第36話 絶望の淵
「——昨日、大福やミネラルウォーター。それに睡眠薬を差し入れされていましたよネ?」
全部アイリスにバレていたのだ。
「ははハッ。何も、脅しているわけではありませんヨ」
アイリスが愉快に笑う。
ちっとも面白くなさそうで、かえって恐怖感を植え付けられた。
「——真里さんがしたことですかラ」
「——見逃してくれるの?」
「見逃すも何モ。ワタシは命令に従っている存在ですのデ」
「アイリスは——大地と鬼ちゃんの命令だったら、どっちの言うことを聞くの?」
「おかしなこと聞きますネ」
アイリスが無表情になる。
次の言葉を待った。だけど、アイリスは中々口を割らない。
——それが答えのような気がした。
「鬼ちゃんって、大地のことが好きなんだよね?」
「はイ。そうでス」
私たちは何事もなかったかのように、再び廊下を歩き出した。
やがて自分の部屋が見えてくる。ドアを開けると、ベッドの上の掛け布団がぐしゃぐしゃだった。
先ほど部屋を出た時と何一つ変わっていない状況にホッとした。
「アイリスは大地に嫉妬する?」
「——嫉妬、ですカ?」
「うん。だって好きな人に好きな人がいたらさ苦しいじゃん」
「そういうものなんですカ?」
アイリスに言われてハッとした。
私って恋人ができたことないと言いつつ、そもそも人を好きになったことがあるのだろうか。
好きな人に好きな人がいて、胸が痛んだ経験なんて、今までしたことがないように思う。
そこまで振り返って、不意にルカの顔が頭に浮かんだ。
アイリスに恋愛中級者みたいなことを言えたのも、きっとドラマから得た知識によるものだろう。
あけぼのの恋の壱子も、東雲丸の結婚を約束している幼なじみに嫉妬の炎を燃やしていた。
——そうだ。私って初恋すらもまだだったのだ。
冷静に分析しながらも頭の片隅には、しっかりルカがちらついていた。
「織川さン?」
アイリスが困ったような表情をしながら声をかけてくる。
「ごめんごめん。うん。恋って"そういうもの"なんだよ!」
人間がロボットに唯一、勝っているところと言えば、感情の深さだろう。そこを主張するように、つい偉そうな口ぶりになってしまった。
「——そうですカ」
アイリスは下を向く。
「ワタシが真里さんのことを好きなら、大地様に嫉妬しないのはおかしいですよネ。——なんだか急にムカムカしてきましタ」
「えっ?」
アイリスの頭からはフシューフシューと音がする。それは身体中で怒っているように思えた。
「大地様が憎イ。大地様が憎イ。大地が憎イ……」
「ちょっ!」
アイリスは私を部屋に残したまま、勢いよく飛び出した。突然のことに、びっくりしてしまう。
ドアからこっそり顔を出してみると、廊下はしんとしていた。人の気配はまったく無い。
「……」
私の心拍数は上がっていた。もしかして、自由にホテルを歩き回れるチャンスかもしれない。
ルカとここを脱出するための手がかりが掴めるかもしれない。
私はアイリスとは反対方向に廊下を進んだ。できるだけ音を立てないように慎重に歩く。
同じ階にはいくつか部屋があるけど、人の気配は感じないから、誰も住んでいないのかもしれない。
階段に行き当たると、一段一段、ゆっくりと降りようとした。五段目あたりでミシッと音がした時は、ヤバいと思った。
しかし、誰も追ってくる気配はない。
ここは何階なんだろう。どこが出口なのかな。
とりあえず一階に向かう決心をした。
最下段に足をついた時、青い絨毯の長い廊下が目の前に現れた。
私の心臓は相変わらずバクバク言っていた。
忍び足で廊下を歩くと、ドアが半開きになっている部屋があった。
好奇心から覗いてみると、アイリスやロミオとそっくりなロボットが整列していた。
誰も微動だにしない。覇気がなかった。その光景はとても不気味で、思わず鳥肌が立った。
「——おい」
心臓が止まりそうになった。
低い声に驚き、振り向いてみたら、そこには——大地がいた。全身黒ずくめの服で、首にはドクロのネックレスを付けていた。
久しぶりに彼の顔を見た。本能が私に「逃げろ」と言っていた。それなのに足が動かない。
「えっと。その……」
上手い言い訳が思いつかなかった。汗はダラダラと額をしたたる。何も考えられなかった。
「アイリスはどうしたんだ」
大地が独り言のようにぼやいた。
「……」
「アイツ、使えないな。処分してやろうか」
彼は怖いことを言っている。愛想笑いを返すこともできない。
「——なぁ。凪沙、俺から逃げようとしているだろ?」
あっと声を上げようとしたら、大地が距離を詰めて、腕を強引に掴んだ。
「なぁ。なんとか言ったらどうなんだ」
握りつぶされてしまいそうだった。
「い、痛い……。は、離してください……」
大地はため息をつくと、掴む手の力を緩めた。
えっ。
そのまま私から離れた。
まさか、本当に解放してくれると思わなかった。
「いいよ。そのまま、このホテルから出ても」
大地は人の良さそうな笑みを浮かべた。
——本当に?
信じられない気持ちでいっぱいになる。嬉しさで顔がほころぶ。しかし、彼の次の言葉が私を絶望の淵に落とす。
「その代わり、"あの子"を殺す」
物騒な言葉を吐き捨てた。




