過疎
子供の頃、虫垂炎で盲腸を切除した。
抗生物質を飲んで『薬で散らす』事も出来た。
でもそれはもう少し早い段階なら、という話だ。
盲腸が腫れて、破裂寸前。
『切除しないと大事になる可能性がある』という段階ではもう飲み薬は有効ではない。
僕は『盲腸の切除』に同意した。
とにかく激しい痛みから解放されたかった。
特に盲腸に対しては深い思い入れはなかった。
今日でこそ『盲腸は免疫物質を作っているんではないか?』などと言われているが、当時は『盲腸は人間が進化前、草食動物だった時の名残だ』と言われていた。
『人間は進化前、猿だったんじゃないか?猿は草食じゃないだろう?』とも思うが、進化について詳しい事はわからない。
わかろうとも思わない。
でも僕には『盲腸を切るに至った』過程で思うところがある。
僕が生まれ育ったのは岡山の片田舎で工業団地がある街だ。
工業団地は『あべべ自動車』という自動車メーカーに支えられている。
自動車工場の他に、鋳造工場や機械加工工場などの下請け会社の工場が多く立ち並んでいた。
『あべべ自動車』は『あべべフェアリー』などのトラックや『あべべビッグディッグ』などのSUVが人気ではあったが、ファミリーカー部門はとにかく弱かった。
『あべべ』は全国に自動車工場を持っていたが、僕が住んでいた街の『あべべ自動車工場』はファミリーカーを主に作っていた。
つまり『業績不振により』いつ撤退してもおかしくなかった。
そうなったら『あべべ自動車』に頼りきりの工業団地のある僕が住んでいる街はひとたまりもない。
「そんな話、盲腸と何も関係ないじゃないか!」
話は最後まで聞いて欲しい。
『あべべ自動車』は全国の工場の規模を今までに3回縮小した。
「自動車工場を国内に置いておいても、国際的に競争力が足りない」と生産拠点を海外に移し始めたのだ。
資金力のある下請け会社は『あべべ自動車』について海外に行った。
国内に残っていてもジリ貧だ。
工業団地の規模も全盛期の1/3以下になってしまっている。
僕が通っていた小学校も一番多かった時には一学年8クラスあった。
僕が三年生の時は3クラスだった。
そして、噂が流れる。
『あべべ自動車、乗用車部門から撤退。国内にある大部分の工場を東南アジアに移設』と。
僕が三年生の時に担任だった新卒三年目の女性教師『立木先生』は焦ったんだと思う。
三年目にしてようやく担任を持てた。
なのに来年からはもっと生徒の数が減る事が予想される。
工場がなくなればそこで働いている人や、その家族は他県に出ていくしかないからだ。
予測では『教師一人につき生徒は五人』ぐらい少子化が進むらしい。
しかもそれは一時的なモノで、生徒数は更に減るはずだ、と。
根拠なしで言っている訳じゃない。
かつてフェリーで栄えた宇野という街が県内にあった。
フェリー乗り場の周りはちょっとした繁華街になっていたらしい。
だが瀬戸大橋がかかって、フェリーが廃止されたらフェリー乗り場で栄えていた宇野が瞬く間にゴーストタウンになったらしい。
その光景を近くで見ている人達は『あべべが出ていったらこの街は終わりだ』という事をよくわかっている。
小学校の職員会議で『そうなったら取り敢えず、一年生から三年生までを一つのクラス、四年生から六年生までを一つのクラスにまとめましょう』と校長先生が言った。
そうなってしまったらどうしようもない。
多くの教員が転勤を余儀なくされるだろう。
幸か不幸か、世間一般的には『教員のなり手がない』などと言われている。
路頭に迷う事はないだろう。
でも折角三年目にしてようやく担任になれたタイミングで転勤なんて・・・。
転勤先でもう一度、副担任だろうか?
そんなのはイヤだ!
『教師として目に見える実績を作ろう!
