落陽
ぼくは毎日かあさんを待っていた。
学校から帰ると部屋に一人膝を抱え、耳を欹てた。
あたりがだんだん暗くなり、夕方の匂いが立ち込め、夜の気配が忍び寄ってくると、どうしようもない焦燥に駆られてぼくは外に飛び出した。
待ってるより捜そう!かあさんは家に帰りずらくてウロウロしているかもしれない!
ぼくは家の周りをひと回り走り、最後はいつもこの河川敷まで走ってきた。かあさんが出て行ったあの日そのままを再現するかのように、はあはあと息を切らして河川敷に立った。
日が暮れてしまえば、とりあえず今日のあきらめがつく。今日も捜したんだと納得もする。
ぼくは暗くなるまで河川敷に立ち尽くした。
かあさんが買い物袋を提げ、「遼ちゃん」と笑いかけてる幻が夕闇に消えてしまうまで、ぼくは目を見開き、じっと見つめていた。
「今日もここまでか」と断腸の思いで落陽を睨んだ。
「明日こそ」と渇望して落陽を睨んだ。
何度太陽が川の向こうに落ちて行っても、かあさんは帰らなかった。
今もここでかあさんの幻を見る。
見上げれば横に並んでかあさんが歩き、ぼくに微笑みかけている。手を伸ばせば触れられるくらい近くに。
でもその姿も年々おぼろげになっていき、伸ばしたぼくの手は空を切る。
かあさんといた風景はストップモーションが掛かり、ぼくの本体もたぶんそこで止まったままだ。
ぼくの背が伸びようが、何度季節が変わろうが、ただひたすらに無味乾燥な日々でしかない。
このままかあさんの姿が薄れていき、完全に消えてしまったらどうしよう。
突然恐怖に襲われ、ぼくはいてもたってもいられない衝動に駆られる。
忘れたくない!「リアル」を取り戻したい!
しかし、なにを手繰り寄せればいいのだ。
やはりぼくの手は空を切るばかりだ。
「リアル」を求めて、ぼくはこの道を歩く。
ここが一番強烈にかあさんを思い出すから。一番強烈に胸がヒリヒリと痛むから。
その痛みだけが、かあさんはたしかにいたんだと証明してくれる気がして、ぼくは痛みを堪え、川を見つめる。
川は淀みなく流れる。雲は彼方へと流れていく。
立ち止まっているのはぼくだけか?かあさんはぼくを置いたまま、ドンドン先へと歩いて行ってしまうのだろうか。・・・彼方へと。
「よう。オカマ!」
どこからかリアルな声がした。前方に伊島が見えた。
かあさんの美しい残像が掻き消され、最低のヤツが目の前に現れた。
伊島は男版岡本といったところか。デリカシーというものが救いようもないくらい欠落したデブだ。
伊島は子分のチビと出っ歯を引き連れ、三人で自転車を蛇行させながらぼくに近付いて来た。ぼくに突っかかってくるのは、こいつと岡本くらいだ。ぼくの顔が女みたいだと言い、「オカマ!オカマ!」とからかってくるが、ぼくはこいつにはあまり腹が立たない。本気で相手にするのが馬鹿馬鹿しい。空気が読めない哀れなヤツだ。自分が浮いてるとは露知らず、一人で馬鹿騒ぎして女子から激しく嫌われているが、本人は至って楽しそうだ。
ぼくをからかってくる様子が滑稽で、傍観的な態度をとりつつ、ぼくは失笑している。
「よう!カッコつけマン!」
伊島はぼくの前に自転車を停め、行く手を塞いでニヤニヤ笑った。ぼくは無視して、伊島を避けて通ろうとした。
「カッコつけんなま!だら!オカマ!」
伊島はぼくの胸をグイと押した。チビと出っ歯も「オカマ!オカマ!」と伊島の背後からはやし立てた。
ぼくは汚そうなしぐさで伊島が押した箇所を手で払い、「君、ハナクソがついてるよ」と言ってやった。
伊島は慌てて自分の鼻の穴を触った。ぼくは失笑した。
「ええい!だらっ!」
伊島は自転車に乗ったままぼくを蹴ろうとして足を伸ばし、バランスを崩して自転車ごとひっくり返った。ぼくは嘲笑を浮かべ、すばやく自転車にまたがって走り去った。
「だら──っ!おぼえとれや!クソォ!」
「オカマ──ァ!」
三人の声が遠くなっていく。ああ。くだらねぇ。
スカスカとした心持ちで、ぼくは家に向かった。
夏休みは単調に過ぎていくだろうと思われた七月の終わり。衝撃的なニュースがぼくの耳に飛び込んできた。
朝、いつものようにピアノの練習に行こうと家を出て階段を降りると、階下から「秋葉さん・・」と言う声が聞こえた気がして立ち止まった。ガキのはしゃぐ声に交じって、母親たちの噂話が聞こえてくる。ぼくは少し聞き耳を立てた。
「うっそぉ!ほんとかいね!」
「間違いないわ。秋葉さんの奥さんやったわ」
「今さらここに来るか─?」
「正式に離婚してんろ?あの夫婦」
「やっぱり子供の顔見たくて来たんじゃないが」
「サングラスかけとったけど、間違いないわ。そこの若宮神社のあたりウロウロしとってん」
「若い男つくって出て行ったくせにね」
「あの人って今も金沢におるがんけ?」
「おるげんといね!湯涌で見た人おるげんて!」
「湯涌?」
「男と飲み屋やっとるげんといね!信じれんわぁ!」
「飲み屋?あの奥さんが?ほんとかいね!」
「お嬢様って感じやったもんね。そんなん務まるがかいね!」
ぼくは足が重く固まって、しばらく動けなかった。
そのうち噂話は他の話題になり、ようやくぼくも学校に行くことを思い出し、フラフラと幽霊のように奴らの前を通り過ぎて学校へ向かった。
ピアノの前に座っても、なにも弾けなかった。
鍵盤に指を置く力すらない。メロデイなどさっぱり思い出せない。
ぼくはただひたすら呼吸していた。それが精一杯だった。
なにを聞いたんだろう。ほんとに現実に聞いたのか?そしてあの内容も現実のことか?
