007 - Burn with anger
「いやだ、こないで! 怖いよ、助けて──」
下階にいる何かに気配を読まれないように動くだなんて、もはや無意味以外の何物でもない。それに、この幼子の悲鳴を聞いて、おれ自身がそうすることを許さなかった。そうしている暇など、なかった。
階段の本来の用途を無視してはじめの一段を強く蹴り、飛び降りる。きっと痣になっていることだろう、先程の戦闘で痛めた足首が悲鳴をあげた。駆け付ける間に咄嗟に掴んだガジェットポーチから麻酔銃を取り出し、階段横の、おれから見て右側の部屋のドアを勢いよく開く。既に色のくすんでいる、白いペンキの塗られた古びたドアは素材の木が腐っていたようで、壁に当たった衝撃でぼろぼろと木屑をこぼした。
「動くな!」
おれは声を張り上げた。劈くような悲鳴がぴたりと止む。銃口は真っ直ぐ対象の首を捉えている。任務前までは身体の芯まで冷え込むような寒さを感じていたのに、今は薄らと汗が浮かんでいた。
対象を見やる。クローゼットに閉じこもっていた男の子を引き摺り出そうとその細い手首を乱雑に掴む、傷だらけの手以外の皮膚が見えない。顔は大きなフードで隠され、おれと同じくらいの身長をしている対象の身体は足首まで隠れる長いローブで覆われている。
「その子を離せ。これで撃たれたくなかったら」
そう脅すと、対象は余裕を見せるようにゆっくりとこちらを見やった。「飽きた」とでも言うかのように、これまた乱雑に男の子の手を離しながら。
「撃つ? ふうん、中心区の銃は可笑しな形をしているな。あの乗り物もそうだ」
フードの下から口元がちらりと覗く。そこから発されたのは、意外にもおれより年若い少年のような声だった。銃や車の形の話などして、こちらを小馬鹿にするような態度を取る。
「スーザンを返せ。いるんだろう? 彼女の匂いがする」
フードの少年が、スーザンの名前を出す。今にも再び攻撃状態に陥りそうだった彼女と、それを押さえる、うなじのランプを赤く点滅させるロイドの姿が脳裏を過った。
この少年が、スーザンの言う “リック” という人物なのだろうか。
あっと言う間もなく彼が黒い何かを取り出す。銃に似た形をした何かだ。否、こんな状況で取り出すものと言えば、銃しかないであろう。しかしそれは、中心区のものとは違う。
乾いた破裂音と共に、おれに向けられた銃口からレーザーではない何かが飛び出してくる。咄嗟に避けるが、それは頬を掠めていった。
「俺が本気になれば、今頃あんたの額に穴が開いていたさ。ちっぽけな曇り空が覗くだろうな」
少年が口の端を上げ、挑発するかのように笑みを見せる。
しかし今この場所でそれに乗ってしまえば最後、父親の死体に縋るこの哀れな男の子にも被害が及んでしまうことであろう。
「そうか。外してくれるだなんて、ずいぶんとお優しいことで」
おれは彼の笑みをそっくりそのまま真似、部屋を飛び出した。
少年は後を追ってくる。後ろから数発の破裂音が聞こえるが、おれは壁を蹴って避ける。色褪せた花柄の壁紙が剥がれかかっている脆い壁面はボロボロと崩れ、足を掛けた部分がまるで足跡のように窪みを残した。
広いリビングルームに見える開放的な窓を蹴り破り、外へ出る。その間にもいくらか破裂音が続いたが、それらはすべてガラスを突き抜けていくだけであった。掠めもしない。
「なんだ、それが本気?」
おれは地表を蹴って宙を舞い、ガジェットポーチから抜いた光線銃を構え、レーザーを3発お見舞いしてやる。聞き慣れた銃の音がした。
銃の腕が落ちてしまったか? そのうち1発だけが少年の足首を掠めたようで、彼の苛ついたような舌打ちが聞こえてきた。
レーザーガンは流血こそしないが、命中すれば勿論、ほんの少し掠めた程度でも燃えるような熱さと痛みを伴い、たとえアウトローであっても気絶してしまう者が大半だ。舌打ち程度で悶える様子も見せない彼は、実戦に慣れており、精神力も鍛えられていると見受けられる。
少年が正面から銃を構える。しかし、カチャリという僅かな音がしたのみで、銃口から何かが飛び出された時に聞こえる乾いた破裂音は聞こえない。「クソッ」と悪態を吐いた少年は懐から二丁の銃を取り出し、構えた。おれはその隙にレーザーガンのトリガーを引くが、少年の腕に嵌められたガードらしきものでレーザーを弾き返されてしまう。予想外のことに動きが追いつかず、レーザーがおれの髪を数センチメール薙ぎ払っていった。
