4.そして私たちは永遠にいたる。
―5―
私は秋葉亜実の対応策を考えながら帰路についた。
警察に通報してもちゃんと対応してくれるか分からない。被害者であるお兄ちゃんは繭の中だし、「恋人同士の痴話げんかに構ってる暇はない」なんて、真面目に取り合ってくれないのではないか? 「はっ、女のストーカーだなんて」と、鼻で笑われる可能性もある。
とりあえず被害届は出しておこう。さすがに即刻逮捕とはいかないでも、法的にお兄ちゃんに近付けなくさせることくらいは出来るはずだ。
帰り道、空は突然暗くなり、雨が降り出した。ゴロゴロと雷も鳴りだす。
傘を持っていない私は濡れ鼠になりながら家路を急いだ。
家に辿り着き、鍵を取り出して鍵穴に差し込む。
そこで私は違和感を覚えた。
鍵が、開いている……?
ドアノブを引くと、玄関の扉は音もなく開いた。母は仕事で夜まで帰らないはずだし、家を出る時は、ちゃんと鍵は締めてきた。
一瞬お兄ちゃんが目覚めて鍵を開けたのだろうかとも思ったが、私の胸には、別の暗澹とした不安が去来していた。
なんだか、嫌な予感がする。私の不安を煽るように、空でゴロゴロと雷鳴が轟いていた。
私は恐る恐る玄関をくぐり、家の中に入った。電気は灯っておらず、家の中は不気味に薄暗かった。ポタポタと私の髪や服から雫が落ちて、地面にまだらな模様を作る。
三和土に見知らぬ女物の靴があった。
いいや、この靴……最近どこかで見たような……。
私はハッと思い出し、階段を駆け上がった。
「そんな、まさか……!」
私はお兄ちゃんの部屋に飛び込んだ。
明かりのない真っ暗な部屋の中。
そこには巨大なお兄ちゃんの繭と、秋葉亜実がいた。
あの、ストーカー女が。
「お兄ちゃんの部屋で何やってるの!」
ピッキングなどで無理やり押し入ったのか、我が家の鍵を盗んでこっそり合鍵を作っていたのか……。秋葉亜実は無断で人の家に上がりこんでいた。
「勝手に家に入ったりして、これは犯罪よっ!」
私は犬歯を剥き出しにして叫んだ。
この女、とっくの昔にお兄ちゃんに捨てられたはずなのに、まだお兄ちゃんに付きまとって苦しめて……。血液が沸騰するほどの怒りを覚えた。ぎりぎりと噛み締めた歯が音を立てる。
彼女はこちらに背を向けて、何かを漁っている所だった。
それはお兄ちゃんが一人暮らしをするマンションに持っていくはずの、小振りなトランクだった。財布やノートなどが散乱している。
秋葉亜実は沈黙を守っている。降りしきる雨の音だけが、私たちの間にザーザーと横たわった。
真っ暗な部屋の中で、こいつは一体何をしていたのだ……。
私は秋葉亜実を睨みつける。
秋葉亜実がゆっくりと立ち上がり、こちらを振り返った。
その時、空に稲妻が走り、轟音が轟いた。逆光になった秋葉亜実のシルエットが闇に浮かぶ。
秋葉亜実の顔はまるで能面をつけたかのように真っ白で、無表情だった。心ここにあらずという感じで、茫然とした瞳で、まっすぐにこちらを見詰めている。
彼女の右手には、キラリと光る何かが握られていた。
一瞬ナイフかと思ってビクッと身構えたが、それは鋭く尖った鉤のようなものだった。
彼女の異様な雰囲気に一瞬たじろいでしまったが、私はすぐに大声を出して、自分を奮い立たせた。
「な、なによ! そこで何してるのよ! は、早く出て行きなさいよっ!」
何か武器になりそうなものはないかと視線を走らせ、部屋の片隅に立てかけられた金属バッドを見つけた。お兄ちゃんのバッドだ。
私はバッドを刀のように構え、キッと秋葉亜実を見据えた。私が、このストーカー女の手からお兄ちゃんを守るのだ!
