ピアノ
まずはウオーミングアップとして、ハノンの一番と四番を弾いた。ハノンは嫌いだが、今度の発表会でのぼくの課題曲「シューベルト 楽興の時 第三番へ短調」のパッセージをなめらかに弾きこなすため、強化練習としてハノンを弾くようにとピアノ教室の講師から命じられているから仕方ない。
「手首をやわらかく回すイメージで・・そう、回しながら上げて・・下げて」
講師の築地が見本に弾いた手の形や、ぼくの手首を持って指導したことを思い出しながら弾いてみる。指がもつれそうになってイラつくが、我慢して練習するうち、指が鍵盤に吸い付くように動き、それなりに心地良くなってくる。
だいたい納得するまで練習したら、本題の「楽興の時」をたっぷり練習する。
そのあとは気分転換に、大得意の「トルコ行進曲」を思い切り弾く。
最後のシメはお決まりの「トロイメライ」をしっとりと情感込めて弾き、ぼくの個人練
習は終了となる。
お昼は冷やし中華にしようかと考えながら家に戻ると、玄関の前に今朝の小四の女子二人とその母親二人が立っていた。ぼくを見て母親たちは「あ・・」と愛想笑いし、女子二人は強張った顔でうつむいた。母親はぼくの顔色を窺いながら話しかけてきた。
「秋葉くん。うちの子が体操で迷惑かけたみたいでごめんなさいね」
もう一人の母親も続けて「本人たちも反省しとるし、体操させてやってくれんけ?」と言いながら体操のカードを差し出した。ぼくが破ったカードをセロテープで綺麗に裏面を止めて修正してある。
親に促されて女子たちも「すいませんでした!明日からまじめに体操します!」と言って頭を下げた。
たぶん親たちはぼくに文句を言いたい気分だっただろうが、ここは下手に出てぼくを怒らせず、穏便に済まそうと申し合わせて来たのだろうとぼくは察した。こう言われて突っぱねるほどの権限はぼくにはないし、この件について、もうなんの感情もなかった。ああ、めんどくせえと思いながら、ぼくは無愛想にうなずいた。
母親たちは「ああ!ありがとう!」と大袈裟に喜び、「じゃあまたよろしくお願いしますね!」と自分たちの娘の肩を抱きながら会釈して去って行った。ホッとして帰って行く四人の後姿を、ぼくはじっと見つめた。
親の愛情を受けていると、その子供は見えない保護膜に包まれて守られているようだと、かあさんが出て行ってからぼくは痛感している。
ぼくを包むものはなにもなくなってしまった。スカスカと寒く、たよりない。
そのたよりなさを、まわりの子供は敏感に嗅ぎ取る。
「こいつは大事なヤツじゃない」「ぞんざいに扱っても誰にも怒られない」そんなヤツを子供はやたらと攻撃したくなる。攻撃して、子供なりに抱えたうっぷんを晴らす。異質なヤツと見なすと、目障りで排除したくなるのかもしれない。
かあさんが出て行ってすぐに、ぼくはあらゆる攻撃を受けた。意味もなく小突かれ、嫌がられた。人として見られてないように感じることさえあった。
自分のことは自分で守るしかない。自分が強くなるしかない。保護膜がないなら自分で新しくバリアを張るしかない。
ぼくの中で生き延びるための本能が働き、ぼくの反撃が始まった。
小突かれれば倍にして殴り返し、時には先手必勝で、相手の弱みを言葉で傷つけて泣かした。人情というものがどんどん消えていき、人相も変わった。
一番バリアを張らなきゃならない日は、運動会や遠足だった。
子供たちは、母親の愛情溢れる手作り弁当を広げる。ぼくは堂々とスーパーの寿司弁当を出し、もし馬鹿にするヤツがいたら速攻で攻撃の態勢に入れるように身構えた。
実際、小三の時に、「なんやその弁当!お前、かあちゃんおらんがか?」と言ってきたクソ野郎をボコボコに殴りつけ、流血させたことがある。
