10話 乗馬部に体験入部
その夜、寮監に部屋へ来るよう呼ばれたアンジェラは何があったのか素直に話した。
寮監はその話を疑うことなく受け入れて労った。
ただ、この件はこれきりとはならなかった。
逆上したロバートが『お漏らし事件』と『触られただけで悲鳴を上げる女みたいな男』だと吹聴して回ったのだ。
数日もすれば噂は広がり、そのせいでどの授業に出ても居心地が悪く、体験入部にも行きにくくなった。
エリオットは会うたびに「大丈夫?」「気にすることはない」などと励ましてくれたが、アンジェラは談話室からも足が遠のき、早くも学校生活が苦しいものになっていくのを感じていた。
そして噂が出回ってから3日目の朝。
「アンドリュー、今日は乗馬部の体験に来たまえ」
朝食の席で声をかけてきたのはルパートだった。
「乗馬部、ですか?」
「あぁ。必ずだ」
それだけ言うと去っていった。
「どうしてだろう?」
「分からないな……」
アンジェラはエリオットと頭をひねった。
「寮代表は乗馬部の部長よ」
朝食のトレーをアンジェラの前の席に置いた生徒は不自然に高い声色で言った。
「えぇっと、あなたは確かルシアン君、だったよね」
アンジェラもこの数日の学校生活の間に同級生の名前は覚えていた。
「そうよー。でもわたくしはルーシーって呼ばれたいわね」
まるで女の子のように話すルシアン、ルーシーに驚き、顔を凝視してしまう。
「女の子……?」
「あん、嬉しいっ! けどこの学校に女の子がいるはずないでしょー?」
ごもっともである。
アンジェラがイレギュラーなだけだ。
「そーれーよーりーもっ! あなた、ヘンな噂立てられちゃって大変よね。でも気にしたほうが負けなんだから! 強くいなさいっ!」
どうやら励ましに来てくれたらしい。
「あっ、ありがとう……」
「いいのよ! ほら、わたくしってこんなだから同じように色々言われるの。けれど気にしなかったら何もないのと同じだわ」
平然と言ってのけるルーシーに、アンジェラは尊敬の念を抱いた。
「ルーシーはすごい……。どうしたらそんなふうになれる?」
「親も先生も同級生からも『男らしくしろ』『まともになれ』とか言われ続けたらね。だったらわたくしはそのままで生きるわ! って決意したの」
自分を否定され続ける。
それはとても苦しいことだろうとアンジェラは想像した。
「僕は言わないよ」
「私も言わない」
アンジェラとエリオットは真剣な眼差しで言った。
「ありがと」
ルーシーは眉を下げて笑った。
泣きそうにも見える顔で。
そして3人は他愛無い話をしながら朝食を取った。
◇
授業後、アンジェラは運動服に着替えてルパートに言われたとおり馬術部の練習場に来た。
馬場と厩舎は学校敷地内の最奥にあり、寮から歩いて15分を要した。
そこには広い馬場と、その奥の厩舎、そしてさらに奥には外と繋がる森が広がっている。
馬場ではこの時間に授業のない先輩数人が馬に乗り走らせていた。
そのうち一人がアンジェラに気づき馬場を囲う柵に近づいた。
「君、体験入部かい?」
「はっはい。アンドリューといいます」
「僕はマルコム。ようこそ歓迎するよ。アンドリュー、乗馬の経験は?」
「ありません」
「そうか、じゃあまずは触ってみるか?」
「いいんですか?」
「もちろん」
促され、入り口から柵の中に入り、恐る恐る馬の横に立った。
「こうやって撫でてみて」
マルコムは手本として馬の首や顔を撫でる。
それを見てアンジェラも思い切って手を伸ばした。
馬はしっとりツヤツヤしていてそして温かかった。
「このコの名前はオリーブだ」
「オリーブ……。女の子?」
「そう、9歳の牝馬だ。栗毛なんだけど、ちょっと緑がかって見えるのが分かるか? だからオリーブと名付けられたらしい」
手を当てていると馬の呼吸を感じる。
そして目と目が合った。
馬は何も語らない。けれども優しく見守られている気がした。
自然と呼吸のリズムも合わさっていく。
(落ち着く……すごく……。オリーブは9歳だから私より少しお姉さんね)
「筋がいいな。心を通わせれば自然と馬と呼吸も同じくなっていくんだ。じゃあ次は乗ってみるか?」
もう怖いとは微塵も思わなかった。
「はい、乗りたいです」
