第38話 約束
「アイリスをここに呼んでもいい?」
「どうして?」
大地は顔を歪める。
「言った、言わないって、話がこじれる可能性があるから。せめて第三者に聞いておいてもらう必要があるの」
「……」
契約書を書いて貰うことも考えたけど、ここでは何の効力も持たない気がした。
また、アイリスを呼んだとしても、約束が守られない可能性は十分にある。
大地はプライドが高そうに見えた。だからこそ、自分の支配下にあるロボットの前で誓うことが、何よりも効果を持つと思ったのだ。
彼は渋々ながらも了承した。
程なくして、アイリスが部屋にやってくる。
アイリスは大地を凝視して、目を離さなかった。しかし、すぐにいつも通りの、生真面目な振る舞いをする。
「早速だけど——」
私は本題に入った。
アイリスは黙って話を聞いていた。
「——ということなんだけど、証人になってくれる?」
アイリスは長い間を置いてから、「かしこまりましタ」と言った。
「ワタシはロボットでス。今の会話をログ記録させていただきましタ。"大地"きちんと誓っていただけますカ?」
「あっ?」
アイリスに呼び捨てされたことで、大地がキレる。だけど、大人気ないと思ったのか、グッと堪えて「わかったよ」とだけ言った。
「凪沙にこれをやるよ」
大地が机の中から何かを取り出して、私に手渡した。
それは緑色の光沢の入った腕時計だった。時刻は3時10分を示している。お昼ご飯を食べた後だったから、今は15時10分であることがわかる。
このホテルに来てから、時計を見たことがなかったから、ついマジマジと見てしまう。
「今日の夜、日付が変わったら、部屋に迎えに行くから」
「えっ」
「言ったじゃん。明日だったらシてもいいって」
「……」
確かに言った。だけど、次の日になった瞬間だとは思わなかった。
私は唇を噛み締める。——だけど、自分が言ったことだ。
「わかった……」
了承するしかなかった。大地は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「——アイリスも聞いていたな?」
「はイ」
「よし。じゃあいつも通り、凪沙を部屋まで送っていって」
「かしこまりましタ」
頭がクラクラする。だけど倒れないように、足に力を入れていた。手が冷たく、現実にいるとは思えない感覚だ。
アイリスに連れ去られるようにして、長い廊下を歩き、階段を登った。
「アイリス、さっきはどこに行っていたの?」
「真里さんのところでス。居ても立っても居られず、会いたくなってしまったんでス。まさか、織川さんが、大地の部屋にいるとは思っていませんでしたガ」
「アイリスが、私を置いていくからだよ」
完全に八つ当たりだった。だけど、アイリスは私を優しく受け入れてくれた。
「はイ。ワタシ、どうにかしていましたネ」
彼女が私の隣に並んだ。いつもは前後ろで引き連れて歩く形なのに。変なの。目のふちに涙が溜まりそうになった。
「——あノ。織川さン」
「んっ?」
「正気ですカ?」
まるで心配する人間の声のようだった。私は服の裾をギュッと握った。
「うん」
「そう……ですカ」
アイリスは俯き、何か考えているように見えた。フシューフシューという音は、もう聞こえない。
「——でも、織川さんは、"羽本ルカ"が好きなんですよネ?」
アイリスが顔を上げて、真に迫ったような口調で言った。
うん。そうだよ。
——なんて、バカ正直には言えない。
だって、ルカとのお別れが決まっているんだから。恋心なんて芽生えても、邪魔なだけ。彼女の将来に私は必要ない。
アイリスは続ける。
「大地に何されるかわからないんですヨ? 嫌じゃないんですカ?」
「——そりゃあ、死ぬほど嫌だよ」
その言葉を吐きながら、心のどこかで、もう戻れないことを知っていた。
「だったら——」
「いいの。ここに連れてこられた時点で、無事に出られる保証なんてないって覚悟は決めていたから」
そうだ。このホテルで目覚めた時、私は人生最大の絶望感を味わった。
それでも今まで元気に過ごせたのは、ルカのおかげだった。天真爛漫の彼女に何度助けられたことか。
大地が約束を守ってくれたら、ルカは自由になれる。女優になるという夢に向かって、確実に一歩近づける。
「——織川さン」
「んっ?」
「もしも、大地が約束を破棄するような真似をしたら、ワタシにできる全力のことを彼にしまス。だから安心してくださイ」
「ありがとう」
アイリスが味方になってくれたなら百人力だ。私は心から感謝した。
腕時計を見ると、15時31分だった。私に残された時間は後わずかだ。
「アイリス。鬼ちゃんのことも頼んだよ」
「はイ」
「幸せにしてね」
「——はイ」
アイリスは噛み締めるように、ゆっくりと頷いた。手と手を合わせており、それはまるで神聖な儀式のようだった。
「……このままトレーニングルームに行っても良い?」
「もちろン。皆さん、お待ちしてますヨ」
私たちは階段を登り終えると、長い廊下を再び歩いた。
使い古したように見えるのに、手入れがきちんと行き届いている絨毯も、見渡す限り緑が見える窓からの景色も、すべてが蜃気楼のようだった。