かあさんがこの町に来た?
正式に離婚した?
湯涌で飲み屋をやってる?
若い男をつくって出て行った?
一体なんのことだ。なにを言っているのだ!
ぼくは両手で思い切り鍵盤を叩きつけ、そのまま突っ伏した。ピアノはぼくのショック音そのままにガーン!と大きく響き、いつまでも余韻を残した。
状況が把握できないまま何日か過ぎた。
聞いたことをひとつひとつ、ぼくなりに検証してみようと試みた。
一番確信が持てるのは、「正式に離婚した」ということだった。これに関しては、この春にひと悶着あった。
毎年、進級した四月には、「個人表」なるものを学校に提出しなければならない。家族構成や、緊急連絡先、自宅付近の地図などを親が書く。
ぼくはオヤジが記入したものを受け取ったあと、実は毎年書き加えていた。かあさんの名前を。
家族構成の欄にかあさんの名前がないことがたまらなかったし、認めたくなかった。かあさんの名前が消えるのが恐ろしかった。だから毎年、こっそり書き加えていた。
秋葉久美 続柄 母 年齢はオヤジの年から九つ引いて書き、職業は無職にした。
いつも担任はなにも言わなかった。かあさんがいないことは知っていただろうが、ぼくの心情を察してか、特にこのことには触れなかった。
ところが今年の担任は違った。
小崎は神経質な性格で、常に白黒ハッキリさせなくては気が済まず、メガネの奥の目をつり上げては、自分が納得するまで生徒をしつこく追及するヒステリーババアだ。
個人表を提出してすぐに、終礼のあとぼくは小崎に呼び止められた。他の生徒が教室からいなくなったのを確認して、小崎は切り出した。
「秋葉くん。言いにくいんだけどね・・。この際ハッキリ聞くけど、お母様はお家にいらっしゃるのかしら?」
ぼくは黙っていた。
「個人表はね。正確に書いてもらわないと困るのよ。あなたの気持ちもわかるけど・・もう五年生なんだから、そろそろこういうことはやめないと・・ね」
ぼくは顔を上げて小崎を睨んだ。
「かあさんがいつ帰って来るかわからんがいや!」
小崎はひるまず答えた。
「それはその時書き加えることにして、とりあえず現在の状況を書・・」
小崎が言い終わるのを待たず、ぼくは「黙れ!クソババア!」と叫び、その辺の椅子を振り上げて思い切り投げつけた。椅子は机に当たってバウンドし、大きな音を立てて床に落ちた。
小崎は毅然とした顔で「やめなさい!」と声を荒げた。
「うっさい!うっさい!うっさい!かまうなまんや!だらっ!」
ぼくはそばの机を三つほど蹴り倒し、教室を飛び出した。
その日の夕方、家の電話が鳴り、公休で家に居たオヤジが出た。小崎に違いない。台所で料理しながらぼくは聞き耳を立てた。
オヤジはボソボソと答えていた。
「はあ・・ぼうずが・・そんなことを・・」
小崎は、かあさんが家にいるのか確認したらしく、オヤジは「いや・・いません」と答えたあと、小さく付け加えた。
「あいつとは・・別れたんで」
ぼくは包丁で指を落としそうになった。
あとオヤジがなにをしゃべったのか耳に入らなかった。気がつけば電話は終わっていた。
オヤジはぼくになにも言わなかったし、ぼくも黙っていた。微妙に気まずい空気のまま
その日は普通に食事した。
やはり離婚したのか。
「別れた」と言っていても、正式な手続きをしたとは限らないと一縷の望みを持っていたのに。これで完全に断たれたことになる。
家族の欄からかあさんは消えてしまった。
消えてしまったんだ!
ぼくは真っ暗な穴に落ちていく気がした。
すがる思いで机の引き出しの奥から小さな箱を出した。これは滅多に開けない秘密の箱だ。
蓋を開けると、セルロイドの花びらが数枚入っている。花びらは濡れたようにつやつや光っていた。強く握るとパリパリと儚く壊れそうな花びらをそっと取り出して掌に置き、ぼくはじっと見つめた。
かあさんが出て行った日は、少し肌寒い十月の、曇った金曜日だった。
朝、「行ってきます」と家を出る時、かあさんに変わった様子はなく、いつものようにニッコリ笑って「いってらっしゃい」と言った。
ドアが閉まる瞬間、ぼくはなんとなく振り返った。かあさんの笑う口元がわずかに見えて、パタンとドアは閉まった。顔がもう一度ちゃんと見たいと思ったんだ。なぜかあの時。
ちゃんと見ればよかった。あれが最後になってしまった。
金曜日は五時間目まであった。ぼくは昼休みぐらいから妙な胸騒ぎがして、はやく家に帰りたかった。得体の知れない不安がヒタヒタと忍び寄っていた。だから終礼のあと、走って家に帰ったんだ。
こんなの気のせいだ。なにも起こらない。
家に帰れば、かあさんがいつものように「おかえり」と笑っているはずだ。
ドアを開けると、中はシーンとしていた。
「かあさん!」
ぼくは部屋を見回した。
「かあさん!かあさん!」
部屋の隅々まで捜した。
メリーがつめたくぼくを見下ろしていた。




