1.死にいたる病。
―1―
いつも朝七時にはリビングに現れて新聞を読んでいるお兄ちゃんが、いつまで経っても起きてこなかった。
二階を見上げて、母はため息をついた。
「春休みだからって仕方ないわねぇ」
私はマーマレードジャムをたっぷりと塗った食パンを齧りながら答えた。
「もうすぐこの家を出て行っちゃうんだし、ゆっくりさせてあげればいいじゃない」
「だからって、このままじゃいつまで経っても食器が片付かないじゃない。美紀、お兄ちゃんを起こしてきて」
母に頼まれた私は「はーい」と返事をし、トントンと軽やかな足取りで二階のお兄ちゃんの部屋へと向かった。いつもは私の方がお寝坊さんなので、私がお兄ちゃんを起こしに行くというシチュエーションはなんだか新鮮だった。
窓の外には青空が広がっていて、小鳥がチュンチュン鳴いている。今日もいい天気になりそうだ。
「お兄ちゃん、朝だよー」
コンコンと扉をノックするが、返事はなかった。
試しにドアノブをひねってみると、ドアには鍵がかかっていなかった。
ようし、いきなりベッドの上に飛び乗って、驚かせてやろう。
そう思って、私は勢いよくドアを押し開けた。
「おはよう、お兄……」
しかし、私は最後までセリフを言い切ることが出来ず、部屋の入り口で棒立ちになった。
室内にお兄ちゃんの姿はなく、その代わりというように、部屋の中央に巨大な繭が横たわっていた。
中に人間がすっぽり入りこめそうな、蚕のような巨大な繭だ。繭は部屋の四方に糸を張っていて、軽く中空に浮かんでいた。
私は目の前の光景に茫然と立ち尽くし、我知れず、呟いていた。
「た、玉繭現象……」
お兄ちゃんが、繭になってしまった……。
一向に下りてこない私を呼びに、母が階段を上がって来た。
「どうしたの、美紀ー? お兄ちゃんはまだ起きないのー?」
そして室内の様子を見て、母は「そ、そんな……」と呻き声を上げて、その場にぺたりと座り込んでしまった。
私たちは茫然と繭を見詰め続けた。
―2―
それは究極の現実逃避、引きこもり行動と言われていた。
イジメやリストラなど人生で大きな壁にぶつかって、現実世界と向き合えなくなって日常生活が心底嫌になった時、それは起こるという。
人間の体から糸がたらたらと流れ出して、その人を覆う繭が出来るという奇病中の奇病、玉繭症候群。
患者は繭の中で眠りにつき、自分にとって都合のいい、自分だけの理想的な世界の夢を見ているという。
元々認知度の低いマイナーな病気だったが、我が国の首相がある日突然発症し、繭化したことで一気にその知名度が上がった。その首相は今も現実社会を放棄して、繭の中で理想の政治、美しい国作りの夢を見ているらしい。
お兄ちゃんが、繭になってしまった……。
私はその事実は受け止められずにいた。
一体なぜだ。
なぜお兄ちゃんは、夢の世界に閉じこもってしまったのか?
世間では繭化するのは心の弱い人間という風潮があり、その病気にかかるのは、恥ずべき事とされていた。
うちは母子家庭であり、母はとてもプライドの高い人だった。父親がいないという負い目もあり、母は人一倍世間の目というものを恐れていた。
母はお兄ちゃんをお医者様に診せることすら拒んだ。「ど、どうせ治療法は確立していないんだから」と。
誰にも知らせず、このまま家の中に静かに閉じ込めておきたいようだった。
「お兄ちゃんがずっとこのままでもいいって言うの!?」
「だって仕方ないじゃない!」
私と母は激しく言い争った。
私は母に背を向けてリビングから立ち去り、お兄ちゃんの部屋に閉じこもった。この小心者めと、心の中で母に毒付く。
暗い室内。お兄ちゃんを包み込んだ繭は相変わらず身動ぎもせずに、ただただ沈黙を守っていた。
私は携帯電話を取り出し、ある画像を開いた。
顔をくっつけ、小さなフレームの中に納まった私とお兄ちゃんの写真。今から三年くらい前に撮ったものだ。この時は、将来お兄ちゃんが繭になってしまうだなんて、考えもしなかった。
私は繭の表面を撫ぜた。
繭はふんわりと弾力があり、ほんのりと暖かかった。すっと軽く指が埋没する。
この中で、お兄ちゃんは眠り姫のように、一人静かに眠り続けている……。
私は思った。
私が、何とかしなければ。
私が、お兄ちゃんを助けなければ。
お兄ちゃんの繭を撫ぜながら、私は一人呟いた。
「絶対、私が治してあげるからね、お兄ちゃん」
☆
無理やり糸を解いていこうとしたが、千切っても千切っても、繭の奥から新たな糸が泉のように湧いてきて、お兄ちゃんを救出することは出来なかった。
繭の中の人は、なぜか食事や排泄をしなくても生きていけるらしい。夢のみを栄養に時を過ごす。
絶対安全な繭の中、外部との接触を完全に拒絶している……。
なるほど、究極の引きこもりとは良く言ったものだ。
私はお兄ちゃんを繭から解放すべく、動き出した。
図書館で調べた結果、人生に大きく躓いたり、深い悩みや絶望を抱えて身動きが取れなくなったりすると、玉繭症候群を発症してしまう事が多いらしいと知った。うつ病の進化系みたいなものだろうか。
お兄ちゃんは何をそんなに思いつめ、悩んでいたのだろう?
