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追憶

 玄関の戸を開けると、オヤジが台所に立ち、湯気が上がった鍋を持っていた。ぼくは嫌な予感がした。オヤジは水道の水を全開にして、鍋の湯をザルにあけた。ザバッと素麺がザルに入る。同時に水やお湯がバシャバシャと床に飛び散った。ぼくは血相を変えて駆け上がり、雑巾を引っ掴んですばやく床を拭いた。オヤジは「あ・・あ・・」と言いながらザルを持ってうろつき、そのせいでザルの水がボタボタとしたたり落ちて、さらに床を濡らした。

「なにしてるんですか!ぼくが全部やりますから、そのままザルをシンクに置いて下さい!」

 ぼくが怒鳴りつけると、オヤジは「あ・・すまん」と言ってザルを置き、台所を離れた。

 ぼくは目を三角にして床の隅々を拭いた。シンクの下の戸が開いていて、鍋やフライパンは床に転がり落ちてるし、向かい側の食器棚も戸が開けられ、中の食器が乱れている。   

ぼくはそれらを見回し、「ああ!」と怒りの声を上げた。オヤジは「鍋がどこにあるかわからなんだし・・」とボソボソ言い訳した。ぼくはますます目を三角にしてゴシゴシと床を拭き、洗面所で雑巾を洗ったあと石鹸で丁寧に手を洗った。

 怒りで鼻息が荒い。いつものことながら、オヤジは余計な仕事ばかり増やしやがる!

 ぼくは床に転がった鍋とフライパンを片付け、食器棚の食器を直し、ザルの中の素麺を水で洗って皿に盛りつけ、ちゃぶ台の上に置いた。

 オヤジは冷蔵庫を開け、「素麺つゆがないなぁ」とつぶやき、「これじゃダメか?」と醤油を差し出した。ぼくはカッとなり、「すぐ買ってきます!」と玄関を飛び出した。

 まったくオヤジはろくなことをしない!

 公休日で家にいる時は、たいてい昼飯は外食するかコンビニの弁当を買って済ませているようだが、今日はぼくが終業式で半日で帰ってくるから、一緒に素麺を食べようと思い立ったらしい。

 オヤジが台所に立つと、これでもかというくらいあたりをメチャクチャに散らかして汚す。台所はすっかりぼくのテリトリーという意識になっているから、そこを勝手にいじられ、荒らされるのは我慢ならなかった。

 部屋の中はいつもキチンと整頓されてないと気が済まないから、常にぼくは隅々を掃除し、オヤジは常に部屋を汚し、その都度ぼくの怒りを買っていた。

 団地の階段を駆け降りると、ここに住んでるガキどもが数人、いつものようにたまって遊んでいた。こいつらが階段の下でギャアギャア騒ぎながら走り回ったりしているのがいつも目障りで、ぼくが不機嫌な時は、その八つ当たりのターゲットとなっていた。

 階段の下に無造作に停めてある三輪車をぼくは思い切り蹴飛ばし、「どけま!だら!」と怒鳴りつけた。ガキどもはぼくを見て、「しまった!」という顔をして固まった。今日はこんなに早くぼくが帰ってくるとは予想外だったんだろう。

 そばで井戸端会議をしていた母親たちが慌てて走ってきて、怪訝な顔でガキを抱き上げた。ぼくは「お前ら、みんな死ね!」と言い放ち、デンデンデン!と足を強く踏み鳴らして、近くのスーパーへと向かった。

 

こうして「あの夏」が幕を開けた。


 夏休みに入っても、普段の生活とそんなに変わるわけではない。

 起きる時間もいつもどおり、五時五十分だ。

 ただ、いつもならすぐに朝食の準備に取り掛かるところだが、その前にラジオ体操に行くことが加わった。ぼくの近所には六年生がいないため、ぼくがラジオ体操の班長にされていたから、ラジオとハンコも持って行かなければならない。

 体操場所となっている近所の若宮公園に行くと、ガキどもがわらわらと集まっていた。

低学年の男子はふざけて走り回り、女子は各学年ごと二、三人ずつかたまって、なにや

らしゃべっていた。女というのは幾つのヤツでも、かたまってペチャクチャとくっちゃべっているものだとうんざりした。

 ぼくはいっさい無視してラジオをベンチに置き、定刻どおりラジオをつけた。

「あたらしい朝がきた 希望の朝だ」と、定番の爽やかなテーマ曲が流れ、体操が始まった。ぼくは音楽に合わせてキッチリと手を上げ下げし、膝を曲げたり、足を伸ばしたりした。あちこちに散っていたガキどもも、音楽が始まると自然に中央に集まり、機械的に体操を始めた。