秋葉亜実はそんな私を見詰めて、まるで憑き物が落ちたように、投げやりな調子で右手の鉤と、左手に持っていた何かを放り捨てた。
「……もう、いいわ」
「な、なによ!?」
「優くんがこんな人だとは、思わなかった」
「お、お兄ちゃんがどうしたっていうの!?」
彼女はひとり言のように、ぽつりと小さく呟いた。
「……気持ち悪い」
その声に覇気はなく、まるで侮蔑するように、秋葉亜実は私のことを見詰めていた。
い、一体どうしたというのだ……?
混乱する私をよそに、秋葉亜実は既に戦意を喪失したような顔をしていた。
「お兄ちゃんは、あなたに返すわ」
そう言って、彼女はフラフラとした足取りでこちらに歩いてきた。私は油断なくバッドを構え、部屋の隅に移動する。
そんな私に目もくれず、彼女はそのまま、階段を下りて私たちの家から出て行った。
私はバッドを下ろし、ペタンとその場に座り込んだ。
怖かった……。
今更ながら恐怖で体が震えた。もし手に持った鉤をナイフのように振り上げて襲いかかって来たらどうしようかと思った。
一体、どうしたというのだろう?
あれだけお兄ちゃんに執着していたというのに、秋葉亜実はあっさりと身を引いていった。
まさかブラフではないだろうな? 一度諦めた振りをして安心させておいて、後ろからグサっと……。
窓の外を確認すると、秋葉亜実は本当に家から出て行って、雨の中どこかに去っていくのが見えた。何やら茫然自失という感じで、フラフラと危なっかしい足取りをしている。
私は繭に近付き、お兄ちゃんが無事かどうかを確かめた。
「大丈夫、お兄ちゃん……?」
……よかった、どこも傷付けられていない。
私の視界に、秋葉亜実が投げ捨てていったもう一つの物が目に入った。
それは、鍵のついたお兄ちゃんの日記帳だった。昔、私が誕生日にお兄ちゃんにプレゼントしてあげたものだ。
日記帳の鍵穴は潰されて、バネが飛びだしていた。秋葉亜実はさっきの鉤で無理やり鍵をこじ開け、中を読んだらしい。
彼女はこの日記を見て、何かを知った……。
他人の日記帳を読むだなんて携帯を盗み見るよりも抵抗があり、また罪悪感もあったが、これを読めばお兄ちゃんのことが何か分かるかもしれない。
私はちらりと繭になったお兄ちゃんの方を見た。
……お兄ちゃん、ごめん。
私はゆっくりとページを捲っていった。
そこには、お兄ちゃんの秘密が書かれてあった。
―6―
・誕生日プレゼントとして妹に日記をもらった。こういうのを付けるのは苦手なのだが、せっかくの美紀のプレゼントなのだし、今日から頑張って付けていこうと思う。
・美紀が小学校を卒業し、中学校の制服姿を見せつけてきた。ついこの間までほんの小さな子供だと思ってたのに、ずいぶん大きくなったものだ。
・日に日に大人びていく美紀。妹の成長を見るのは楽しい。本当の父親になったような気分だ。
・男っ気が全然ないが、美紀ももうお年頃。ボーイフレンドの一人や二人いないのだろうか? 変な虫がつかなきゃいいけど……なんて父親のような事を考える。
・友達に「お前シスコンなのか?」とからかわれた。自分では自覚がないが、そんなに妹に構いすぎているのだろうか?
・いつまでも美紀がべったりと甘えてくる。嫌われるよりもいいが、やはりこの仲の良さは、普通ではないのだろうか?
