第8話:──封じられた空間と、覚醒の兆し
「……氷室さん、ちょっと話、いい?」
朝の登校時。昇降口で待っていたのは、綾瀬悠斗だった。
彼の表情はいつになく真剣だった。
「理科準備室の件……気になってるよね?」
「……なんで、そう思うの?」
「昨日、君が準備室の前にいたって、他のクラスの子が言ってた。
で、その後……俺もちょっと様子見に行ったら、なんかおかしくて」
「おかしいって?」
「中、覗いた瞬間に寒気がして……一瞬、床が歪んで見えた。マジで。
あれって、“普通”じゃないよね」
雫は、少し目を伏せた。
(“普通じゃない”……それは、私にも分かる)
悠斗は、さらに続けた。
「もし、氷室さんが知ってることあるなら、教えてほしい。……力になりたいんだ」
「……綾瀬くん」
その言葉に、雫の中の“何か”が小さく揺れた。
人間としての自分と、魔女としての自分。
そのどちらでもない、“誰かと並んで歩む自分”という可能性。
◇
放課後。
桐生から止められていたにもかかわらず、雫は理科準備室の前に立っていた。
ドアには「関係者以外立入禁止」と書かれた紙が貼られている。
(……関係者、か。なら、私も……)
そっと扉に手をかけた瞬間――
「開けたら、戻れなくなるかもしれませんよ?」
桐生蓮の声がした。
「……来ると思ってた」
「予想通り、ですね。氷室さん。
あの中には、“旧魔術領域”に由来するものが残っている可能性があります」
「旧魔術……?」
「あなたの時代の“魔法構造”に近い、つまり……あなたが反応するのも当然。
本来なら、こちらで封じる予定でした。
でも、あなたが入るなら、覚悟を持ってください。
“普通”の人間としての立場を、揺るがすことになるかもしれない」
雫は、しばし沈黙した。そして、静かに言った。
「……もう、逃げません。私は、“今の私”として、ちゃんと見届けたい」
桐生は目を細め、小さく頷いた。
◇
ドアが開く。
中は薄暗く、まるで空間そのものがよじれているような感覚。
空気は重く、ひんやりと湿っている。
(……ここだけ、時が止まってる)
中央の床には、黒ずんだ焦げ跡。そして、その上に、奇妙な“印”が浮かんでいた。
「これは……召喚陣?」
旧時代の言語。破損した構文。けれど雫にはわかる。
それは、かつて世界を揺るがした“儀式魔術”の残滓だった。
(このままだと……誰かが触れれば、暴走する)
魔力が、ざわざわと目覚めようとしていた。
(駄目……でも、これを放置したら……)
手が震える。
それでも――彼女は、そっと指先を地面に触れた。
「ほんの……少しだけ」
目を閉じ、空気を読む。構文を上書きし、魔力の流れを“静止”させるように制御する。
その瞬間、雫の体から微かに光があふれた。
ふわりと髪が揺れ、瞳が淡く、紫に染まる。
(だめ……見られたら、バレる……)
けれど、桐生はただ、黙って見守っていた。
魔力が、完全に陣を無効化し、空間が“安定”した。
「……終わった」
雫は膝をつき、深く息を吐いた。
「お見事でした」
「……見てたんですね」
「当然。ですが、あなたの力の使い方――極限まで抑えて、最小限の干渉。
それは“暴力”ではなく、“選択”でした。あなたの成長です」
雫は、ふっと小さく笑った。
(魔法を使った。けど、それは誰かを守るためだった。……私は、変わったんだ)
◇
夜。
スマホの画面に通知が一つ届いた。
【From:綾瀬悠斗】
「今日、ありがとう。何があったかは分からないけど、
氷室さんがそこにいてくれてよかったって、なんとなく思った」
雫は少し迷ってから、短く返信を打った。
「うん、私もそう思うよ」
“普通”じゃないかもしれない。けれど、それでも――
「今の自分」で、誰かと並んで進むことはできる。
それが、氷室雫という少女の“覚醒の始まり”だった。