上
「深淵」。
それは王国の南の果てに横たわる、これまで攻略不可能と言われて来た、世界最大の迷宮。
その迷宮に王国の精鋭部隊が突入して、十日目を迎えたその日。
人々はついに最後の扉を開こうとしていた。
***
「ぐ、ぐわあぁぁぁぁ…」
「く、苦しい…」
「さ、下がれ!下がれ!物凄い瘴気だっ!」
重厚な扉を開けた途端、隙間から墨のような靄が通路へと漏れ出し、先頭に居た騎士達が苦悶の表情を浮かべて次々と膝を付く。討伐隊を率いる隊長が口元を押さえて後退する中、一人の女性が無表情のまま先頭へと進み出た。
「皆さん、下がっていて下さい。これ以上瘴気を吸っては、命に関わります」
「し、しかし、クラウディア様っ!?幾らなんでも貴女一人で立ち向かうわけにはっ!」
「大丈夫です。此処は私にお任せ下さい」
それ以上前に進めず、隊長が背後から必死に翻意を促そうとするが、女性は隊長の制止の言葉に耳を傾けようとせず、一人で扉の前に立つ。20歳を迎えたばかりの艶やかな金色の髪を湛えた女性は、金色の幾何学模様に縁取られた純白のローブに身を包み、ルーン文字の刻まれた錫杖を手にしただけの軽装だったが、その美しい顔には何の不安も緊張も浮かんでおらず、ただ重要な儀式を迎えるかのような厳粛な面持ちだけを見せている。彼女の周囲には淡い輝きを放つ光の被膜が張り巡らされて瘴気を近寄らせず、彼女が先頭に進み出た事で倒れていた騎士達が被膜に護られ、ようやく立ち上がる事が出来るようになった。
「はぁ、はぁ、はぁ…。聖女様、申し訳ありません…」
「構いません。後ろに下がっていて下さい」
苦し気な表情のまま頭を下げる騎士達に、クラウディアは振り返って鷹揚に頷くと、扉に手を掛けて引き開ける。侵入者を呑み込もうと中から大量の瘴気が襲い掛かるが、クラウディアの全身を包み込む光の被膜がその全てを跳ね除け、彼女は躊躇いなく足を踏み入れた。後続の騎士を守るために扉を閉め、広い空間の中に一人佇むクラウディアの前で、黒光りする巨大な丘が頭をもたげる。
「…グルルルル…」
死龍。
漆黒の鱗に覆われた、全長20メルドにも及ぶ巨大な龍。腐敗の息吹を吐き、只人達を瞬時に絶命へと至らしめる、死の化身。そんな絶望の象徴とも言える存在がルビーを思わせる深紅の双眸を開き、悠久の眠りを妨げた不遜な侵入者の姿を捉える。
「…ガアァァァァァァァァァァァァッ!」
そして、侵入者を一飲みにせんと鋭い牙が並ぶ咢を開き、全てを腐敗させる暗黒の息吹がクラウディアに向けて放たれた。
周囲に漂う瘴気とは比較にならぬほど濃密な、暗黒の濁流とも言える息吹を前にして、しかし、クラウディアの表情は変わらない。彼女はその場に佇んだまま瑞々しい珊瑚色の唇を開き、しなやかな右腕を上げて前方を振り払いながら、呟きを放つ。
「…≪正義の盾≫」
クラウディアが唱えた途端、彼女の全身を覆うほどの巨大な光の盾が現れ、暗黒の濁流の前に立ちはだかった。下方に柔らかな膨らみを持つ、曲線で逆三角形を描いたような形の光の盾は、貴金属と見間違うほどの圧倒的な存在感を放ち、その表面には淡い光が織りなす神秘的な模様が描かれている。暗黒の濁流は真っ向から襲い掛かり、光の盾を食い破らんと幾度も打ち付ける。
だが、光の盾は無尽の輝きを放ち、その全てを防ぎ切った。ついに暗黒の濁流が途絶え、最後の一筋の黒線が空しく盾の表面を流れるのを見て、クラウディアが新たな言葉を紡ぐ。
「…≪女神の戦槌≫」
クラウディアの言葉と共に、光の盾が変形する。柔らかな曲線を描いていた表面が前方に向けて急速に伸び、掌よりも大きな口径の砲塔と化す。
一閃。
その大口径の砲塔から放たれた極太の白光が死龍を捉え、漆黒の鱗による数瞬の抵抗を経て、その巨体を貫いた。
「ッ!?ッギャアアアアァアァァ…ァァァ…ァ…」