「ルイス!」
無線からヤマトの声が聞こえる。前方の地上数メートル上を見上げると、東支部の車両が少年の左背後に見えた。車両は音を立てないため、無線を受けるまでその存在に気が付かなかった。
少年に距離を詰められたおれは、近距離で二丁の銃から高速で発されるそれを避けながら、時折レーザーを放った。中心区の住民は殺しは禁句とされている。近距離で臓器に損傷を与えないように避けながら発砲するのは、なかなかに難しかった。
「ティモシーとロイドから通信を受けた。ダコタ・エイデン、頭部と左半身を強打し出血多量により気を失っている模様。止血と応急処置はしたそうだけど、早く撤退しなければまずい。ティモシー・エイデン、右脚を骨折。歩行は不可能だ。彼らに応援は頼めない。ねえルイス、ロイドはどの部屋に?」
「北東側の角部屋だ」
「ごめんなさい、ルイス。応援は難しい」
ロイドのいる部屋はつまり、スーザンのいる部屋だ。彼女の居場所を少年に気付かれてはならない。ボソリと通信で聞き取るのがやっとの声で居場所を伝える。ヤマトは謝るが、彼が謝るべきことではない。彼は彼の役割を果たすまでだ。
目の前の少年が、ふと発砲を止める。
おれに彼の声は聞き取れなかったが、フードから覗く彼の口はたしかにこう動いた。
“Thank you, Louis.”
少年が駆け出すのとおれがトリガーを引くのとでは、どちらが早かっただろう。
レーザーは少年の脚を貫いた。この目でそれを確認した。
しかし彼は、アウトローだ。
その素早い動き、慣れた戦闘の様子、レーザーで裂けたブーツから覗く、傷痕の見えない肌。間違いなく、アウトローだ。
レーザーによって貫かれたはずの彼の脚は、穴の空いた布ーが見えるだけで、そこから覗くのは傷ひとつない白い皮膚であった。
すかさず追いかける。蹴って動いた砂に滑って、足がもつれてしまいそうだ。
スーザンの居場所が分かった今、彼が律儀にドアから入る訳がない。白い木製の柵に乗り、枯れた木に飛び乗る。ぼろぼろと木屑が落ちた。鮮やかに跳躍し、屋根に手を引っ掛けた。そこから腕力を使って屋根に飛び乗り、斜めの屋根を反対側に滑り降りる。
おれは地上から家の反対側に回り込み、滑り降りてくる彼に下からレーザーガンの銃口を向け、発砲した。
それは、少年の姿に気付いてロイドの手を抜け出そうと暴れだしたスーザンの横腹を僅かに裂いていった。スーザンの細い体躯がロイドの手を離れて宙を舞う。しかしそれを、車両でスーザンが受け渡されるのを待機していたデューイが受け止める。
「行け!」
ロイドが声を張り上げた。車両のドアは閉じ、猛スピードで中心区へと向かっていった。タイムリミットは残り20分。中心区まで戻り、手続きを終え、こちらに再び戻ってくるだけの時間は、もうない。
これがシーカーズの現実だ。今までに何人がそうなっただろう? いつかそうならざるを得ない状況になる時が来るかもしれないと覚悟はしていたつもりだが、それがまさか、こんなに早いだなんて。
しかしそんなことを考えている暇はない。少年が飛び降りてくる。彼の右腕には、きらりと光る刃物が握られている。おれはレーザーガンを構えた。
「ルイス、駄目だ!」
ロイドの声が聞こえる。
それからの一瞬は、おれにとってはうんと長い時間に感じられた。
気が付けば、おれに覆いかぶさっているロイドの、間違いなくうなじの位置に、少年がおれに向かって振りかざしていたはずの刃物が突き立てられていた。
少年のフードがはだけ、短い黒髪と、大きく見開かれた、はっと透き通るようなオーシャンブルーの瞳が見えた。
頭が真っ白になった。
おれはがむしゃらにレーザーガンのトリガーを引いていた。白っぽい光の線が、幾度も少年に向かって放たれた。少年は動かなかった。瞳は膜が張ったように潤んで、うまく前が見えない。
「何やってんだ、馬鹿野郎!」
ふと背後からそんな声が聞こえて、頭に強い衝撃を受けた。
視界が真っ暗に染まっていく中、目の前に倒れるロイドの姿だけを、視界の端に捉えることができた。