 ところが小四の女子二人はふてぶてしい態度で公園の隅にしゃがんだまま、おしゃべりを続けている。ぼくは表情を変えず、冷酷な視線で二人を捉えながら体操した。その二人は最後まで体操をしなかった。

 体操が終わってラジオを止めると、ガキどもは皆カードを持って走り寄ってきた。ぼくは一人一人順番にハンコを押した。小四の女子もずうずうしくカードを持ってきたので、ぼくはそのカードを真っ二つに引き裂いて、地面に落としてやった。

「なにするがいねー!」

 二人は文句を言った。ぼくはジロッと冷たい目で見下ろし、二人に告げた。

「お前らはもう来なくていい」

「はぁん?なんでーね!」

 さらに文句を言うのを遮り、「消えろ!クソ女!」と言い放って、ぼくはラジオを持ってスタスタと立ち去った。背後で二人がブーブーと文句を言うのが聞こえたが、無視して団地に向かった。

 もしあいつらの親どもが文句を言ってきたら、あいつらの態度の悪さ、他の子に与える悪影響など理路整然と述べてやる。でもたぶん親どもはなにも言ってこないだろう。ぼくに対して近所の大人の間では、「あの子に構わないほうがいい」「関わらないほうがいい」という暗黙の了解があるようだから。

 だいたいこんな体操などやったところでどうだというのだ。たいして意味もない。ふん。馬鹿馬鹿しい!

 ぼくはそのへんに転がっていた空き缶を蹴飛ばしながら帰った。


 ご飯はいつも朝食の分も入れて炊いてあるから、あとは簡単なおかずと味噌汁を作ればよかった。

 料理をするようになったのは、小四からだ。

 かあさんが出て行ってからの食事は、オヤジがどうにかご飯を炊き、適当にお惣菜を二品くらい買ってくるというパターンがほとんどで、カップラーメンや菓子パンで済ます日もあった。オヤジの公休日は外食も多かった。

 オヤジは朝六時半頃から仕事に行き、帰って来るのは深夜二時頃だったから、オヤジが仕事の日は一人でそれらを食べた。そのうちオヤジは買い出しに行くのが面倒になり、ぼくに金を渡して、「わしが仕事の日はメシだけ炊いとくし、あとは自分で好きなおかずを買って来て食べろ」と言った。それ以降ぼくがお惣菜を買いに行くようになった。

 小四になって調理実習で野菜炒めを作った時、このぐらいなら自分で作れそうだと思ったのが料理を始めるきっかけだった。お惣菜にはほとほと飽きていた。

 ぼくは料理をしてみたいとオヤジに言って簡単な料理の本を買ってもらい、次々とチャレンジした。玉子焼きやオムレツなどの卵料理から始め、サラダ、味噌汁と習得し、カレーやシチューも作れるようになった。魚を焼くのも完璧だった。どうやらぼくには料理の才能があるらしかった。

 ご飯もぼくが炊くようになった。オヤジが炊くと米が固すぎる日もあればおかゆみたいな日もあり、食器の洗い方が雑なのも気になっていたので、すべてぼくが担当してキッチリやることにした。

 近所のガキどもの母親が、主婦って大変だと愚痴っているのを耳にすると、「何言うとるがいや!家事なんか小学生のぼくでもできるがんに。こんなもん全然たいしたことねぇわいや!」と言い放ち、馬鹿にしたように鼻で笑ってやった。

 洗濯も掃除もぼくはテキパキとこなした。忙しく動いていれば、余計なことを考えなくて済むから快適でもあった。時々、「なんやこんなもん!母親がそんなに偉いか!」と一人で不敵に笑い、自尊心を高めていた。


 ぼくはいつものように台所に立ち、手際よくネギを刻んで納豆と混ぜ、わかめとえのきの味噌汁を作り、冷奴も添えた。

 オヤジがノソノソと起きてきて、クチャクチャと下品な音を立てながらご飯を掻き込み、ズルズルと味噌汁をすすった。ぼくは眉間にしわを寄せながらご飯をつまんだ。

 食事を終えたオヤジは慌ただしく洗面所に行き、水をはじき飛ばしながらザバザバと顔を洗い、歯磨きをした。水を出しっぱなしにしている音を聞きつけると、ぼくはすばやく駆け寄って、無言で水を止めた。オヤジは目を伏せ、黙って歯を磨いた。

 

オヤジが出て行ったあと、ぼくは布巾でちゃぶ台をキッチリと拭き、洗面所の床に飛び散った水も雑巾で綺麗に拭き取った。食器を洗い、ぼくはようやく一息ついて新聞に目を通した。挟んであるチラシにも目を通すと、一枚一枚チラシを四つ折りにたたんではゴミ箱に捨てた。これら一連のことは、いつもの朝の風景だ。

