第17話 監視
ルカはすぐに実行に移してくれることはなかった。数秒間、沈黙を貫いた後、私の手を取る。
彼女は今、何を考えているのだろう。ぴくりとも動かない。
やがて唇を、私の手の甲に静かに押し付けた。投げやりで仕方なくという感じだ。敬意がまるで感じられない。
「何するの」
私の右手は言うことを聞かずに、そのままルカの口の端を掴んでいた。
彼女が口をぱくぱくさせるから、親指がぬるっと中に入る。湿っていて、気持ち悪い。——だけど嫌じゃない。軽く、くいっと引っ張ってみると、キッと睨まれてしまう。
「わっ」
ルカは、私の親指を噛んだ。怒ったのだろう。
指先から鈍い痛みが伝わってくる。飼い犬に手を噛まれるって、こういうことかな。……いや違うか。
そのまま手を引っ込めるのも癪だった。
だから、人差し指でルカの上唇をいたずらに触った。肉つきがよく、ぷるんとしている。
「……」
ルカは何も言わない。もしかしたら呆れているのかもしれない。
軽く覗いた前歯をなぞった。特に意味はない。彼女の中に侵入する微かな快感があった。
きっと昨日、ルカに強引にキスされたことから、私たちの境界線は曖昧になってしまった。
普通だったら——学校でだったら、絶対にこんなことしない。唯ちゃんに触れるなんてもってのほか。部活の後輩の中でも仲が良いゆーちにも、絶対にこんなことはしない。「先輩、軽蔑します」なんて吐き捨てられて、嫌われるのがオチ。
ルカになら、自然とできてしまうから不思議だ。
何故だろう。二人しかいない空間だからかな。
嫌だな。自分の中の意地悪な一面が垣間見えたみたいだ。だけど、そんな感情に浸る暇もないほど、ドキドキしている自分がいることに戸惑っている。
もし、この光景を誰かに見られていたら、どうしよう。
——あれ?
なんで私は誰にも見られていないと思ったのだろう。
そんなわけない。
こんな特殊な状況。きっとどこかで——。
「——監視カメラがあるはずだよね」
「ふぇっ?」
私はルカの口の中から手を引き抜いた。彼女はその場にぺたんと力が抜けたように座った。涎が垂れている。
「だって、ここに閉じこめた人からすればさ。絶対、様子気になるじゃん!」
自分で言っていて、鳥肌が立った。
私はすぐに立ち上がり、部屋の中を慌ただしく駆け回った。天井の隅やマットレスの隙間など、怪しいところすべてに目を走らせる。
「なぁにそれ、犯罪じゃん」
「犯罪だよ」
トイレやお風呂も回り、監視カメラがあるかどうかをチェックした。
——裸、それに昨日のキスも、誰かに見られていたのではないか。そんなことが頭をよぎり、ゾワっとする。不快感が、全身を一瞬で突き抜けた。
「別にさ、見られても良くない?」
いつの間にかルカが私の後ろに立っていた。
「はぁ?」
「人間として普通のことしかしてないでしょ?」
ルカが唇の端を上にあげて言った。私は彼女の顔をじっと見る。
「凪沙は、自分の部屋に監視カメラを仕掛けられたことってある?」
「な、ないよ!」
「わたしはある」
「えっ……」
「父親に付けられていたの。ふふっ。最近まで知らなかった、わたしも馬鹿よね」
「……」
何かの冗談かと思った。だけどルカの真剣な瞳を見ていると、どうやら茶化しているわけではないことを知った。
「寝ている時も、着替えている時も、何している時もカメラに見張られていたのよ。そんなことを知ったら、家が安心できる場所じゃなくなるのは当然のことよね」
「……」
「だから、ここはまだ良い方でしょ! むしろ、最初から怪しいことを教えてくれているくらいだし? むしろ信頼できると思うわ。ふふっ」
ルカが人差し指に髪の毛をくるりと巻き付ける。戯れるように、丸く円を描く。彼女は遠い目をしていて、やがて長いまつ毛をゆっくりと伏せた。
「——わたし達がカメラで見張られていたとしても、いずれ、それが証拠となって罰される。だから別にいいじゃん。何も怖いことないわよ」
「……」
「学校もそうじゃない? 教室に監視カメラはないけど。いつも人の目に見張られているような環境じゃない」
「……確かに」
ルカの言うことは一理あった。
「人の輪からはみ出したら駄目。勉強ができなくてもバカにされる。あぁ。もう息が詰まりそう。——そう考えたら、ここには、凪沙しかいないから気が楽ね。なんて。ふふっ」
ルカは心から楽しんでいるみたいに笑った。
「……」
私は、その場にへたり込んだ。
これだけ探しても、監視カメラのようなものは見当たらなかった。もしかして無いのかな。……いや、安心はできない。
ルカは父親に監視カメラを付けられていたと言っていた。
私の親がそんなことをしたら、どう感じるだろう。……気持ち悪い。きっと誰のことも信じられなくなるだろう。
「何で」
「んっ?」
「何でルカのお父さんは監視カメラを仕掛けたの?」
「……」
込み入ったことを聞いただろうか。でも気になったから、思わずルカに問いかけていた。
「わたしが……」
ルカが息を呑む。
「——嘘つきだったからかな」
「……」
「カイエンと会うっていう約束も平気で破るし、家族団らんの時間も、一人部屋にこもって映画ばっかり観ようとするし。ふふっ。一人娘のわたしを、ずっと見張っておきたかったんでしょ」
そこから先は、踏み込むことができなかった。ルカが切なそうに笑うから。
変なことを聞いてごめんねというのも違う気がして、「そっか」と淡白な相槌を打った。
指には、ルカの唾液が微かについていた。そのうち乾いて、本当に何もなかったことになってしまうだろう。