・変に意識してしまい、美紀と普通に接することが出来なくなってしまった。美紀に変に思われなければいいのだけど……。
・母が出張で週末まで帰らない。美紀とずっと二人きり。何が起こるでもないのに、なぜか悶々として眠れなかった。
・小学生の時、美紀は父親がいないことでイジメられたことがある。その時美紀は泣いて帰って来た。僕がしっかりしなくてはと思った。ずっとそうやって、兄として、父親代わりとして……美紀に接してきたはずなのに……。
・最初は娘を思う父親のような……普通の兄として美紀のことを可愛いと思っていたが、最近はそれ以上に愛おしく感じるようになった。家族愛や兄妹愛とは別の……。僕はどうしてしまったのだろう? 美紀と、目が合わせられない。
・僕の邪な想いとは無関係に、美紀は無邪気に僕にじゃれついてくる。勉強を教えてと言ってきたり、一緒に遊ぼうとゲームに誘ってきたり。お風呂上がりなど、肌を露出したラフな格好で「アイス食べる?」などと言って、僕の隣りに座ってくる。その無防備な姿は、今の僕には眩しすぎた。
・何を考えているんだ。血を分けた実の兄妹なんだぞ。
・いつの頃からか、美紀を一人の女性として見ていた。僕は兄貴失格だ。この想いは、決して美紀に知られるわけにはいかない。きっと気持ち悪がられる。
・今日、同級生の女の子に告白された。秋葉亜実。よく知らない子だったが、熱心に言い寄られて試しに付き合ってみることにした。僕も妹離れをしなければならない。
・どうしても妹と彼女を比べてしまう。亜実に申し訳なく思う。全て僕が悪いのだ。
・いつか美紀を穢してしまいそうな妄念に囚われる。大学に受かったら家を出る決心をした。このままでは、僕はどうにかなってしまう。
・亜実に別れ話を持ちかけたが、素直に別れてくれない。しつこく理由を聞かれたが、本当の事を話すわけにはいかなかった。
・ひっきりなしに亜実からメールや電話が届くようになった。ちょっと怖い。僕が悪いのだから、あまり強くは言えない。
・引越しの準備は終わり、後は家を出ていくばかりとなった。しかし、亜実からおかしなメールが毎日のように届いているので、家を出ていくに行けない。彼女は、本当に僕の新居の隣に引っ越してきたのだろうか? 何より、美紀と離れ離れになるのが辛い……。
・僕は駄目な兄だ。相手は実の妹だぞ。倫理的に許されない。それでも僕は……。
・いつか美紀にも恋人が出来て、この家から……僕の許から巣立っていく時が来る。いつか、本当に離れ離れになってしまう……。ああ、美紀……。
・僕は夢想する。いつまでも、美紀と一緒に暮らせる日常が続いたらと。
―7―
飛び飛びながらも数年間に及ぶお兄ちゃんの日記を流し読み、私はそっと日記帳を閉じた。日記の最後の日付は、お兄ちゃんが玉繭症候群を発症する前日だった。
「お兄ちゃん……」
私は、我知らず呟いていた。部屋の中央に浮かんだ巨大な繭をじっと見つめる。
お兄ちゃんが私のことを、ずっと、そんな風に思っていただなんて……。
私は、お兄ちゃんが繭になった本当の理由を理解した。
倫理的に許されぬ想いに囚われて身を焦がすあまり、お兄ちゃんは現実の世界を捨てて、繭の中へ……幻想の中に閉じこもってしまったのだ。
お兄ちゃんは今、繭の中で、私と二人で幸せに暮らす日々の夢を見ているに違いない。
「お兄ちゃん……」
私は全身に鳥肌が立つようなおののきを感じた。
もちろん、嫌悪感や不快感からくるものではない。これは、その対極の感情。
私は、嬉しかったのだ。
想いが溢れ出し、私は歓喜に打ち震えていた。いつの間にか、私は涙を流していた。
私が中学に入った頃から、私とお兄ちゃんとの仲はギクシャクとしだした。私はてっきりお兄ちゃんに嫌われたのだと思っていたが、実はそうではなかったのだ。真相は、そのま逆だったのだ。
お兄ちゃんは……お兄ちゃんもまた、私のことを愛してくれていた!
お兄ちゃんは私のことを思うあまり、私から距離を取ろうとしていただけなのだ!
二人はずっと前から……ずーっとずーっとずーーーっと前から、両想いだったのだ!
