トンボ
振り向くと小学生の少女がランドセルを背負って立っていた。学校から帰ってきたのだろう。小学三・四年くらいだろうか。
キリッと結んだポニーテール。色白のかあさんとは違って浅黒く日焼けしていたが、凛とした顔つきがかあさんとよく似ていた。
ぼくはその少女を見た瞬間、なぜか戦慄が走った。同時に河川敷でのかあさんの姿が頭をよぎった。突然しゃがみ込み、黙って川を見つめていたかあさん・・
少女は「ママ」のあと、何か言うつもりだったようだが、見知らぬ男が店先に立ち、ただならぬ雰囲気を醸し出している様子に困惑し、ドギマギと言葉を探していた。
かあさんは察したように「いいよ。ユウちゃんの家に遊びに行くんでしょ。カバンを置いてから行ってね」と言った。
少女はぼくの顔をチラチラ見ながらこくんとうなずき、店を出た。となりの玄関を開ける音。そしてすぐにバタバタと飛び出して行く音がして、少女の気配は消えた。
ぼくは直感をそのまま口にした。
「かあさん。あの時、お腹にあの子がいたの?」
かあさんは顔面蒼白になり、ヨロッとよろけた。
「そうなんだね?だから出て行ったんだね?」
かあさんは顔を手で覆い、小刻みに震えた。
ぼくはハッとした。
・・ということは、あの子はぼくの妹なのか!父親は違えども。
かあさんはぼくだけのかあさんじゃなくなっていた!
ぼくは強いショックを受けた。急激に激しい嫉妬と独占欲がぼくを支配した。
「黙ってないでなんとか言ってよ!かあさん!ぼくに会いに若宮に来たことがあるんでしょ?かあさんを神社で見かけたって近所のヤツが言ってたよ!」
「え?」
かあさんはすごく驚いた顔をした。まるで思い当たらないという表情だった。
そんなバカな!
ぼくは焦って言葉を続けた。
「プログラムは見た?ピアノの発表会の。ぼくがポストに入れたんだよ!かあさんに観に来てほしかったんだ。待ってたんだよ!あの日、ずっと」
かあさんは再び驚いた顔をして、目をパチパチさせた。全く思い当たらないという表情だった。
見ていない?そんなバカな!
どうしてだ!まさか・・ただのチラシだと思って捨ててしまったのか?
ぼくが決死の思いで届けたというのに・・かあさんの手には届かなかったのか?
ぼくは頭の中がパニックになった。
かあさんはやっと口を開いた。
「あの・・とにかく今日のところは帰ってもらえないかしら。落ち着いて話ができそうにないし・・もうすぐ店を開ける時間にもなるし・・今度・・もっとちゃんとした形で話をさせてちょうだい。お願い」
かあさんはキリッとした顔でぼくに告げた。
違う。こんな顔違う。
遼ちゃんごめんね!会いたかった!と、かあさんはぼくを抱きしめるはずじゃなかったのか?子供の頃から思い描いていた「リアル」は。
なにもかも違う「リアル」じゃないか!しかももう一人子供がいたなんて!
全く想定外で、全く受け入れられない事実だ。
「ほんとに悪いが、今日のところは帰ってくれないか」
カウンターから男が出てきてぼくに言った。
なんだこの男は。こいつが噂の「若い男」か。
たしかにかあさんより若く見える。精悍な顔つきに男らしさが漂う。オヤジとは全く違うタイプだ。
こいつにまで帰れと言われたのがカチンときた。ぼくのかあさんを奪っておいて!なんだ偉そうに!
男は料理の仕込みをしていたようだが、ぼくとかあさんのやりとりを見かねて思わずカウンターから出てきたと見え、手に包丁を持ったままだった。
ぼくはなぜとっさにその包丁を奪ったのかわからない。説明できない。
挑発的に見えたのだろうか。
なぜか反射的に包丁に手を伸ばしたんだ。
その際、男と揉み合いになり、意地になって無理矢理包丁を奪った時には、すっかり興奮状態に陥っていた。
かあさんは「なにをする気なの?やめて!」と叫んだ。
なにをしたいのかわからなかった。もうなにがなんだかわからなくなっていた。
かあさんは怖い顔をして、ぼくを見据えていた。
「いやだよ!かあさん!そんな顔しないで!」
ぼくはかあさんの怖い顔をイヤイヤと消したかったんだ。黒板消しで消すみたいに。
手に包丁を握っていることなど、すっかり忘れていたんだ。
ス─ッとかあさんの頬に赤い線が走り、血が流れた。
「ああっ!」とかあさんは悲鳴を上げた。
ぼくはかあさん以上にショックを受け、「あああ─っ!」と絶叫した。
なにをやってるんだ!
ちがう!ちがう!もう全部ちがう!すべてメチャクチャだ!
壊れていくメリーが浮かんだ。
踏んずけられて陥没する赤い人形の顔。ひきちぎられる赤い花びら。
「うわああああ──っ!」ぼくは泣き叫んだ。
「かあさん!頼むからぼくを嫌いにならないで!ぼくはもう家には帰れない!帰るとこがなくなったんだよぉ──っ!」
帰りたい。還りたい。
還りたい場所がひとつだけ浮かんだ。
狂おしいくらい懐かしい場所。
公園で妊婦が幸せそうに腹を撫でてる姿が頭をかすめた。
あとは記憶にない。
ただ、真っ赤に
すべてが真っ赤に染まっていったんだ。
少年は膝をつき、呻くように言葉を発した。
「還れんかった・・還れんかったんやな・・ぼくは・・」
少年の目に涙が溢れ、ポタポタと床に落ちた。
「どこに帰れんかったんや?」
刑事は慎重に訊いた。
少年は「ううっ!ううっ!」と声を上げて泣きながら答えた。
「かあさんのお腹に・・」
バタバタとトンボの羽音がやまなかった。
少年はハッとして立ち上がり、必死な形相でトンボを捕まえた。
トンボは少年の手の中でもがいていた。
少年はじっとトンボを見つめたあと窓に寄り、鉄格子の間からトンボを持つ手を差し出して、ゆっくりと掌を広げた。
トンボは空中で一瞬静止したあと、パッと羽を広げ、ツイッと飛び立った。
少年は涙を流しながら、安堵した表情でトンボを見つめていた。やさしい顔だった。
少年は知らない。
誰も知らない。
昭和六十二年 八月三十日。
降りしきる雨の中。
中央児童会館の前で一人の女性が傘をさし、ずっと佇んでいたことを。
片手に発表会のプログラムを握りしめ、流れる涙もそのままに強く唇を噛み、微動だにせず立っていたことを。
その女性が少年に刺され、絶命する瞬間、自分にしがみついてきた少年の背中に、最後の力を振り絞って指をかけたことを。
やっとやっともう一度、この子を抱きしめることができたと積年の思いを遂げ、息をひきとったことを。
トンボは伸びやかに羽を広げ、血潮のように赤い空に溶け込み、やがて見えなくなった。
──── 完