 オヤジが出かけるとほんとにせいせいする。オヤジとの生活はストレスでしかない。


 オヤジはかあさんより九つも上だった。

 どうしてかあさんみたいな可愛い人が、冴えないオヤジなんかと結婚したのか、ぼくには理解できなかった。どう見ても不釣り合いだった。不思議に思ってかあさんに訊いたことがある。かあさんはニッコリ笑って「おかあさんはね、はやく結婚したかったんや。お父さんは大人でしっかりしとるから、大丈夫やと思ったんや」と答えた。「今もそう思っとる?」と突っ込んで訊いたらかあさんはうつむき、「ふふふ」と苦笑いした。

 オヤジはいつも気難しい顔で威張り散らしていた。なにか気に入らないとすぐに舌打ちして、かあさんを睨みつけた。

「あれを取ってくれ」「これをしてくれ」と偉そうにしょっちゅうかあさんに命令して、かあさんが他のことが忙しくてすぐに言う通りにできないと、即座に舌打ちした。その度、かあさんはひきつった顔で「ごめんなさい」と謝り、オヤジの要求通りに動いていた。かあさんはしょっちゅう謝ってばかりいた。

 かあさんはピアノ教室の先生を続けたがっていたのに、外に働きに出ることをオヤジが許さなかった。

 オヤジはタクシーの運転手をしていて、朝早くから深夜まで働いている。深夜遅く帰ってくると、そのまま翌日は休みになるから、一日おきに家にいる形だ。公休日も週一回あるから、家に居るほうが多い。

 自分が家に居る日にかあさんが仕事で居ないのは絶対嫌だから、働きに行かせなかったらしい。おまけに、仕事の合間にチョコチョコと家に電話し、その時間にかあさんが居ないと、あとで「どこに行ってた」としつこく訊いていた。かあさんが若くて可愛いから、よその男に盗られないかと気が気でなかったのかもしれない。友達と会っていたと言おうものなら、どこの誰と何時から何時まで会っていたかとうるさかった。

 かあさんが友達と楽しく過ごすのが特に気に入らないようで、たまにその友達から電話が掛かってきて、かあさんが楽しそうに話しているととたんに不機嫌になり、少し電話が長くなると「いつまでしゃべっとるんや!」と相手にも聞こえる声で怒鳴りつけた。かあさんは泣きそうな顔で「ごめんね。じゃあね」と友達に謝って電話を切り、オヤジにも「ごめんなさい」と謝っていた。

 オヤジなんかたぶん友達もいないし、友達がいっぱいいるかあさんが羨ましかったに違いない。かあさんを独り占めしたかったんだろう。

 おどおどと謝っているかあさんを見るにつけ、ぼくはかあさんがかわいそうでたまらず、オヤジがひたすら憎らしかった。

 オヤジはぼくには甘かった。年がいってからできた子供だからか。ぼくを怒ることはほとんどなかった。子供と関わるのも下手くそで、いつもぼくを苛々させた。

 オヤジは息子とキャッチボールをするのが夢だったらしく、グローブとボールを買ってきて、「ぼうず、やらんか」とよく誘ったが、その誘うタイミングがいつも間が悪く、ぼくはどうにも乗らなかった。

 だいたいぼくはキャッチボールに興味がなかった。それにオヤジはかあさんをいじめる嫌なヤツだから、そんなヤツとは遊んでやらない!という気分だった。

 オヤジはぼくを野球チームにも入れたかったようだが、ぼくはスポーツ少年のタイプではなく、チームに漂う青春ドラマのような雰囲気に溶け込めるとは思えなかった。ボールを追いかけて外で泥だらけになるのもゾッとした。手や服が汚れることが大嫌いだったのだ。

 ぼくはかあさんと静かに音楽を聴いているのが性に合っていた。ぼくの性質をちっとも理解せず、ただ自分の要求ばかり押しつけてくるオヤジがたまらなく嫌だった。デリカシーのない物言いや振る舞いにも辟易した。

 ぼくがキャッチボールを断ると、オヤジはかあさんに「お前のしつけが悪い!お前がこいつをナヨナヨした男に育てている!」となじり、さらにぼくをウンザリさせた。ぼくのせいでかあさんが怒られるのは胸が痛んだが、だからといってオヤジの機嫌をとるためにキャッチボールをするのはまっぴらだった。ナヨナヨしていると言われる度、自分を全否定されてる気がした。ぼくはオヤジのすべてが嫌いだった。


 九時すぎ、ぼくは学校に向かった。

 夏休み中も平日は毎日ピアノの練習に行かねばならない。八月の終わりにピアノの発表会を控えているのだ。

ピアノの練習は職員室に寄って日直の教師に「音楽室を借ります」と断り、終わってからまた「終わりました」と報告すればそれでよかった。

 蒸し暑い音楽室の窓を開け、ぼくは練習を始めた。


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