苦悶に身を捩らせ、断末の声を上げる死龍の巨体が、大穴を中心にして次第に白色に侵食されていく。やがて死龍は地響きを立てて崩れ落ち、後には半壊した石灰の彫像のような、巨大な龍の屍骸が残された。クラウディアは目の前に横たわる巨体に構わず、目を閉じてその場に佇み、左右に手を広げる。
「…≪祝福≫」
クラウディアの周囲を包む光の被膜と、大口径の砲塔が輝きを増し、広い空間を次第に覆っていく。広間に漂う瘴気の靄が光と混じって消滅し、ほどなくして広間に立ち込めていた薄暗い瘴気は一掃された。
「クラウディア様っ!よくぞご無事でっ!」
扉の外で気を揉んでいた騎士達は、中から姿を現わしたクラウディアへと駆け寄って彼女の無事を喜ぶと、広間に横たわる巨大な龍の屍骸を目にして飛び上がる。
「クラウディア様っ!建国以来初の大偉業、誠におめでとうございますっ!」
「聖女様万歳っ!王国万歳っ!」
騎士達はひとしきりクラウディアの功績を讃えた後、彼女と共に広間の奥へと足を踏み入れた。王都にそびえ立つ王宮や大聖堂以上に天井の高い、広い空間の奥へと進むと、やがて最も奥にうず高く積み上げられた財宝が、彼らの前に姿を現わす。
「何と言う金貨の山だっ!?それに、こんな見事な宝石は見た事もない!」
「こちらには、失われた古代文明の魔法付与装身具もありますっ!」
これまで目にした事もない煌びやかな財宝を前に騎士達が歓喜に湧き立つ中、クラウディアはただ一人その場に立ち尽くし、唇を噛んで焦燥を募らせていた。
「…何て事っ…此処にも無いだなんて…!」
***
「…クラウディア殿」
財宝の回収を騎士達に任せ、地上へと戻って来たクラウディアは、目の前に佇む若い男性を認め、目を見開いた。
「…殿下、何故此処に?」
「貴女が『深淵』に向かったと聞いて、居ても立っても居られなかった。先ほど部下から、貴女が単独で死龍を撃破したと伺った。クラウディア殿、開闢以来の偉業を成し遂げるとは、貴女はまさに史上最強の聖女だっ!」
男性は、眉目の整った秀麗な顔に目一杯親愛の念を籠め、クラウディアの偉業を喜ぶ。この国の第二王子に加え、その美貌と相まって国内の多くの貴族令嬢から想いを寄せられている彼の心からの賞賛に、しかし、クラウディアは眉を顰める。
「…殿下。殿下が『深淵』に向かわれた事を、姉は知っているのですか?」
「ぁ…あぁ、勿論伝えたとも。妹の君の事が心配だからと伝えて、理解して貰ったよ」
彼、フェルナンドの歯切れの悪い答えに、クラウディアは眉間に皴を寄せたまま頭を振るう。
「…姉は決して、そのような事は申しません。私の心配をする暇があれば、迷わず殿下とお会いする機会を優先する事でしょう。殿下、すぐさま王都へとお戻りになり、姉に顔を見せて安心させて下さい」
「し、しかし…」
「殿下は、姉の婚約者なのですから。どうか彼女の想いを汲み入れ、出来るだけ彼女に寄り添ってあげて下さい」
「な、ならばっ!せめて貴女を王都に送り届ける役目だけは、果たさせていただきたいっ!」
フェルナンドの、一国の王子とは思えない強い申し出に、クラウディアはもう一度頭を振るう。
「いえ、私は王都には戻りません。このまま直ちに次の目的地へと向かいます」
「次…?それは、一体何処に…」
国内に残る、最後の瘴気溜まりとも言うべき「深淵」を制覇した以上、フェルナンドにはクラウディアがそこまで急行する場所が思いつかない。疑問符を浮かべるフェルナンドの視界に、背後へと振り返ったクラウディアの背中が映し出され、その行動の意味する事にフェルナンドは驚愕する。
「…クラウディア殿!?ま、まさか…!?」
「…えぇ…」
フェルナンドの言葉にならない制止の声にクラウディアは応えず、ただ南に広がる森を見つめたまま、太陽を思わせる橙色の瞳に決意の光を湛え、静かに呟く。
「…魔王城。『深淵』でも見つからなかった以上、探し求める物は魔王の手元にあるとしか思えません。――― 私にはもう、悠長に構えている時間など、ない」