ないのー?」
鬼ちゃんがソファーに深く座り、子どものように駄々をこねた。アイリスは、そんな彼女を愛おしそうな目で見ている。
「はイ。ただいまカナダ産の高級チョコをお持ちいたしまス」
「ワーイ! 太っ腹♪」
それは、このホテルに来てから、一番美味しいと感じたスイーツだった。アイリスはいつもは庶民的なお菓子しか出さない。今日は特別に、スペシャルなチョコを出してくれた。
甘味が私を優しく包み、迫り来る悪夢をひと時でも忘れさせてくれた。
◇
お茶タイムが終わった後、私は自分の部屋に戻った。そしたら、ロミオが出迎えてくれた。
メガネをかけており、何やら難しそうな本を読んでいる。
「相手の方は、お風呂に入られてますヨ」
本から顔を上げて、私に囁いた。
「そうなんだ」
「ロミオ。あとはワタシが見ておりますので、下がって大丈夫ですヨ」
「かしこまりましタ」
アイリスがロミオに指示を出すと、部屋から静かに出ていった。きっとアイリスの方が先輩なのだろう。微かな上下関係があるのを感じた。
「織川さン」
「何?」
「今日の夜ご飯、何が食べたいですカ?」
「えっと。……うどんかな」
食欲はなかった。
リクエストできるなら、せめて喉越しが良いものを食べたかった。
「——そうですカ。かしこまりましタ」
アイリスは俯きながら言った。
いつもは食べたいメニューなどを彼女から聞かれることはない。
もしかして、気を遣われているのだろうか。
「——ねぇ、アイリス。今日、夜ご飯を食べた後、ルカと二人きりにさせてくれない? 部屋には絶対に来ないでほしいの」
「……かしこまりましタ」
「ありがとう」
アイリスはすんなりと受け入れてくれた。——私の真意が伝わったのだろうか。
「凪沙!」
ルカがお風呂から上がったようだ。
私を見るなり、はしゃいだ声を出す。
……あれ?
彼女はドレス姿だった。レースがふんだんに使われた豪華絢爛な赤いドレスは、ルカによく似合っていた。
それは、彼女がこのホテルに連れ去られた時に着ていたものだった。
「綺麗……」
「あはっ。ありがとう」
私は、お姫様が魔法のように目の前に現れたことで、完全に照れてしまっていた。
ルカはスカートの裾を両手で持ち、敬意を表すように軽く会釈してみせた。
ああ、神様。どうしてこの子を手放さなければならないの。
そんな言葉が、喉の奥で溶けて消えた。
◇
「だからって、凪沙も制服着ることないんじゃない?」
「別にいいじゃん。私の勝手でしょ」
どうやらルカは、ジャージを着ることに飽きてしまい、ドレスを手に取ったらしい。
"正装"に合わせるように、私もお風呂に入った後、彼女に初めて会った時に着ていた服を選んだ。
夜ご飯の、うどんを二人で仲良く食べた。あたたかいスープは喉を通り、お腹を優しく満たしてくれた。
「凪沙にかまぼこあげるわ」
「ありがとう」
ルカが私のお椀に渡してくれる。どういう風の吹き回しだろう。ただ単に苦手な食べ物を渡したと言われればそれまでだけど。
彼女の気遣いが、何か特別な意味があるように見えてしまい、少し涙が滲んだ。
夜ご飯を食べ終わった後、アイリスがお皿を取りに来てくれた。
じっと私を見つめた後、静かに部屋から出て行ったのが印象的だった。
「ねぇ、凪沙。なんで腕時計なんかしてるの?」
——バレていた。
長袖だから見えないと思い付けていたけど、目ざといルカに見つけられてしまう。
彼女は私に近づくと、腕を掴んだ。
「今って……20時35分ってこと? これ誰の?」
ルカは無垢な瞳を向けてくる。
「私の! その、制服のスカートのポケットにずっと入れていたの忘れてたの!」
「ふーん?」
ルカは納得いかない顔をしながらも、私から手を離した。その後、ベッドのふちに腰掛ける。
ドレスに皺が寄るのも気にしていないようだった。さながら、気品溢れる気だるい姫という感じだ。
私はそっとルカに近づいた。相変わらずまつ毛が長くて、羨ましい。艶がある唇に意識が向いてしまう。
目と目が合うと、もっと彼女に近づきたいと思った。前屈みになって、キスをしようとしたら、「鬼原さんと何話してたの?」と言われてしまった。
「えっ。べ、別に……」
「わたしに聞かせられないこと?」
「……」
ルカを見ると、眉間に皺が寄っていた。
ま、まずい。
——大地に抱かれる前に、ルカと甘い夜を過ごしたかった。
なのに、初っ端から嫌な空気が流れ始めている。




