5. 。
―8―
僕は階段を上り、妹の部屋をノックした。
「美紀、入るぞ」
ドアを開ける。
そこは十五歳の少女にありがちな、乙女チックな物に囲まれた可愛らしい部屋だった。
僕はカーテンを開け、部屋の空気を入れ替えながら妹に声をかけた。
「おはよう、美紀」
室内に妹の姿はなく、その代わりというように、部屋の中央に巨大な繭が横たわっていた。
中に人間がすっぽり入りこめそうな、蚕のような巨大な繭だ。繭は部屋の四方に糸を張っていて、軽く中空に浮かんでいた。
玉繭現象。
玉繭症候群。
それは究極の現実逃避といわれていた。人間の体から糸がたらたらと流れ出して、その人を覆う繭が出来るという奇病中の奇病。
発症者は繭の中では、その人が望む都合のいい、自分だけの理想的な世界の夢を見ているらしい。
妹が繭化してから一週間。未だに元に戻る気配はなかった。
妹は今、どんな夢を見ているのだろうか……。
僕は繭の表面を撫でた。
「ごめんな美紀、お兄ちゃん、今日家を出ていくよ」
繭になってしまった妹を心配して引っ越しを延期していたが、僕には僕の生活がある。大学の入学式を目前に控え、僕は家を出る決意をした。
表から車のクラックションが聞こえてきた。
窓から見下ろすと、軽自動車に乗った恋人の亜実がいた。本当はタクシーで行くつもりだったのだが、「タクシー代がもったいないから引っ越し先まで送っていってあげる」と申し出てくれたのだ。
僕は妹の部屋を後にし、自分の部屋へ向かった。あらかた荷物は運ばれているので、でかい本棚とベッドがあるばかりだ。
当分はこの家には戻らない。忘れ物はないだろうかと室内を眺め、僕は本棚に古い日記帳が挟まっているのに気付いた。昔妹にプレゼントされて書き始めたはいいものの、三日ともたずに、飽きて止めてしまった物だ。
妹に悪いと思いながらも、僕はその真っ白な日記帳を棚に戻した。
荷物を持って階段を下りていく。玄関を出て亜実に挨拶。
「妹さん、まだ目覚めないの……?」
「ああ、相変わらず繭の中だ」
「そう、心配ね」
彼女は心配そうに眉をひそめ、気遣わしげな表情を作った。
「本当に行くの? もう少し妹さんの側にいてあげたら? 彼女、お兄ちゃん子だったし」
亜実は本当にいい子だ。妹はなぜか彼女のことを毛嫌いしていたが、亜実のような恋人を持てたことを僕は誇りに思う。
僕は彼女の問いかけに、静かに首を振って答えた。
「……いや、いいんだ」
なぜ妹が突然繭になってしまったのか、いくら考えても分からなかった。
小さい頃はよくお兄ちゃんお兄ちゃんと慕ってきて、「将来はお兄ちゃんのお嫁さんになる!」なんて甘えられもしたが、大きくなるに従い僕には僕の世界が出来て、あまり妹には構ってあげられなくなっていた。最近は恋人との時間や新生活の準備に忙しく、ほとんど話もしていなかったように思う。
もう少しちゃんと構ってあげていれば、あるいは、妹の繭化は防げたのだろうか?
もしかして僕と離れることが嫌で、繭の中の幻想に閉じこもってしまった……とか?
昔からブラコンの気はあったが、まさかな。実の兄妹で気持ち悪い。
僕は妹の部屋を見上げた。
現実世界を捨てて、夢の世界に逃げ込んだ妹。
彼女はあそこで、繭に包まれて一人夢を見続けている。
早く元気になれよ。
それが無理なら、せめて幸せな夢を……。
僕は恋人の車に乗り込み、家を出た。