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メリー

 ぼくは玄関を見た。かあさんのつっかけがなかった。ぼくが帰ってくる時間にかあさんがいないことなど、今まで一度もなかった。明らかに異常事態だ。

 ぼくは悲鳴に近い声を上げ、外に飛び出した。

 どこをどう走ったのか思い出せない。最終的に犀川の河川敷を走っていた。

 刻々と空は暗くなり、強い風が吹きつけた。遠雷がかすかに聞こえ、雲が鈍く光っていた。

「かあさん!」

 ぼくは川に向かって叫んだ。体全体が心臓になって、縮んだり膨らんだりしている気がした。

 真っ暗な部屋に戻り、電気をつけると、ちゃぶ台の上にオムライスとポテトサラダが綺麗にラップをかけられて置いてあるのに気が付いた。ぼくの皿に盛りつけてあるということはぼくの夕食のようだ。ぼくの好きなオムライスとポテトサラダをかあさんは作って置いていったんだ。

 どういうことかわからなかった。ぼくは座り込み、畳に手をついて、うわあーうわあーと声を上げて泣いた。

 どのくらいそうしていたのかわからない。ご飯に手をつけるのも、なにやら恐ろしかった。あまりにも異常事態だ。

 十時頃、ぼくはさすがに泣き疲れた。見上げるとメリーがつめたく見下ろしている。赤い人形も笑っていない気がする。

 ぼくは踏み台を持ってきて上に上がり、紐を引っ張ってメリーを回した。トロイメライが流れる。ぼくはじっと耳をすました。鳴り終わると回し、また鳴り終わると回した。静寂が恐ろしくて、ぼくはメリーを回し続けた。トロイメライを聴いているうち、少し心が落ち着いてきた。

 かあさんは急用ができて、鍵もかけずに慌てて出て行ったのかもしれない。夜遅く帰って来るのかもしれないし、明日の朝かもしれない。ぼくがちゃんと留守番できたら、「えらかったね。遼ちゃん」と頭を撫でてくれるに違いない。

 ぼくはメリーを見つめて、何度も「そうだよね?」と問いかけながら、オムライスとポテトサラダを食べた。赤い人形は、やっと笑って見えた。

 そのあと布団を敷いて横になった。布団が妙にひんやりと冷たかった。サーッとシャワーのような細かい雨音がした。

 眠れないまま体を硬くして横になってると、深夜オヤジが帰ってきた。オヤジにすがって「かあさんは?」と訊こうかと思ったが、体が動かなかった。なにか恐ろしい事を告げられたらどうしよう。ぼくは寝たふりをした。

 オヤジは襖を開け、ぼくの寝ている部屋を見ていた。いつもならぼくのとなりにかあさんの布団があるはずなのに、今夜はぼくだけなのだ。オヤジが部屋を凝視している様子に、ぼくは息を飲んだ。

 長い時間、オヤジは部屋を見つめていたが、やがてピシャリと襖を閉めて居間に行った。

 ガサガサ、ゴトゴトと音がして、やがてコップの音や、コッコッコッと飲み物を注ぐ音がした。酒を飲んでるのだと察した。

 ぼくは必死でメリーの音色を思い出し、頭の中で奏でながら目を閉じた。

 そのまま少しうつらうつらしたらしい。が、突然パリーン!という破壊的な音がして、ぼくは飛び起きた。あたりは白々と明るくなっていた。

 そっと襖を開けると、壁の下にコップが割れてるのが見えた。オヤジは鬼のような形相で壁を睨んでいた。オヤジがコップを投げつけたのだとわかった。掴んでいる一升瓶に力が入ったように見え、ぼくは弾かれたように立ち上がり、居間に飛び出した。

 オヤジはギョロッとぼくを睨んだ。

 ぼくの不安はピークに達し、ビリビリ震えながらぼくは叫んだ。

「かあさんは?かあさんはどこに行ったの?ねえ!かあさんは?」

 オヤジはクッと顔を歪め、「うるさい!」と怒鳴って立ち上がった。そしてそのまま電子ピアノを掴んで振り上げた。ぼくは目を見張り、息を飲んだ。声が出なかった。

 オヤジはピアノを思い切り振り降ろし、畳に叩きつけた。バキッと音を立て、ピアノは真っ二つに折れた。オヤジは「クソッ!クソッ!」と叫びながら、何度もピアノを叩きつけた。鍵盤が飛び出し、中の部品が内臓のように飛び出した。