目に見える実績さえあれば、新しい学校でも担任を持てるに違いない!』と立木先生は考えた。
一口に『目に見える実績』といえば『生徒の出席率』だろう。
立木先生は登校拒否している子の家に突然足しげく通い始めた。
「今まで放置してたクセに突然何だろう?」と子供達は考えた。
「まぁ、教師としての自覚に目覚めたのかな?」と子供達は悪いようには受け取らなかった。
そこまでは良い。
僕は二時間目が終わったタイミングで、下っ腹がズンと痛くなった。
かなり痛い、が我慢出来ない事はない。
「先生、下っ腹が結構痛い!」
僕は正直に立木先生に申告した。
『我慢出来る』とは言え、この痛みは尋常じゃない。
取り敢えず保健室に・・・。
「そう、じゃあトイレに行って来なさい」と立木先生。
いや、そういう痛みじゃない。
お腹が緩い訳でも、便秘な訳でもない。
今朝も快腸に『定期便』はあった。
それに便秘の時特有の下っ腹全体が重い感じじゃなく、右の下っ腹が痛い。
走った時に痛くなる脇腹痛じゃない。
痛くなり方も違うし、痛くなる場所も違うし、大体走ってない。
痛くなったところは『右の下っ腹』としか言いようがない。
「トイレに行きたい訳じゃない!」
僕は先生にイライラしながら言う。
「そう、だったら我慢しなさい」と立木先生。
先生は早退者を自分のクラスから出したくなかったのだ。
「自分のクラスからは遅刻、早退を出来るだけ出さないようにしよう」と。
要は『我慢しなさい』という事だ。
今考えると最初に腹痛を感じた時にすぐに病院に行っていれば良かった。
そうすれば盲腸を除去しないで『薬で散らす』方法もあっただろう。
しかし無駄に3日我慢してしまったせいで、僕が腹痛で倒れて救急車で運ばれた「これは酷い虫垂炎だ。すぐに切除手術を行おう!」と医者から言われた。
僕が入院している間に病院の外では色々な事があったようだ。
『あべべ自動車、乗用車部門から撤退』
『あべべ自動車、岡山県の工場を閉鎖』
『あべべ自動車、社宅を閉鎖』
『あべべ自動車の下請け会社、三社がベトナムに工場を作る計画を発表』
『多くのあべべ自動車の下請け会社が廃業を発表』
『街のショッピングモール、撤退を発表』
それで、工業団地の社宅に住んでいた人達が大挙して県外に出て行った。
小学校じゃ毎日『お別れ会』が開催されているみたいだ。
見送る立場の子供が次の日には送り出される立場になる。
そりゃ職を失った状態でいつまでも工業団地にいる訳にはいかない。
失業保険は解雇なら翌月から支給される。
収入の問題じゃない。
社宅を追い出され『住む場所がない』のだ。
小学校から子供は減って、3クラスあった三年生は1クラスに統合されたらしい。
退院したら一言「先生のせいで盲腸切る事になった」と文句を言おうと思ってた立木先生は既にいない。
何かよくわからないが立木先生は依願退職したらしい。
噂では転勤先が気に食わなかったみたいだ。
「だったら辞めてやる!」と。
とにかく街全体が入院前と様変わりしているようだ。
ウチの親父はタバコ屋だし、売り上げが減って生活は苦しくなるだろうけど今すぐに廃業する事はないと思う。
大体、タバコ屋なんてばあちゃんが店先でテレビで時代劇を見てるだけでほとんど何もやっちゃいない。
親父はそこらじゅうに置かしてもらってる自動販売機を回ってタバコを補充するのが仕事だ。
タバコ以外にもジュースの自動販売機もそこらじゅうに置かせてもらっている。
街の外にも商圏は広がっているから、街から人がいなくなるのは痛手だけど「街の中の人だけを相手にしている訳じゃないから仕事がなくなる訳じゃない」と親父は言っていた。
大きく変わったモノがある。
それは『友人関係』だ。
仲良くしていた友人が次々と引っ越ししていった。
これだけ子供達がいなくなると、友達が『同じ学年』ばかりじゃなくなる。
今まで遊ばなかった子供達と子供達の数が減ったことにより遊ぶようになる。
父親が入院していた時に集中治療室の待合室で書いていたモノです。
当時私は父親の余命宣告や日々衰えていく父親を見て、心を病んでいました。
『死者蘇生』や『余命宣告』を受けていた者が完治するなどの表現がありますが、筆者がノイローゼ気味だったことを加味して読んでいただけると幸いです。
追記、父親は永眠いたしました。