プロジェクト
第五章 プロジェクト
次の朝、俺はいつもより一時間早く起きた。マリーは泣き疲れたのかぐっすり寝ている。
「小百合との約束なんだ。悪いが今日は留守番してくれ」
と心の中で呟くと着替えと鞄を持ちそっと一階へと降りた。
俺は玄関を開けると左右そして上空をしっかりと確認してから外へ出た。どうやら中華鍋は落ちてきそうにない。安堵の気持ちで二、三歩歩くと二階の窓から、
「あ~!」
というマリーの大きな声が聞こえた。俺はとっさに路地裏に入り、そのまま細い道を進んだ。一緒にいないから大丈夫だとは思うが、車が俺に向かって突っ込んでくる可能性は否定できない。となると車が通れない細い道を行くのが賢明といえるだろう。
暫くは何事もなく過ぎていく。どうやら俺の作戦勝ちのようだ。
しかし、世の中そんなに甘くはないようだ。突然、俺の目の前に何かが落ちてきた。予想通り大きな中華鍋である。
「こんな重いものまともに当たったら死ぬぞ」
そう呟きながら上を向くと、また何かが俺に向かってくる。ガラスのコップだ。更に皿だ。フォークだ。金魚鉢だ。
俺は慌ててさっき降ってきた中華鍋を拾うと傘のように頭の上へと持ち上げた。
「何で俺の居場所がわかるんだ?」
と、独り言を言いながら俺は走りだした。
いろいろな物が降りしきる中、俺は大通りへと向かった。大通りに出れば変な物を降らすことなんてできないだろう。こんな不思議な現象を多くの人に見られたらたちまちニュースになってしまう。それではマリーは困るはずだ。
そしていよいよ大通りという所で俺は急ブレーキをかけた。
「待てよ、これは罠だ。俺を大通りに出させる罠だ。大通りに誘い出し自動車で仕留めるつもりなんだ」
先ほど降ってきた蛸が中華鍋から俺の顔に移動してきたので、俺はそれを振り払った。
「しかし、いくら嫉妬に燃えるマリーでも、俺を殺しはしないだろう。好きだとか何とか言ってたし。殺すつもりがないのなら一体何がしたいんだ」
俺は少ない脳みそをフル回転させて考えた。
「そうか! 殺さなくても病院送りにすれば俺は学校に行けなくなるではないか。これだ、真の目的はこれだったのか」
俺は向きを変えると今来た道を走り右折した。かなり遠回りになるが車の通らない道ばかりを選ぶことにしよう。
マリーのしつこい攻撃の中、俺は走った。走って走って走り抜いた。ナイフだ。椅子だ。火炎瓶だ。機関銃だ。
「何か、降ってくるものが過激になってきたぞ」
しかし、もう学校は近い。タンスだ。グランドピアノだ。システムキッチンだ。ここまでくると生きているのが不思議なくらいである。
見えた。学校だ。人通りが多い場所に出ると流石に何も降ってこなくなった。俺は息絶え絶えに正門前まで辿り着くことができた。
「よし、何とか生き抜いたぞ」
俺がガッツポーズをした瞬間である。前から九十歳は超えているのではないかという老人がセントバーナードを連れてこちらに向かってくる。
「おい、冗談だろ? あんなよぼよぼのじいさんがセントバーナードみたいな大型犬を散歩させるなよ!」
俺とセントバーナードの目があった瞬間バトルは開始された。大型犬にとっておじいさんの手を振りほどくなどいとも簡単なこと。
俺は必死で校庭へと走った。走って走って走りまくった。犬が追い付けないのだからかなりのスピードが出ているのだろう。そしてそれから約百週、距離にして二十キロメートルほど走り続けてやっと俺は解放された。いつ心臓が止まってもおかしくない状況だが、たった一つの収穫を得ることができた。そう、犬が走り疲れて倒れる瞬間を初めて見たのである。こんなのそう見られるものではない。
「どうして学校に中華鍋を持ってくるわけ?」
小百合は不思議そうに訪ねた。
「生徒玄関に置きっぱなしというのもどうかと思って」
今は放課後。場所は三年一組の教室だ。
