第19話 突然
冷静になった今、ルカにキスされたことを思い出す。泣いていたからと言って、普通むやみやたらに唇を奪ったりしないだろう。
女優としての経験を積むために、あのキスをしたんじゃないかと思った。
「——あれは演技じゃないんだけど」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ。わたしがしたかったからしただけ。本心からの行動」
「……」
「まぁ。演技に見えたなら、そう思ってもいいよ。力説するほど嘘くさく見えるし」
ルカは何ともないような顔をして言う。
……。
じゃあ、演技じゃないことにする! 本人にはわざわざ言ってあげないけど。
「——ねぇ。ルカは男の人の演技とかできるの?」
雰囲気を変えたくて、話を振った。
「できるよ」
間髪入れずに彼女が答える。
「へぇ。そうなんだ。見たいなぁ!」
「えー。どうしようかなぁ〜」
ルカはもったいぶる。でも、口元がニマニマしているのがわかる。
「お願いします! ルカ様!」
「し、仕方ないなぁ」
ルカはくるりと後ろを向いた。あーあーと、喉元を押さえている。その声は、先ほどよりも低かった。
「——明るい壱子ちゃんから応援されると僕なんだってできそうな気がするんだ! ねぇ。ちゃんこ食べる?」
「おおー!」
ルカは私に向き直ると、東雲丸を完璧に演じた。耳に残るような渋い声。
彼女は両手でちゃんこをすくうような素振りを見せる。本当に湯気が立つ茶碗が見えるようだ。
「——赤くなってないから! っていうか、まわし返してよ!」
次にルカは、頬を赤らめて、焦ったように右手を差し出した。
それは壱子が東雲丸のまわしをイタズラに隠すシーンだった。ルカのおかげで、壱子が舌を出す場面も同時に思い出すことができた。
「——壱子ちゃんは金魚描くのが上手いなぁ。……えっ。これ馬なの? 本当?」
次にルカは目を丸くして、とぼけたような表情を見せた。
私は思わず笑ってしまう。
壱子は文房具屋の娘なのに、絵が下手なのだ。
ルカが丁寧に演じてくれることで、あけぼのの恋の名シーンが、生き生きとよみがえる。
最高。あー。おかしい。
「——なぁ。何してんの?」
低い声が部屋の中に響く。ルカが、ぴたりと動きを止めた。
私は最初、彼女が演技の続きをしているのかと思った。だけど、明らかな"男性"の声に違和感を覚える。
部屋にドンドンとノックの音が響く。それは力強く、張り裂けるようだった。
私とルカは顔を見合わせると、息を殺して、ドアの前まで近付いた。
——誰も返答しなかったのに。向こう側にいる人は、躊躇いもなくドアを開けた。
「えっ」
それは顔も見たことがない男性だった。明るい茶髪で、顎に髭が生えていた。身長が高くて180cm以上はあるように思う。ブランドロゴが入った黒色のTシャツと、ジーンズを履いていて、首には金色のネックレスをジャラジャラと付けていた。
その男性は、私たちを交互に見比べてから、薄く笑った。
「——誰ですか?」
ルカが怯むことなく声をかけた。私はというと立っているのもやっとだった。怖い。
「俺は大地」
男性は最低限の言葉を発した。すかさずポケットに手を入れる。微かにタバコの匂いが漂ってくる。
——大地。どこかで聞いたことがある。
あっ。
北村さんと五十嵐さんが口にしていた人の名前と同じだ。確かクラブを経営していると言っていた。
それに二人が、「恋愛経験がない女の子を連れてきたら〜」「+αもある」などと怖い会話をしていたことを、今更ながら思い出した。
息が乱れた。
きっとこの大地が、私をここに連れてきたのではないか。
どうして? 何で? 考えれば考えるほど、疑問が増えていく。
何をされるのだろう。嫌な予感がした。
「ねぇ、ここから出してよ」
ルカは冷静な顔をして、大地に話しかける。
「——駄目だよ」
「どうして?」
「俺が決めたことだから」
"大地"は見た目に反して、落ち着いた声で喋った。私たちに言い聞かせるように、優しく諭す。
「何それ! 庭に出るくらい良いじゃん!」
ルカは一歩前に出る。無防備にも、大地の横を平気な顔をして通り過ぎようとした。危ない。
「ちょ、待って……」
私はルカに手を伸ばそうとする。
「駄目だよ」
そしたら大地が素早く立ちはだかる。眉間にシワを寄せて、機嫌が悪そうだ。
——それでもルカは、強引に部屋から出ようとした。
「きゃ」
言うことを聞かなかったからだろう。ルカの腕を大地が強く掴んだ。青い顔をした彼女の動きが止まる。
明確な力の差がある。体力では、私たちは大地に勝てる見込みはない。
「痛い痛い……」
ルカが苦痛そうに顔をしかめている。居ても立っても居られなかった。
「……ルカを離してください!」
二人の間に割って入った。
「ルカ?」
「その女の子です!」
「………………へぇ。じゃあ、二人とも大人しくしててよ。まず、そこのソファーに座って」
入り口から離れさせるように、大地は私たちに指示を出した。もう、彼に従う他なかった。