私は物心つく前から、お兄ちゃんのことが大好きだった。
ずっとずっと、他の誰よりも特別に想っていた。
お兄ちゃんは、いつか私が他の男の子を好きになって旅立っていくのだと憂いていたが、そんなことは決してない。私は、いつまでもお兄ちゃんの側にいる。
私はお兄ちゃん一筋。
二人で結婚式ごっこをしたあの頃から……私のすべては、お兄ちゃんのものだった。
この髪も、この瞳も、この唇も。
私の体は、お兄ちゃんへの想いで出来ている。
私は繭に縋りつき、お兄ちゃんに話しかけた。
「お兄ちゃん、聞こえる!? お願い、帰ってきて!」
倫理的に許されないことでも、そんな物は関係ない。
私は声の限りに叫んだ。
「私も、お兄ちゃんが大好き! 私もお兄ちゃんが大好きなの! お願い、返事をして! 私が、お兄ちゃんのお嫁さんになるの!」
あんなとち狂ったストーカー女などに、私たちの絆は引き裂けない。
血が繋がっていてもいいじゃないか。結婚は出来なくても子供は産める。母や世間が許さないというのなら、家を捨てて、どこか遠い所に二人で逃げよう。大丈夫。二人なら、きっとやっていける。
私たちに父はおらず、母も仕事で留守がちだった。私たち兄妹は、ずっと二人で過ごしてきた。喜びも悲しみも、二人で分け合いながら生きてきた。これから先も……たとえ百年経っても、そのことは変わりはしない。
「夢の世界に逃げちゃ駄目! 私を見て、お兄ちゃん!」
私は声が嗄れるまで叫び続けた。
二人きりの世界に、私の嗚咽がこだまする。
「私を、一人にしないで、お兄ちゃんっ……!」
その時、私の声が届いのか、繭は胎動するようにゴトリと動いた。
繭の糸がゆっくりと解けていく。
私は繭の中に手を突っ込み、糸をかきわけた。
糸の中から、お兄ちゃんの体が転がり出てきた。
「美紀……」
「お兄ちゃん!」
私はひしっとお兄ちゃんの体を抱きしめた。
久しぶりに見るお兄ちゃんの顔は、少しやつれて見えた。
そのまま地面にぐったりと倒れ込んでしまい、慌てて私はお兄ちゃんの体を支えて介抱した。
お兄ちゃんはまだ夢を見ているような、ぼんやりとした瞳をしていた。
「大丈夫? 私が分かる、お兄ちゃん?」
「夢を……夢を見ていた……。美紀とずっと一緒にいる、幸せな夢を……」
私はお兄ちゃんの頭を自分の胸に抱き寄せた。
涙がぽろぽろと頬を伝っていく。
「夢じゃないよ……。これから、全部夢が現実になるんだよ!」
「美紀……本当に、僕でいいのか……?」
お兄ちゃんは迷子の子供のように不安げな瞳をして、縋るような顔をして私のことを見詰めていた。
私はその瞳をしっかり見詰め返し、そっと口づけをして答えた。
「大好きだよ、お兄ちゃん……」
たとえ神様にだって、私たちの仲を断ち切ることは出来はしない。
お兄ちゃんは何日も夢を見続けていたせいか、まだぼうっとしていた。
体に絡みついた繭の糸がべたべたとくっついていたので、私はお兄ちゃんの手を取って洗面所に連れていった。そういえば私もずぶ濡れのままだ。
お兄ちゃんの服を脱がし、自分も裸になる。私たちは一緒にお風呂に入った。
こうして一緒の湯船につかるのは、何年振りだろう?
これからは、いつでも一緒に入れることが出来る。
私の小さな胸は、高揚感で張り裂けんばかりだった。
私はお兄ちゃんの髪を洗い、背中を流した。
「ずっと一緒にいようね。一人暮らしなんかしちゃ嫌だよ」
たとえ世界中の人間を敵に回したとしても、この愛だけは、死なせはしない。
その愛はひどく閉鎖的で、誰にも顧みられることはないだろう。
けれど、だからこそ、人知れず咲く花のように美しい。
私は昔よりも大きく広くなったお兄ちゃんの背中にそっと抱きつき、耳元で囁いた。
「ずっと一緒だよ、お兄ちゃん……」