「馬鹿にするならしてみろ!」と挑発的な目つきで周りを威嚇しながら、ぼくは寿司を口に放り込んだ。何の味もしない。やたら喉につかえて噎せそうになる。
どうにか堪えて、平然とした顔でぼくは食べ続けた。誰もぼくと目を合わさず、近付いてこなかった。
母親がいないことで疎外感を味わう場は、「だからどうしたというのだ」という顔でやり過ごす術を、いつしか身につけていた。「こんなことはなんでもない。たいしたことない。どうでもいい」といっさい気持ちが揺れないようにしているうち、ほんとになにも感じなくなっていた。
四人の姿は角を曲がって見えなくなり、ぼくも家の中に入った。
火曜と木曜はピアノ教室に行った。
本来なら木曜だけだが、夏休みに入ったこともあり、発表会に向けて練習日が増えていた。
ぼくは自転車でまめだ大橋を渡り、橋の向こうの築地の家へ向かった。
洒落た白い家のインターホンを押すと、築地が「はぁい」とドアを開けた。
玄関に入ると、いつも甘いフローラルの香りが強烈で、吐きそうになる。部屋の壁も家具もすべて白で統一され、部屋の奥にある白いピアノにはレースのカバーが掛けられている。部屋のいたるところにフリルがあり、ティッシュカバーには何段ものゴージャスなフリルがついていて、ぼくは胸が悪くなる。
築地は四十代だが、いつもフリフリの服を着、髪をソバージュにして、頭のてっぺんに紺色のリボンをつけている。特に前髪にこだわっているらしく、カーラーを巻き付けた通りの形状を常にキープさせていた。
築地は独身で、年老いた親と、ブサイクなペルシャ猫と一緒に暮らしている。上品で物静かな老夫婦を甘ったるい声で「パパ」「ママ」と呼び、クソ猫を「クリスティーナ」と呼びかけ、ぼくをゾッとさせた。
「岡本さんまだなのよ。岡本さんが来るまで秋葉くんはハノンを練習していて」
築地はソファに座って猫を抱き、紅茶をすすった。こいつは紅茶ばかりすすってやがる。
ぼくは楽譜を出してピアノの前に座り、ハノンを弾いた。
「そうそう。ずいぶんなめらかになったわね。上手よ秋葉くん」
築地が拍手して褒めた。ぼくは少し口の端を上げ、フッと鼻を鳴らした。
・・・と、インターホンが鳴り、岡本がやって来た。
ぼくはこいつと一緒に練習しなければならない。発表会はこいつと連弾するのだ。最悪
だ。
岡本は「暑いねぇ」と言いながらハンカチを出して顔の汗を拭いた。太っているから、人の倍、汗をかく。はあはあと息が荒い。
デブのくせにいつもはちきれそうなワンピースを着て、ピッチリしたハイソックスを穿き、太い足を強調させている。噂によると毛深いのを隠しているらしい。
今日はストライプのワンピースだ。ストライプの幅が本来の幅より膨張して見える。涼しげに決めたようだが、こいつが着るとちっとも爽やかではない。エプロンドレスタイプがお気に入りで、でかい尻の上に結んだリボンを尻尾のように揺らしてドスドスと歩き、自分では可憐な少女のつもりらしいが、残念ながら全然似合っていない。醜悪だ。
ハンカチを集めるのが趣味で、毎日色とりどりのハンカチを見せつけるようにポケットから取り出しては、しょっちゅう顔の汗を拭いている。汗かきで、両頬の肉で埋まりそうな低い鼻の頭に玉の汗をかき、気取った顔でギュウギュウと押さえつけながら拭く。お次は鼻の下を必要以上に伸ばし、さらに長く伸ばすように撫でつけて拭く。そしてふうっと息をつき、そのハンカチでパタパタと顔を仰ぐ。汗をたっぷりと吸い取ったハンカチで作る風はとても臭そうだ。
笑う時も怒る時も、この鼻にギュッとしわを寄せる。ブサイクなこと極まりない。
「うちがうちが」とでしゃばり、「うちもうちも」とずうずうしく割り込み、「うちなんかうちなんか」と自慢ばかりしている嫌な女だ。