 ピアノが壊れる音に合わせて、ぼくの顔はビクッビクッと引きつり、ぼくの心も音を立てて壊れた。オヤジはピアノを放りつけ、足で踏みつけた。ぼくは「あ・・あ・・」と呻きながら頭を抱えて座り込んだ。

 オヤジはまだ気が済まない様子で部屋を見回し、キッと上を見上げた。メリーを見ている。ぼくは「ダメッ!」と叫んだ。やっと声が出た。

 オヤジがメリーを掴んだ。

「やめて!やめて!」

 ぼくはオヤジの足にすがりついた。

「ええいっ!クソッ!こんなもの!」

 バリバリと引き剥がす音がして、次の瞬間、メリーが叩き落とされた。ぼくは悲鳴を上げた。オヤジは「ちくしょう!ちくしょう!」とメリーを踏みつけた。赤い人形の顔が陥没した。花房は無残に引きちぎられ、花びらが血のように飛び散った。

 ぼくの目から怒涛の涙が噴き出した。口を大きく開けてるのに声が出なかった。

「ヒイィック!ヒイィック!」と吸い込むばかりで、逆流した慟哭がぼくの喉を焼いた。大きくしゃくり上げながら、ぼくは這いつくばって必死に手を伸ばし、花びらをかき集

めた。

 たくさんたくさん拾いたかった。だけど七歳のぼくの手は小さくて、大半はポロポロと虚しくこぼれ落ち、たった数枚しか残せなかったんだ。


 ぼくは花びらを見つめてつぶやいた。

「かあさん・・」

 かあさんが出て行ったのは、オヤジが嫌で嫌でたまらなかったからだと思っていた。

 じゃあぼくは?

 ぼくも嫌いだったのか?

 ぼくもいらなかったのか?

 それを考えるとあまりにも恐ろしいから、ぼくはこう考えることにしていた。

 かあさんは仕事をしていないからお金がない。だからぼくを連れて行けなかった。

 だけど、絶対いつかぼくを迎えに来る。生活が落ち着いたらきっと迎えに来るはずさと。

 しかし、「若い男をつくって出て行った」とあいつらは言っていた。そうなると出て行った目的が違ってくる。

 やっぱりぼくはいらなかったのか?つまりぼくは捨てられたということか?

 あのやさしいかあさんがぼくを?


 七歳のあの日。ぼくのすべては壊れた。

 それまでのぼくも。幸せな生活も。

 今、再びすべてが壊れたんだ!

 新しい幸せがやってくる可能性さえも。


 涙も出なかった。真っ暗な闇がぺったりとぼくに張り付き、耳まで塞いだ。「しん」としてなにも聞こえない。

 ぼくは機械的に動いて花びらを箱に戻し、引き出しにしまった。


 学校に行き、ピアノの前に座っても、集中などできなかった。弾いても弾いてもミスばかりでぼくはため息をつき、立ち上がってウロウロ歩き、鍵盤をバーン!と叩きつけた。

「よう、オカマ!」

 ふいに声がした。戸口で伊島とチビと出っ歯がニヤニヤと覗いている。三人はプールバックを持ち、髪が濡れていた。プールに入った帰りなんだろう。

 伊島は「なに弾いとるがいや。ネコふんじゃったか」と言いながらピアノに近付き、楽譜に触った。

「汚い手でぼくの楽譜に触るな!」

 ぼくは怒鳴りつけた。

「へっ!家にピアノがないもんがカッコつけてピアノなんか弾くなま!貧乏人が!学校のピアノで練習して図々しいやっちゃな!頭いいと思っていい気になっとんな!だらっ!」

 伊島は悪態をついたあと、「こんなもん、俺でも弾けるわい」と言いながら適当に鍵盤を叩いた。チビと出っ歯も調子に乗って一緒に叩き、三人はゲラゲラ笑いながらピアノで悪ふざけを始めた。

 伊島はいつもにも増してテンションが高い様子だった。暇を持て余していると見える。暑さにやられたのかもしれない。このデリカシーのなさは許せない。今日は苛立っているからなおさらだ。