その問題が解消すれば、お兄ちゃんは元に戻るのだろうか?
私はお兄ちゃんの部屋で、お兄ちゃんの繭にもたれかかりながら考えた。
お兄ちゃんはこの春から大学生になり、一人暮らしをする予定になっていた。必要なものは既にマンションに運び込まれているので、お兄ちゃんの部屋には物が少なかった。狭いワンルームでは邪魔になるから置いていくと言った、でかい本棚とベッドがあるばかりだ。他には直接手で持っていくはずだった、小ぶりのトランクが部屋の隅の方に転がっている。
まさか春からの新生活、一人暮らしが怖くて、この家から離れるのが嫌だった……とか?
旅立ちへの不安。大人になることへの恐れ。
しかしお兄ちゃんは外向的で行動的な性格をした人間で、よく友達同士で泊りがけの旅行に行ったり、一人で自転車の旅に出掛けたりしていた。なのでその可能性は少ないだろう。
昔から勉強が出来て、スポーツも得意で、三つ年上の彼は、私の自慢のお兄ちゃんだった。
社交的で人当たりも良く、妹の私が言うのもなんだが、本当に出来た人だった。
そんな人がなぜ、繭の中、幻想の世界に引きこもってしまったのだろう。
部屋にこもってお兄ちゃんのことばかり考えていると、母に「自分のことはいいの?」と言われた。私は春から高校生になる予定だったが、大好きなお兄ちゃんがこんな状態では、学校になんて行ってられない。
私の世界は、お兄ちゃんを中心に回っていた。
小さい頃はいつもお兄ちゃんについて歩き、遊んでもらっていた。
私たちの父は、私が幼い時に死んでしまったので、よく覚えていない。けれどお兄ちゃんがお父さんの代わりになって私を慈しみ、可愛がってくれたので、私は全然寂しくはなかった。
幼稚園の頃に、お兄ちゃんと結婚式ごっこをしたことがある。
「大きくなったら、美紀がお兄ちゃんのお嫁さんになってあげるね!」
そう言って、私はお兄ちゃんのホッペにチューをした。今思い返すと少し恥ずかしい過去だが、それもまた、いい思い出である。
私は、お兄ちゃんのことが大好きだった。
しかし、お兄ちゃんが高校生に、私が中学生になった頃から……二人の仲は、離れていった。
高校生になってお兄ちゃんの世界は大きく広がり、交流関係も多岐にわたった。私を置いて一人で出掛けることが多くなり、あまり私に構ってくれなくなった。当然といえば当然なのだが、私はそれが悲しかった。
お兄ちゃんに恋人が出来てからは、もう……。
お互いに受験生だったし、同じ家で暮らしていたというのに、この冬はほとんどお兄ちゃんと話をしなかったように思う。
「もっとお兄ちゃんと、お話をしておけば……」
そうすれば、お兄ちゃんの悩みや異変にも気付けただろうに。今更ながら後悔が押し寄せてきた。
私はお兄ちゃんが繭化した原因を考えた。
本やインターネットで調べると、受験戦争のプレッシャーに押しつぶされたり、就職活動に破れた若者が現実逃避をして繭化する事が多いと書いてあった。
しかしお兄ちゃんは既に志望校に一発合格が決まっているので、その可能性もあり得ない。
新生活への不安が原因でもないとすると、対人関係に、何か問題があったのだろうか?
この世のすべてを投げ出して、繭の中に閉じこもってしまいたいほどの何かが。