何故放課後まで小百合と話をしていないのかと思うかもしれないが、とにかく今日は忙しかった。まず教室に入れたのは二限目の途中であり、昼休みは先生から呼び出され職員室で過ごした。更に今日の授業は移動教室が多く小百合とはなかなか話すことができなかったのだ。放課後に思い出の屋上で話をしようとも考えたのだが、今日に限ってヘリコプターがやたらと飛んでいる。危険を感じた俺は教室で話すことを提案したというわけだ。
「お母さんの話では太田君達の容体が良くないらしいの。肺癌という癌は他の臓器に転移し易いから。もう手遅れかもって言ってたわ。手術を諦める方向で考えてるらしいの」
小百合は悲しそうな目で言った。
「私には関係ないことなんだけど気になっちゃって。変な噂も流れてるし。勿論そんな噂は信じてないけど腹が立つじゃない」
俺は小百合から視線をそらし大きく深呼吸をした。
「あの噂、まんざら嘘でもないんだ」
「嘘でもないって。四郎君、まさか丑の刻参りしたの?」
「あ、いや、そっちの噂?」
「四郎君、 丑の刻参りって女性の方が似合ってると思わない?」
「やってないって。そうじゃなくて別の噂の方」
「じゃあ、マッドサイエンティスト? それとも金の斧?」
「違う。違う」
「私はそれだけしか知らないわ」
肝心な噂は知らないようである。
「実はもう一つあるのだが、それが正解なんだ」
「そういえば別な噂があるって言ってた人がいたっけ」
「この前は小百合を騙す形になってしまったが、不良三人組の件は俺の仕業なんだ。俺がマリーに頼んでやったことなんだ」
「どういうこと? まさか黒魔術?」
「ああ。勿論殺そうなんて欠片も思ってなかった。病気で苦しませて反省させようとしただけなんだ」
「じゃあ、何故こんなことに」
「マリーの父親が勘違いして、こうなってしまった」
「嘘でしょう?」
「残念だが事実だ」
俺は下を向き小百合の次の言葉を待った。もしかしたら嫌われるかもしれないという不安が胸をよぎる。
小百合は母親が看護師という職業に就いていることもあり命というものを特に大切にしている。以前、理科の授業で蛙の解剖をすることになった時は皆勤賞を捨ててまで学校を欠席したくらいだ。
「何とかならないの。その黒魔術とかで」
小百合の返答は否定的なものではなかった。というより理想に近い返事と言うべきか。どうやら嫌われずに済んだようだ。目の前が急に明るくなる。
「一応対策は練っているけど、なかなかうまくいかなくて」
俺は今までのいきさつを全て話した。
「するとクロのお母さんの魔力を高めればいいのね」
「ああ、そういうことだ」
「お願い、私にも手伝わせてほしいの。駄目かな?」
「勿論いいに決まっているじゃないか」
俺は嬉しくなって即答してしまったが、小百合とマリーという組み合わせを考えると断るべきだったのかもしれない。
「ありがとう、四郎君。私ハラハラしながら見てるだけなんてできない性格だから。それに四郎君と一緒に同じ目標に向かって進みたいの。私一度失敗してるし」
「何だ、マリーの言葉を気にしてたのか?」
「悔しいけど」
「あいつの言うことなんか気にしなくていいのに」
小百合は嬉しそうな顔でにっこりと笑った。
「じゃあ、今日四郎君の家に行っていい?」
「今日は止めた方がいいかも」
俺は今朝起こった不思議現象を話したが、小百合の決心は変わりそうもないので学校の帰り家に寄ってもらうことにした。
家に着くと俺の部屋のドアは闇に包まれていた。宙に浮いた蝋燭がドアノブを暗く照らしている。
「何これ?」
「何だろうね?」
俺は苦笑いしながら答えた。
「ここで突っ立ってても仕方ないから入るわね」
小百合がドアノブに手をかけようとしたので、俺は慌ててそれを制した。
「俺が先に入るから。何となく危険な香りがする」
俺がドアをそうっと開けると薄暗い部屋の中央にマリーが浮いて腕組みをしている。勿論マリーに腕などないのだが、そうしているように見えるのである。