ぼくの目はつり上がり、ダークにシフトした。

「ほんとにくだらん奴らだな。レベルが低いにもほどがあるぜ!デリカシーなさすぎ!お前みたいな能無しに本気で怒るのもエネルギーの無駄だと思って黙っていれば調子に乗りやがって!芸術のわからない奴がピアノに触るんじゃねえ!ピアノが腐るだろ!ほんとに哀れな奴だな。恥を知らないからそうやって生きてられるんだな。お前、相当頭イカれてる。よく生きてるな。滑稽だぜ!この能無し野郎!」

「なにお──っ!」

 伊島は真っ赤な顔をして立ち上がった。

「クソッ!お前!ただじゃおかねぇ」

 伊島の赤い顔がスッと白くなった。


 ぼくは三人に羽交い絞めにされ、トイレの個室に押し込められた。三人がかりだと、さすがに身動きがとれなかった。

 チビと出っ歯は伊島に指示されるまま、ぼくの手を壁に付かせて上から押さえた。両手の自由がきかなくなり、ぼくは「クソッ!離せっ!」ともがいた。

 伊島がぼくのズボンとパンツをおろした。

「なにをするっ!」

 驚いてぼくは叫んだ。

 伊島は不気味に笑い、「ふふん。お前なんか浣腸してやる」と言って、なにかをぼくの前に突き出して見せた。

 釘だ!

「やめま!だら!キチガイ!」

 もがくぼくの両足を、チビと出っ歯がそれぞれ足をかけて開かせた。

 伊島がぼくの尻をつかんで覗き込んだ。

「ケツの穴どこや。わっ!くっせぇ!」

「やめろ!やめろ!」

 叫んでいると肛門に金属が当たった感触がした。続けて強い痛みが走り、全身が硬直した。

「はいった!くっせぇ!」

 伊島があざけ笑った。

 ぼくの怒りは沸点に達した。

「うおおぉ──っ!」

 ぼくは叫んでチビと出っ歯に思い切り頭突きを食らわした。

「ああっ!」

 チビと出っ歯は、呻いて手を離した。

 手が自由になったぼくは、めちゃくちゃに手を振り回して、誰彼かまわず殴りつけた。

 チビと出っ歯は、よろけながら個室を出て行った。

 ぼくは伊島の頭を両手で掴んで頭突きを食らわした。

「わあああぁ!」

 頭を押さえ、よろける伊島の襟首を掴んで個室から引きずり出すと、ぼくは馬乗りになって殴りつけた。

 どのくらい殴ったのか覚えていない。壁に血が飛び散っていた。

 這って行く伊島をチビと出っ歯が両側から抱きかかえ、三人が走り去って行くのをぼんやり見ていた。

 後日、伊島の鼻が折れたとどこからか聞いた。かなり腫れてたらしいが、新学期には普通に戻っていた。誰にやられたのか、伊島はなぜか絶対言わなかったらしい。チビと出っ歯も口を割らなかった。

 これ以後、ぼくと学校で出くわすと、三人はお化けでも見たように「ヒイィ──ッ!」と叫んで逃げて行った。


 ぼくはピアノ教室をさぼった。とてもピアノを弾く気分じゃない。

 さすがにあれだけ殴れば拳も腫れてる。ジンジン痺れて、二・三日はピアノを弾けそうにない。料理もキツイからお惣菜を買うことにした。

 部屋で時間を持て余していると、ふとタウンページに目が行った。

「湯涌で飲み屋」と言っていたな・・探してみようか・・まだ検証すべきことはあるんじゃないか。

 ぼくはタウンページを広げてみた。

「湯涌温泉」という名称は聞いたことはあったが、どこにあるのかサッパリ見当がつかなかった。イメージとして、たぶん町から離れた遠い場所なのだろう。

 飲み屋とはなんだ?なんて項目で探せばいいのだ?

 ぼくはとりあえず「スナック」で探してみた。電話番号の横に明記されてる住所をザッと目で追う。「片町」ばかりだ。湯涌は何町なのだ?「湯涌町」と出ているのか?全くわからない。湯涌町など見つからなかった。

 次は「居酒屋」で探してみた。知らない町の名前ばかり羅列している。

 目で追うのに疲れて、ぼくは本を投げ出した。


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