ぼくはため息をついて岡本を迎えた。築地と岡本。この化け物二人と一緒に、今日もピアノの練習にいそしまなければならない。
「楽興の時 第三番」は、トリルやスタッカートが得意なぼくがプリモ担当で、どっしりとした低音が得意な岡本がセコンド担当と築地が決めた。
岡本は自分の楽譜をセットして、ぼくの横に座った。そばにこいつが来ると、とたんに温度が上がって暑苦しくなる。
「いくよ。せーの」
岡本が声をかけて弾こうとすると、築地がソファから立ち上がった。
「ほらほら、それ言わないの。本番でも言っちゃうわよ。二人とも鍵盤の上に手を置いて、一旦静止してから同時にブレスしてスタートさせるの。ブレスする時、軽くアイコンタクトしてもいいわよ」
「こいつと見つめ合えるかよ!気持ち悪いぃ!」
「なんやって!こっちのセリフやわいね!」
「はい!喧嘩しない!本番だと思って弾いてちょうだい」
ぼくと岡本は仕方なく睨み合うように目を合わせ、声を出さず、息を吸い込んで「せーの」と目で合図して弾き始めた。岡本が力強い低音でスタートすると、築地がまたすかさず注意する。
「岡本さん。出だしはもっとやさしく・・いつも言ってるでしょう。その低音はかなり大きく響くから、プリモの秋葉くんが入ってきても音が聴こえないのよ。ひかえめに。ひかえめに」
岡本は「はぁい」と言いながら、つまらなそうに鼻にしわを寄せた。このでしゃばり女は「ひかえめに」の加減がわからないし、思い切り力強く弾けないことが不満でたまらないのだ。
ぼくたちは何度も繰り返し弾いた。途中、どちらかが失敗して手が止まると、もう片方もつられて手が止まり、小突き合いになる。
「ほらほら、止まらないのよ。どちらかが止まっても、片方は弾き続けるの。止まったほうは落ち着いて、次に入るタイミングをはかる。音楽はね、一度弾き始めたら、止まらず最後まで弾くのが原則よ。音楽は常に流れているものなのよ!水の流れのように!血液のように!」
いつもの熱弁が始まった。ぼくと岡本はうんざりした顔で目を合わせた。
「途中でズレそうになっても、お互いの呼吸で合わせるの。協力し合うのよ。自分のことばっかり考えちゃダメ!だけどね、お互いの演奏を聴きすぎてもダメ。ここが難しいところよ。相手を意識しつつも自分の演奏はしっかりと確立させなくちゃいけないし、さらに自分たちの演奏を客観的に聴く第三の耳も必要よ。とても難しいけど、これができるようになればあなたたちはきっとひと回りもふた回りも成長できるわ!そして音楽の醍醐味もたっぷり味わえるはず!楽興の時っていうのはね、音楽を楽しむ瞬間って意味なのよ!苦しさを乗り越えて、音楽を楽しんで、二人で最高の音楽を奏でてちょうだい!」
築地は目を輝かせ、声を震わせた。
岡本は少し感動したようで、「頑張るわ!先生!」と鼻息荒く答えた。単純な女だ。
ぼくは無視して、自分のパートをもくもくと練習した。
帰り道、ぼくはまめだ大橋を渡り切ったあと、スロープを下って河川敷に降り、自転車を押しながら歩いた。
「なに一人で盛り上がっとるがいや!クソババア!」
連弾の練習が始まって以来、帰り道はいつもぼやいている。
築地は、対人関係に難があるぼくと岡本に連弾をチャレンジさせるという自分の思いつきに感動し、酔いしれているのだ。ぼくたちが素晴らしい成長を遂げ、麗しい友情を芽生えさせるだろうと勝手にファンタジーを思い描いているらしい。
迷惑な話だ。ええい!胸クソ悪い!発表会なんか、サッサと終わってしまえ!
犀川の河川敷は広い緑地が何キロも続く。気持ちのいい風が全身に吹きつけてくる。
ここを歩くといろんな思いが胸を去来する。