よし、とマルコムは頷いてアンジェラを抱え上げて乗せ、足が届くように鎧の長さを調整した。
「いいぞ。しっかり鎧に足をかけて。背筋を伸ばして前を見てごらん」
言われたとおりにすると姿勢が安定した。
「高い……」
「そう、馬はいつもと違った景色を見せてくれるのさ。それじゃあゆっくり歩かせてみよう。操作は僕がやるから君はしっかり太ももを締めて落ちないよう気をつけて」
「はい」
パカパカと進み始めた。
「一人で馬に乗れるようになるまでには1年かかる。そこから競技の練習をする。種類は二つあって、『障害馬術』と『馬場馬術』だ。障害というのはコース上にポールを置いて、それを落とさず走らせタイムを競う。馬場馬術は美しいステップやターン、停止などの技術を競うんだ」
鞍の革の匂いを嗅ぎ、太ももで馬の温かさを感じながら聞いた。
「部の活動の一日の流れとしては、ブラッシングから始まって、蹄の掃除、ピックで泥掻き出したり石が詰まってないか確認する。それからサドルブランケットという鞍の下に敷く布を乗せて、鞍を乗せ、腹帯で固定する。そして頭絡、この顔についているものを装着してハミを咥えさせる。これでようやく乗る準備が完了だ。まぁ低学年の間は一人ではできないから先輩と一緒にだな」
馬に乗るまでにも準備が色々あるものなんだなとアンジェラは真剣に聞く。
「馬房の掃除、朝昼の餌やりは専門の用務員がするが、夜の餌やりは部活動の後に自分たちでする。そういう世話からも対話をするんだ」
「大変ですか?」
「嫌々やれば大変さ。どんなこともな」
それはそうかもしれないとアンジェラは納得した。
「さて、そろそろ終わりにするぞ」
「終わりですか?」
「乗馬は全身運動だからな。初心者がこれ以上続けたら明日動けなくなるぞ」
それは困る。明日も授業と授業の間の移動時間は走らなければならないのだから。
オリーブが止まり、アンジェラは名残惜しく思いつつ馬から降ろしてもらった。
「知っているとは思うけど、入部届は寮監に出して。今年は新入部員が少なそうなんだよなぁ。だから君が入部してくれたら嬉しいな。まっ、他にもっと興味を引かれるものがあったならしょうがないけどね」
「僕、入部します」
アンジェラの心はすでに決まっていた。
(馬はかわいいし乗馬は楽しい。チームプレーじゃないし体力もあんまり関係なさそうだから私でもやっていけそう)
秘密を守るための条件も満たしていた。
「そうか! 嬉しいなぁ。とは言いつつも、体験入部期間はあと4日あるから他の部も見ておいで。入部後はもう退部しない限り他の部は行けないからね」
アンジェラの心は揺るがないが「そうします」と返事をしておいた。
その晩、夕食の席でエリオットに乗馬部に入部すると告げた。
「そっか、乗馬部にするんだ」
「うん、エリオットは決めた?」
「私はやっぱりクリケット部かな」
「花形だね。楽しかった?」
「それもあるけど、父上が学生時代にやっていたんだ」
エリオットは父親と同じ部に入りたいと思うくらいには尊敬の念を抱いているらしい。
「お父様もこの学校出身?」
「確か14歳までは城で家庭教師をつけていて、入学したのは15歳だったと思う」
「そういうパターンもあるんだね」
「最近はほとんどないみたいだけどね。それよりルパート先輩はアンドリューには乗馬部が向いてるって思ったんだろうか?」
エリオットは腕を組んで首を傾げた。
「他の部みたいに部員同士が密だからじゃないからいいと思ったのかも。あの部では僕の噂をしている人はいなかった」
「そっか。気にかけてくれていたんだね。噂だってみんなすぐ飽きて忘れるさ。それまでの我慢だよ」
「そうだね」
寮内ではアンジェラの噂をしていそうな人も見かけない。
(それもルパート先輩が何かしてくれたのかしら?)
授業の時に噂をされたり遠巻きにされるくらいなら耐えられる。
寮に戻ればほっとできる。エリオットもいる。
大丈夫だ。
アンジェラは自室に戻って日記帳を開いた。
いつ入れ替わってもいいように毎日のことを詳細に書いておこうと、入寮した翌日から書いていた。
これまでは噂を流されたことは書けなかった。
しかし、今日の日記からはきちんと記しておくことにした。