26話 最初で最後の社交界
翌日にデビュタントを控えた邸宅の食卓は、活気がありそうなのに、むしろいつもより静かだった。
アンジェラはスープを口に運びながらも、胸の奥がざわついていた。
昼間のドレス合わせとマナーの復習でくたびれ切っているはずなのに、神経は昂っている。
ただ、自分のことにいっぱいいっぱいで食卓の空気には気づかない。
燭台の炎がゆらゆらと揺れ、食卓に並んだ銀器が光を返す。
マリアナは終始穏やかに笑っていたが、その笑顔にもはどこか影があった。
アンドリューは食卓の異変を感じながらも口に出すのも憚られ、黙々と料理に向かっていた。
食後、デザートが下げられると、アンジェイが静かにナプキンを畳み、姿勢を正した。
「……アンジェラ、アンドリュー。話しておかねばならないことがある」
低く落ち着いた声に、部屋の空気が引き締まる。
アンジェラはフォークを置いて動きを止めた。
「アランドル家は、アンジェラの卒業をめどに、爵位を返上し、平民となることにした」
マリアナが静かに目を閉じ、アンドリューがわずかに眉を下げた。
アンジェラはしばらく理解できずに、ただアンジェイの言葉を反芻した。
「……爵位を、返上?」
「そうだ」
アンジェイは淡々と続けた。
「すでにマリアナとも、親戚とも話を済ませてある。アンドリューの協力と、アンジェラの学校での努力もあって社交もうまくいき事業は持ち直しつつある。だが、爵位を維持するにはあまりにも金がかかる。領地税、屋敷の修繕費、社交への寄付、季節ごとの催し……どれも欠かすことはできない。私たちはもう、見栄を張ってまで“貴族”でいる必要はないと判断した」
「でも、それじゃ……」
アンジェラは思わず声を上げた。
「アランドル家は、私たちはどうなんですか?」
父は静かに微笑んだ。
「爵位がなくても、アランドルという家族は消えないよ。王都の借家で家族4人暮らすくらいのお金はどうとでもなる」
マリアナがアンジェラの手を包んだ。
「あなたは明日、社交界を存分に楽しみなさい。結婚相手を探す必要もないわ」
平民になるのだから貴族とは結婚できない。
つまり明日は最初で最後の社交界だということだ。
「でもお母様、私が誰かと結婚してお金を援助してもらうって手もあるんじゃ……?」
「いけません!!」
母の剣幕にアンジェラはビクリとした。
これほど荒げた声を聞いたことはなかった。
「そうだぞアンジェラ。お金のための結婚などいい結果にはならない。どれほど惨めな生涯を送ることになるのか。可愛い娘には絶対にさせられない」
父母の愛情を知ってアンジェラは胸が震えた。
「でも、お兄様はいいの? 社交界デビューができなくなるのよ?」
「いいんだ。男のデビューは女性のような華々しいものではないし、そもそも僕はたくさん人がいるような場は苦手だ」
アンジェラが学校に行っているがためにアンドリューは社交界に出られない。それでも恨み言一つ言わず送り出してくれる。
アンジェラは泣きそうになるのを堪えて唇を結んだ。
──明日、社交界にデビューする。
“アンドリュー”ではなく、“アンジェラ”として。
けれどそれと同時にアランドル伯爵家は少しずつ終わりに向かっていくのだ。
燭台の炎が、わずかに揺らめいた。
アンジェラはそれを見つめながら、胸の奥に言葉にできない痛みを抱えた。
◇
朝から屋敷はざわめいていた。
召使いたちが行き交い、花の香りと香水が混じり合う。
アンジェラは鏡の前に座り、侍女たちにドレスを整えられていた。
美しい刺繍と真珠が施されたドレスは真っ白で、この色はデビュタントでのみ着られる。
短く切った髪は、見事に結い上げたかつらの下に隠され、薄く施された化粧が彼女の顔立ちを柔らかく、そして美しく輝かせていた。
「まるでマリアナの若い頃のようだな。綺麗だよアンジェラ」
アンジェイはアンジェラの肩に手を置き、鏡越しに見つめた。
「いいえあなた。思い出で美化されているのかもしれませんが、この子はわたくしの若い頃よりも上等よ。社交界がざわつくわね」
「アンジェラ、似合ってるよ」
兄が照れくさそうに笑う。
ありがとう、と小さく返すアンジェラの頬はほんのり赤い。
準備が整い、3人は馬車に乗り込む。
王都の石畳を進むうち、アンジェラの胸は興奮と不安に揺れ動いていた。
夏の夕暮れ、街路樹の間を抜け、遠くに白亜の王宮が姿を現す。塔の先端が金色に輝き、窓という窓がシャンデリアの光で煌めいている。
(ここが、エリオットの家……)
ふと、そんな考えが浮かんだ。
あの気取らない彼が、こんな世界で育ったなんて、にわかには信じられない。
王宮の前には、数えきれないほどの馬車と自動車が列をなしていた。
ひときわ華やかな衣装をまとった紳士淑女たちが、順に扉の向こうへ吸い込まれていく。
やがてアンジェラたちの馬車も止まり、ドアが開かれる。
金色の灯りが差し込み、音楽と人々のざわめきが溢れ出した。
父母の後ろについて歩を進めると、広間の手前でひとりの男性が待っていた。
背の高い、穏やかな笑みを浮かべた紳士──父の弟、叔父のユリウスだ。
「デビュタントおめでとう、アンジェラ嬢。晴れがましい今日という日にあなたのエスコートを務める栄誉をいただけますか?」
優雅に頭を下げる姿は、まさしく貴族の鑑。アンジェラはぎこちなくも礼を返した。
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
扉の向こうからは、オーケストラの演奏が流れている。
大広間の中央、花々とシャンデリアの光が溶け合い、白い大理石の床が反射して輝く。
列をなす令嬢たちの間に立つと、アンジェラの心臓は早鐘のように鳴り出した。
やがて、司会役の声が響く。
「──本年度のデビュタント、レディ・アンジェラ・アランドル嬢!」
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