9話 初授業とお漏らしアンドリュー事件
地図を見ながら小走りでたどり着いたアンジェラは授業開始の鐘が鳴るギリギリに教室に滑り込んだ。
小さな部屋にはすでに4人の同級生が席についており、息を整えながら急いで空いている椅子に座ると、その直後にガチャリとドアが開き先生が入ってきた。
「皆さん迷わずに来られたようですね。よかったよかった」
優しげに微笑む男性は、濃いブラウンの髪を後ろに低い位置で一つに結んでいる。歳はアンジェラの両親より祖父母の方が近そうだ。
「これからあなたたちの国語を担当するジョン・スミスです。と言っても半年後には全教科で一度テストをしてそのあとは能力別のクラスになるから変わっちゃうかもしれないんだけれどね」
それがエイルズベリー校の授業の特徴でもあった。
パブリック・スクールと呼ばれる学校は大抵少人数制を取っており、ここでも一クラス教師1人につき生徒は5、6人と決まっている。
ただ他校と違うのは入学時に筆記テストを行わないため入試の面接での受け答えを参考に最初のクラス編成をし、半年間の勉強進度とテスト結果に担当教師の所感を加味して1年後期から習熟度別授業となる。
「さて、ではさっそく授業を始めていこうかな。国語といえば今あなたたちが話している言葉はこの国の言葉、バービカン語だね。でもこの学校のように私立学校のことを『パブリック・スクール』寮監のことを『ハウス・マスター』と言うよね。これは実はバービカン語ではないんだ」
普通に使っている言葉がバービカン語じゃないというのはどういうことだろう。
アンジェラはこの授業にすぐ引き込まれた。
「これは古語なんだ。この国は昔々二千年近く前はヴェノバ帝国という大きな国の一部でね。『パブリック・スクール』や『ハウス・マスター』という言葉はヴェノバ帝国のヴェン語の言葉をそのまま使っているんだ。それを専門的に言うと『派生語』とか『継承語』と言うんだけどね。『パブリック』というのはバービカン語で言うと公共の、というような意味があって、『スクール』は学校という意味なんだ」
説明しながら先生は黒板を書いていき、それを書き写すように生徒に指示した。
さっそくアンジェラもノートを開きペンを持ち書いていくと、はて、と重大なことに気づき手が止まった。
(『パブリック』も『スクール』も知っているわ。『ハウス』も。家って意味よね?)
先生の説明を聞いていくと、アンジェラの推測は当たっていた。
(思い出そうとすれば思い出せる……。これはリンコさんの記憶だわ。リンコさんの世界では『エイゴ』と呼ばれていたもの……)
なぜ『エイゴ』とヴェン語が同じなのか。
とても気になる謎が生まれてしまったが、これを質問したとて先生を困らせるだけだろう。
アンジェラはその疑問は箱に入れてフタをすることにした。
「エイルズベリー語を学ぶ上でヴェン語も欠かすことはできない。だから3年生からは国語の授業に古典というものが入ってくるのだけれど、その授業ではヴェン語を学ぶからね」
(なんですって!?)
アンジェラはリンコの記憶を辿ってどれだけエイゴを知っているか確かめてみた。そして──
(ちょっと、私……反則かも……!?)
多分、明らかに普通の1年生より知り過ぎている。
(まぁ、3年生になる頃にはこの替え玉生活も終わっているでしょうし)
それは悲しいけれど、ちょっとの安堵もあった。
◇
国語の授業後、その事件は起こった。
「おい、アンドリュー。おまえよくノコノコこの学校にこられたな。というかおまえみたいなやつもこの学校に入学できるなんて、ここもレベルが落ちたんじゃないか?」
アンジェラが教室を出ようとした時、後ろから揶揄うような声色が響いた。
振り返るとニヤニヤとこちらを明らかにバカにした態度を取る男の子が立っていた。
(アンドリューを知ってる……? ってことはプレスクールで一緒だった子? 先生にはロバートって呼ばれていたかしら)
「何か用?」
アンジェラに堂々と切り替えされて、ロバートは怯んだようだったがそれでも態度は崩さなかった。
「なんだよそのたいど! おもらしアンドリューのくせに!! おい知ってるか? こいつプレスクールで年長組のくせにおもらししたんだよ!」
彼はまだ教室に残っていた他の子らも巻き込み始めた。
「へっ? へぇー」
巻き込まれた生徒は咄嗟に答えながらも少し見下すような目になった。他の子らは困惑の表情を浮かべている。
「おい! はずかしくないのかよー?」
ロバートはなおも煽るが、アンジェラに羞恥は全くない。だって自分がしたことではないから。
ただ返答には少し困った。単に恥ずかしくない、と言うのも違う気がした。
「人の失敗をそんなふうに揶揄うのは良くないと思う」
「なっ! なんだよおもらしアンドリューのくせに!」
諭されたロバートは顔を真っ赤にして怒る。
「いつまでも失敗を責めるのもダメだと思う」
「なんっ、なんなんだよ!」
淡々と言い返すアンジェラにロバートは地団駄を踏んだ。顔には『こんなはずじゃない!』と書いてある。
これ以上何も言ってこなさそうだと思ったアンジェラは部屋を出ようと踵を返した。
「ちょっ、待て!」
言い負かされたままにしておけなかったロバートがアンジェラの肩を強く掴んで振り迎えようとした。
「きゃっ」
小さく漏れた悲鳴。体勢を崩されて落ちた筆箱から鉛筆が転がる。
「はっ! きゃあだってよ! おんなかよ」
嘲笑いながら落ちた鉛筆を踏む。
綺麗に削った新品の鉛筆の先がパキリと折れた。
(悔しい悔しい悔しい!! どうしてここまで言われないと、されないといけないの!?)
悔しさで涙が滲む。
(お兄様もこんな目に遭っていたの?)
だとしたら家から出てこられなくなるのも理解できた。
「拾って」
「は?」
「拾ってよ」
「っ、なんだよ」
「鉛筆。あなたのせいで落ちたんだから拾ってよ!!」
アンジェラは負けっぱなしでいられる性質ではなかった。
「なっなっ! おまえ!!」
ロバートがアンジェラに掴みかかったところで、ガチャリと教室のドアが開いた。
「あれ? まだ人が……ってお前たち何をやっているんだ!?」
上級生が入室してきて、その光景を見てすぐ2人を引き離した。
「何があったか問い正したいが次の授業まで時間がない。お前たち、所属する寮と名前を言え」
詰問され、その場にいた全員が大人しく従った。
「僕が各寮監に報告しておく。今日の夜、それぞれ事情を聞かれるだろうからそのつもりで。では早く次の教室に向かいなさい」
何かを言える雰囲気ではなく、ロバートはアンジェラを睨みながら出ていった。
アンジェラは鉛筆を拾って筆箱に片付けた。
綺麗だったものが汚され、ただただ腹立たしかった。
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