一章
がっつりじゃないけど性行為あり〼
「はっ…んっ…あ…っ!」
作った嬌声。ベッドのシーツをぎゅっと掴み、満足げな顔を浮かべる男の顔を見つめる。
性行為の終わりはいつも、どうしようもなく虚しくなる。目に映るのは、此処に居るべきじゃない男だ。
頬を軽く叩かれて、目が覚める。男はにっこりと笑って、「スマホ、鳴ってるぞ」と言った。
「あ。ごめん」
俺は裸のままベッドを抜け出して、デスクに置かれたスマホを手に取った。騒ぐスマホには檜山と表示されている。心底出たくない。が、そういうわけにもいかない。
「もしもし」
「もしもし。遅い」
「何時だと思ってんだ」
言い返しながら、スマホに表示された時間を見る。午前一時二十五分。
「寝てるとは思わなかった。…またホテル?」
「…まあな」
檜山は一瞬だまり、吐き捨てるように言った。
「ヘテロのくせに」
俺だって、わかっている。腹にこびり付いた自身の精液が憎たらしい。
「今何人いるの?」
俺は指を折る。ひい、ふう、みい。
「四人」
「自己満足にも罪滅ぼしにもならないのに」
俺だって、わかっている。
秋が求めたのはこんなことじゃない。ついでにいうのなら、俺の相手は秋じゃない。でも、だったら他に何が俺を救ってくれる?
そんな俺の心情を読んだように、檜山は言った。
「それが救いじゃないことだけは、確信を持って言える」
電話を終えてベッドに戻ると、男はまだ起きていて、スマホを弄っていた。俺が帰ってきたのを見ると、男は笑って、スマホを片付けた。
「男か?」
俺は首を振る。
「女だよ」
「恋人?」
「んなわけ」
檜山の声が耳に響いている。自己満足でも罪滅ぼしにもならない。
欺瞞でもいいだろ。なあ、秋はもういないんだよ。じゃあ、俺に何ができる?俺はどうすればよかったんだ。そう言ったら、そう言えたら、檜山は何と言っただろうか?
「目、覚めちゃったわ。シャワー浴びねえ?」
俺は頷いた。暗がりにぼうと浮かび上がる男の顔は、やはり、秋とは似ても似つかない。
朝起きると、酷い頭痛と腰痛に襲われた。睡眠不足と、長く続いた行為のせいだ。
男はすでに起きていて、ベッドの隣がぽっかり空いていた。痛む体を起き上がらせると、男と目が合う。相変わらず、男はにっこり笑った。
「起きた?」
「…まだ眠い。出るの?」
「用があってな。寝てていいぞ、払っとくから。体、平気?」
「うん、平気」
嘘という意識もないまま、事実と違うことを言う。男は頷き、洗面所に入って行った。
次に目覚めたときには正午をまわっていた。頭痛は随分マシになった。腰痛はまだあるが、動けないというほどではない。のろのろと服を着て、荷物ともいえない荷物を鞄に突っ込んで、ホテルを出る。
檜山のようにはいられない。秋のキスの感触が、今でも唇にこびり付いている。
実を言えば、おれはあのことを含めて、秋と俺との間で起きた様々な出来事について、未だにどうとらえるべきかわからないままでいる。全てが本気で、秋の一から十までがそこに詰まっていたとはとても思えない。俺の脳は深く混乱し、思考とは全く別の方向に俺を殴り続けていた。俺を執拗に攻撃する塊を言語化するのなら、つまりこういうことだった。「愛を取り返せ。」俺はそこにどれほど存在していたのかもわからない、彼の愛を追い求めている。
そしてこの言葉は根本的に間違っている。何故なら秋が俺に向けた愛は奪われたのではなく、俺が無視し、結果として彼の死と共に棄却されただけだからだ。それでも俺は追い立てられている。「愛を取り返せ。」
「人間の体感人生の半分は、二十歳を迎えた時点で既に終わっている」
と秋は言った。思えば最低の奴だった。駅のホームで電車を待ちながら、俺はあの、痩せた犬の鳴き声や、異臭のするスーパーを思い出す。
顔を覗き込む癖。透き通った琥珀色の瞳。少し掠れた柔らかい声。絵画を復元するように、写真を現像するように、俺は彼を蘇らせる。
実をいうのなら俺は彼を思い出したくなどなかった。果たして思い出すという表現が適切なのかも、俺には判断できなかった。それは糸を手繰るような優しくて自発的なものでは決してなかったからだ。朝、顔を洗う。鏡を見る。するとそこに、憎々しい顔が映る。俺にとって、俺と檜山の関係を思い出すことはそれに似ており、檜山と秋の関係を思い出すこともまた同様だった。二度と鏡など見たくない。だが顔を洗わないわけにはいかないし、鏡を見ずとも、憎々しい顔がそこに存在していることに変わりはない。目を背けようと思っても、人生の大半の時間はそこにあった。
染井千秋との出会いは、十五年前にさかのぼる。そこに檜山夏葵が合流するのに、そう時間はかからない。