そして部屋の中央左には輪になったロープが天井から吊され、その横には電気椅子らしき物が置かれている。一番右にはギロチンだ。
「さあ、どの方法で責任を取るの?」
マリーはいつになく低い声で言った。
「ち、違うんだ。誤解するな。今朝はお前があまりにすやすやと寝てたから起こすとかわいそうだと思って」
「いつもより一時間も早く登校すれば寝ていてもおかしくないわよね。どうしてそんなに早く行くわけ?」
「それは、今日は日直だったから」
「日直は三日前に終わってるわ。それにそんな早く行く必要なんてないわよね」
「実はウサギの餌やり当番だったので」
「小学生か!」
マリーの目が光り始めた。
すると突然小百合が部屋に飛び込んできたかと思うと俺をかばうように前に立った。
「何であんたがここにいるのよ」
「いたっていいじゃない。恋人だもの」
「な、な、な」
「四郎君が朝早くいなくなった理由を教えてあげるわ。あなた抜きで話がしたかったからよ。文句ある?」
「何ですって!」
「うっ」
小百合の手が喉元に伸びる。息ができないのかもしれない。マリーを止めようと俺が一歩前に出ようとすると小百合はそれを制した。
「犯罪でも犯すつもりなの? それとも私とまた暮らしたいのかな?」
青ざめた小百合の顔はすっと元に戻った。
ふと見ると三号が一生懸命マリーを説得している。『こんな奴でも親なんだなあ』と思った瞬間、三号は小百合に向かって飛びつこうとした。俺はとっさに三号を叩き落とすと、
床に落ちた三号は妻による愛の鞭に苦しみ始めた。何て懲りない奴なんだ。
「で? 何しに来たのよ。ここはあなたの来るところじゃないわ。私と四郎のスイートホームなの」
「ねえ、私達暫くの間、停戦協定を結ばない?」
「どういうこと?」
「私も肺癌を治すプロジェクトに入れてほしいって言ってるの」
「断る! これは私と四郎の問題なの。あなたには関係ないわ」
「もう時間がないの。不良三人組は手術もできないくらい悪化してるのよ。一人でも多い方がいい知恵が出るかもしれないでしょ」
「そりゃそうだけど。あなたにだけは入って欲しくないの」
落ち着いた声で言われたのがよほど腹が立ったのか小百合は拳を握りしめて深呼吸をしている。
「よく考えてね、クロさん。もし不良達が死んじゃったら、あなたのお父さんが罪を問われるのじゃなくて?」
「尻尾アクセサリーが何の罪に問われるっていうの?」
マリーは笑いながら答える。
「あら? あなたがどこから来たかは知らないけど、あなたの世界にも法律ってあるんじゃないの?」
「それはそうだけど。一応は依頼されてるから罪は軽くなると思う‥‥」
小百合はこれを聞くとにやりと笑って続けた。
「いいの? 大切なお父さんが罪人になっても」
「そ、それは」
「あなたの大切なお父さんがどうなってもいいの?」
暫く無言の時間が続いた後、マリーは小さな声でぼそりと答えた。
「わかったわ。条件付きで手伝って貰うことにするわ」
「どんな条件かしら」
「まず一つ目は私のことをマリーと呼ぶこと。二つ目は私が指揮を執るから意見が分かれた時は私の意見を優先すること。そして、四郎に手を出さないこと。以上よ」
「四郎君に手を出すなって私たちはもう付き合ってるのよ。今更手を出すなっておかしくない?」
「それは私が現れるまでの話よ。これから四郎の心はあなたから私に移っていくことがわからないの?」
「何よそれ!」
小百合は大きな声をあげると今にもマリーに掴み掛りそうな体勢になった。俺は慌ててマリーに話しかける。
「マリー。やっぱりお前は俺のことが好きなんじゃないのか?」
これでマリーが否定すれば小百合へのアシストになる。何て頭がいいんだ俺。
「そうよ。私はあなたが大好きよ。愛してるわ。だから他の女に取られたくないの」
え? 今なんと? ややツンデレのマリーが素直な気持ちを言うわけがないのだが。どうなってるんだ?
