ニエちゃんの手習い
次の日の朝、ルインはニエちゃんの朝食係よりも早く登校すると、真っ先に彼女の入っている檻に近づいた。
ウトウトしていたらしいニエちゃんは、ルインが近づくと寝ぼけ眼をこすりながら、「ルイン、おはよう」と言った。
「……僕の名前、知ってるの?」
ルインは面喰った。彼は他の生徒と比べて、あまりニエちゃんに構ったことがなかったのだ。だがニエちゃんは当然のように、「うん」と頷く。
「キュー、おしえる、した」
『キュー』というのは、キュリエレーナのことだろう。予想外のことに戸惑っていると、ニエちゃんは笑いながらこちらを見てきた。
「ルイン、だいすき」
ニエちゃんが檻の中から腕を伸ばして、ルインの両手を包み込む。柔らかな手のひら。ルインの心が揺れ動いたのは、彼女の語彙が増えていることに驚いたためばかりではない。
その優しい感触が、両親に頭を撫でられた時の感覚と似ていると気が付いてしまったのだ。
「……それ、意味が分かって言ってるの?」
ルインはとっさにニエちゃんの手を振り払いながら、顔を真っ赤にして目を逸らせた。自分から拒絶しておきながら、その温もりが離れてしまったことがどうも口惜しいと感じてしまうのが何となく腹立たしい。
「だいすき、ぎゅっ、したい。いっしょにいる、したい」
ニエちゃんは自信満々に答える。
「わたし、ルイン、だいすき。ごはん、ゼリー、くだもの、も、だいすき」
ニエちゃんは、檻の隅のゴミ箱に入っている果物の皮を指さしながら言った。ゼリーばかりでは飽きるだろうということで、少し前から彼女には色々なものが差し入れられるようになっていたのだ。
「……なんだよ、それ」
食べ物と同列で語られていることにルインは少々解せない思いだ。
「ゴブリン並みの知能のくせに僕を馬鹿にして……。どうせお前なんて、喋れるだけで字は書けないんだろ」
「じ……?」
ニエちゃんはしばし首を傾げた後、近くの紙にクレヨンで何かを書き始めた。それはルインの目には、グネグネと曲がる見慣れぬ模様のように映った。
「何それ?」
「じ!」
ニエちゃんは当たり前のように言った。
「ルイン、だいすき、かく、ある」
「もしかして人間の文字?」
三度目の『だいすき』に心が揺さぶられるのには気が付かない振りをしつつ、ルインはそんなふうに推測した。
「人間にも文字があるのか……。でもこんなの、誰も読めないよ」
本人しか読めない文字は文字としての役割を果たしていないだろう、とルインは結論付ける。思った通りの『下等生物』だ。ようやく本調子を取り戻したルインの中に、優越感が込み上げてきた。
「いいかい、僕の名前はこう書くんだよ」
未就学児に読み書きを教えるような気持で、ルインはニエちゃんの書いた人間文字の横に、悪魔文字で『ルイン』と書いてみせた。
「これ、ルイン?」
「そうだよ」
ニエちゃんは物珍しげにルインの書いた字を眺める。そして、何を思ったか新しい紙を取り出して、ルインの悪魔文字を真似してそこに字を書きだした。
「できた!」
書き上がった文字をルインに楽しそうに見せてきた。あまりに眩しい笑顔にルインは毒気を抜かれそうになりながらも、「そんな下手な字じゃ、何て書いてあるのか分からないよ」と負け惜しみを口にする。
「……れんしゅう、する、です」
ルインの書いた字と比べて、明らかに自分の文字が稚拙であるこということにはニエちゃんも気が付いているのか、眉間にしわを寄せながらクレヨンで紙に字を書いていった。
「ルイン、ルイン、ルイン……」
「……他の文字を教えてやるから、書くならそれにしてよ」
画用紙いっぱいに自分の名前が書き連ねられていくのは、何となく奇妙な光景だ。しかしニエちゃんは気にするでもなく、「わたし、ルインのなまえ、かく、したい」と言った。
「わあー! ニエちゃん、字が書けるようになったの!?」
ルインが、自分の名前が書かれた紙が床中に散らばっていく様を何とも言えない表情で見ていると、突然元気な声が聞こえてきた。
「エ、エド……」
「いっぱい『ルイン』って書いてあるー!」
本日の朝食係のエドが落ちていた紙を一枚拾って、面白そうに言った。もう係の子が来る時間なのかと思いつつ、ルインは気恥ずかしくなって顔が真っ赤になる。
「言っておくけど、僕が書けって言ったんじゃないからね」
「ルイン、じ、おしえてくれた、です」
ルインの気も知らず、ニエちゃんが意気揚々と話し出す。エドが「すごいねぇ」と言った。
「喋れるだけじゃなくて、字も書けるなんて大発見だよ! お手柄だね、ルイン!」
「大発見……」
もしかしたら他ならぬ自分が、ニエちゃんを『下等生物』の括りから出してしまったのではないだろうかと気が付いて、ルインは級友の言葉を複雑な表情で繰り返した。




