第6話:──文化祭の準備と、はじめての役割
「文化祭まで、あと二週間です!」
放課後の美術室。顧問の先生の一言で、部員たちの空気がぐっと引き締まった。
「今年のテーマは“世界の風景”だって。で、私たち美術部は各自、テーマに沿った絵を展示する予定だから。氷室さんも、もちろん参加してね?」
そう声をかけてきたのは、部長の高月さん。
穏やかな雰囲気で、美術部をゆるやかにまとめている三年生だ。
「……私も……展示を?」
「うん、転校してきたばかりだし無理はさせないけど、せっかくだからね。自分の“世界の風景”、描いてみない?」
(世界の、風景……)
雫の中で、“世界”という言葉の意味は、少し違っていた。
空に裂け目が生まれた戦場。黒い雨の降る大陸。魔力で浮かぶ城。
かつて見てきた“異形の世界”が、次々と脳裏に浮かぶ。
「……描いても、いいんですか。私の“見てきた風景”を」
「もちろん。氷室さんの世界を、誰かが見てくれるって、きっと素敵だよ」
その一言が、雫の背中を押した。
◇
その日の夜。
雫は、自宅の机にキャンバスを広げていた。
あえて魔力を使わず、筆と手で描く。
最初は手が震え、線が定まらなかった。
でも、不思議だった。
「……あれ。……気づくと、時間が経ってる……」
何も考えずに、ただ筆を走らせるうちに、何かが静かに形になっていく。
魔力で描いた“完全”な風景とは違う、不器用で、でも少しだけ“人間らしい”景色。
それは、彼女の中に少しずつ芽生えていた、“現代”という世界への理解の一端だった。
◇
文化祭一週間前。
「氷室さん、その絵……すごい。なんか、吸い込まれるっていうか……」
教室でデッサンを見ていた綾瀬悠斗が、ぽつりとつぶやいた。
雫は、少しだけはにかむように答えた。
「……私の“記憶”から描いた。昔見た、風景……」
「へぇ……なんかさ、氷室さんの目に映る世界って、俺たちと全然違うんだなって思った」
「……違っても、いいんですか?」
「むしろ、それが“作品”ってもんでしょ」
悠斗の言葉は、照れも誇張もなく、まっすぐだった。
その瞬間、雫の胸の奥に、ぽっと小さな灯がともった。
◇
文化祭当日。
美術部の展示ブースには、生徒や保護者が絶え間なく訪れていた。
その中に――雫の絵も、あった。
タイトルは『異世界、青の果て』。
青い空が深すぎるほどに広がり、宙に浮かぶ都市と光の柱。
誰もが見たことのない風景。でも、どこか懐かしさを感じるような、不思議な絵だった。
「……すごい……」
「なんか映画みたい……」
「転校生の子、こんな絵描けるの?」
さまざまな声が飛び交う中で、雫は展示のすみで静かにその様子を見守っていた。
そのとき、葵がそっと隣に立った。
「氷室さんの世界、少しだけ見えた気がするよ」
「……ありがとう。葵さんの言葉がなかったら、描こうとは思わなかったかも」
「そう? ……じゃあ、ちょっとだけ誇ってもいいかな」
雫は、はにかんだように笑った。
その笑みは、かつての“氷の魔女エリュシオン”にはなかったもの。
人間の中で、自分の表現で、ほんの少し役に立てたという実感。
──それが、氷室雫にとって、“はじめての役割”だった。