「何言いだすのよ! 尻尾アクセサリーの分際で」
「この姿は仮の姿って言ってるでしょう。その気になればいつだって人間の姿に戻れるわよ」
「へえ、だったらなんでそんな不格好な姿をしているわけ?」
「裏の世界の住人が表の世界に来た時には、この姿でいることが義務付けられているの」
「義務付けられてる?」
「表の世界で人間の姿になっていたことがばれると、強制連行されて牢屋に入ることになるわ」
これを聞くと小百合はニヤリと笑った。
「要するにあなたを人間の格好にすればいいんだ」
何か最近の小百合を見ていると随分印象が変わってきているような気がしてならない。結婚してしばらくすると女性は変わってくるという話も聞くがこれが小百合の本性なのか?
「私が人間の姿になればあんたなかとは比べ物にならないくらい可愛いんだからね」
「ふーん。どうだか。自分で自分のことを可愛いと評価してる時点で終わってると思うけど」
「わかったわ。私の写真を見せてあげる」
そう言うとマリーは妙な呪文を唱えだした。すると空中に立体映像が現れ超可愛い女の子が映し出されたのである。
「どう?」
「こ、これは」
俺は思わず言葉を失った。映し出された女の子は今まで見たこともない可愛いい顔をしている。おそらくアイドル歌手だと言われたら何の疑いもなく信じるだろう。
「これでも四郎が心移りしないと言い切れるわけ?」
「い、い、言い切れるわよ。いくら可愛くてもこの姿になれないんだったら意味ないじゃない」
小百合の体は小刻みに震えている。
「とにかく私の提案が不服なら帰ってちょうだい」
「四郎君は私と付き合ってるのよ!」
「あなたもいい加減頭悪いわね。好きな彼を奪われる危険を冒してまであなたを仲間に入れると思ってるの?」
「そ、それは‥‥」
「あなたが一切四郎に手を出さないと約束できないなら当然この話はなかったことになるわね。まあ、人手がほしいというのは正直あるの。だからあなたが誓ってくれたらこのプロジェクトに参加してもらってもいいわ。どうするの?」
「わ、わかったわ。約束する」
なんと! あの小百合が言い負かされているではないか! こんな姿見たことがないぞ。小百合と言えば何でも無難にこなすイメージしかないのに。
「私のことをマリーと呼ぶこと。私が指揮を執るから意見が分かれた時は私の意見を優先すること。四郎に手を出さないこと。いいわね」
小百合は下を向いたまま頷いていたが、いきなり顔をあげると、
「指揮は私が執った方がいいんじゃなくて。あなたが指揮を執って解決するのなら、もうとっくに解決しているはずでしょ」
これが女の維持ってやつか。すごい。
「今までは忙しかったからで、本腰をいれたらすぐ解決よ」
「この状況で本腰をいれていないなんて考えられないことね。私の方が頭良さそうだし、私が指揮を執るわ。いいでしょ?」
「何を言ってるの? どう見ても私の方が優秀でしょう?」
「そうかしら?」
と言うと小百合は俺の方を見た。とても嫌な予感がする。
「ねえ、四郎君。私とマリー、どちらが頭いいと思う?」
予感的中だ。こんなのどちらを選んでも後で地獄を見るに決まっている。
「どちらも同じくらいかなあ」
「真剣に答えて!」
二人は声を揃えて叫んだ。仲が悪いくせにどうしてこういう時は声が揃うんだ?
この後、俺はねちねちと二時間ほどいじめられるのであった。