8星
三人が出かけて急に静かになった。よいしょとようやく床に下りたユズリハに、レオハルトは舌打ちする。聞こえたユズリハは頬を膨らませた。
「もー、君、態度すっごく悪い。アクアは先輩なんでしょ?」
「いきなりおんぶお化けするやつに言われたくねぇよ!」
もっともだ。けらけらと笑いながらユズリハは髪に手ぐしを入れる。思ったより絡まっていてボンバーだった。
「何か飲む?」
「いらね」
「もー、君、態度すっごく悪い。私年上。一歳だけど」
頬を突かれるレオハルトは、それでもしばし我慢していたが、いつまでも止まらない攻撃についにその手を押さえる。
「何なんだよ、あんたは!」
苛立ちのまま力を加えて、ぎょっとした。折れるかと思ったのだ。慌てて手を振り払う。そういえば背中に乗った体重も軽かった。
「君さぁ、アクアのこと嫌いなの?」
「見りゃ分かんだろ」
「どうしてさ。アクアはいい奴だよ。私なんかよりよっぽど」
「あれがかよ。ばっかみてぇ!」
人が必死になって叩きだした成績をあっさり超えておいて、当然だと自慢もしない。突っかかっても、お前なんか相手にならないと無視される。そのくせ実習で当たれば完膚なきまでに叩き潰す。高価な時計を自慢している奴の横を、もっと高い時計をつけて興味も持たずに通り過ぎていき、好きだと豪語していたルームメイトの前でその女子に告白され、興味がないと立ち去った。協調性もなく、自分だけ良ければいい奴なのだ。
「オレらのことバカにしてんだ。ガーネッシュだからっていい気になって見下してんだよ! だから相手にもしねぇし、怒りもしねぇ! 怒る価値もねぇってんだよ、あいつは! 冷酷で自分だけが大切で、誰を傷つけても何にも思わねぇ、心なんてないロボットだ!」
必死でもないくせにアカデミー主席を誰にも譲らなかった。何をしても天才的にこなせる男は、他の奴の気持ちなんて分からない。誰の痛みも悲しみも理解できない。そもそも悲しんだりしない。母親と小さな小さな弟が死んだ時でさえだ。ガーネッシュ家の父子は取り乱しもしなかった。淡々と恙無く葬儀は行われた。父親ジェザリオは妻ニーナと第二子ウォルターを殺されたと演説を行い、ブループラネットに対する防衛と攻撃を掲げた。同情と共感を集めてここの代表に就任している。
「母親達が死んでもなんとも思わないのが証拠だろうが。あんたもあんな奴と友達なんてやめたほうがいいぜ。父親と同じく、いつあんたの死を利用するか分からねぇからよ」
吐き捨てたレオハルトの視界に拳が入った。反射で払いのけて戦闘体勢に入った。
「な、なんだよ!? あぶねぇな!」
避けられて残念そうに頭を振って、ユズリハは蹴りに入った。
「あ、私は暴力的なんで気をつけてね。そんでもって一発と言わず五十発くらい殴られてください。あ、蹴りでもいいよ」
素人相手に軍人相手のように力を振るうわけにはいかない。レオハルトは攻撃を軽くいなしながら舌打ちした。
「君、忘れてない? 私はアクアの幼馴染で親友なんだ。腹を立てないはずがないだろ」
「何で、あんな奴の為に」
「それはアクアを知らない坊ちゃんの言い分。そんでもって、アクアは優しい良い奴で、ちょっと抜けてて面白い奴っていうのが、親友の言い分」
「そんなわけあるか!」
眼前でぐるりとユズリハの身体が回った。落ちてきた拳は合間を縫って見事にレオハルトの頬を捉えた。体重の軽さでそれほど痛くはなかったが、脳が揺れる。ぶれた視界の隙にもう一発入った。ついで腹に蹴りが入って流石によろけ、足払いを受けて転がった上に膝で腹にもう一発。
「なん、で、あんな奴の為にそこまで怒るんだよ」
軽く咽るだけで済んだのは鍛錬の成果だ。ユズリハは上に乗ったままにこりと笑った。
「あそこまで言い切るくらい嫌ってる君に何言っても信じないだろうから言わない。けど、そういう風にアクアのこと思ってる奴がいるってことだけ覚えておいて」
「んだよ、それは!」
軽い身体を突き飛ばす。簡単に吹き飛んだ胸倉を掴みあげて頬を殴った。当然手加減をしている。なのに相手はそれだけで足が立たなくなったように座り込んだ。
「先に手ぇ出したのはあんただからな」
「分かってるよ……いてて、あー、口の中切れた。被害はこっちのほうが甚大な気がする、あち、喋ると痛い……」
鼻血も出ている。
「どれだけ弱いんだ、あんた。それでよくケンカ売ったな、おい。男としてどうかと思うほどモヤシだぜ」
少し躊躇いながら冷凍庫を開け、氷を持ってくる。ユズリハは適当にタオルを引っ張り出してそれを包むと頬に当てた。
「弱いの分かってて喧嘩売るくらいアクアが大切ってことだよ。君のほうが喰らってるはずだけど、さすが軍人。鍛え方が違うね」
「当たり前だろ。あんたみたいなひょろっこい奴にやられるほどまぬけじゃない」
「マウントポジション取られたくせに?」
痛いところをつかれてぐっと黙る。相手はけらけらと笑って、痛かったのかぐっと眉間に皺を寄せた。床に寝転がった姿はだらしない。どうしてこれがあいつの『親友』なのだろう。レオハルトは心底不思議だった。いつも姿勢を正し襟を寛げもしない。同じ場所に立つ気はないのだと言わんばかりにいつも一人でいた。話しにも混じらず、寛いだ姿も晒さない。アカデミー時代も現在も。同室だった奴でさえ見たことがないという。
見回した部屋の中は綺麗に片付いている。とても男の一人暮らしには見えない。庭園も美しく保たれていたから、きっと金に物を言わせて業者を雇っているのだろう。
その視線を辿って何を考えているのか分かったのだろう。ユズリハは、両手を広げてぐるりと部屋の中を示した。
「ここ綺麗に片付いてるけど、昨日はぐちゃぐちゃだったんだ。荒らしたの私だけど!」
「何やってんだよ、あんた……」
「子どもの頃からだよ!」
「ほんとに何やってんだよ!」
迷惑にも程がある。胸を張る場面でもない。
「宿題はアクアに教えてもらったし、喧嘩して迷子になって足挫いてアクアにおぶってもらったし、忙しくて遊んでもらえないことに拗ねて茶会に出向くアクアに泥ダンゴ投げつけたり、私の宿題手伝ってもらってるのに飽きて怒って髪の毛引っぱったり?」
「ひでぇな、おい」
「ハックしてレポートの宿題奪ったり、お菓子くれた人について行って行方不明になって見つけてもらったり、アクアが一週間かけて作った工作壊しちゃったり、足滑らせて冬の川にアクア巻き込んで落ちたり、風邪引いて寂しくて一晩アクアを引きとめた挙句風邪移したりした! しかも看病飽きて遊びに行った!」
「あんた悪魔か!」
にこにこ笑う場面でも無い。
「それでも付き合ってくれて、面倒見てくれるくらい、いい奴なんだよ」
やけに説得力があった。今まで信じていたアクアの像が音をたてて崩れていく。嘘だ、あの男が他人と関るはずがない。こんな百歩譲っても迷惑な奴と親友なんてやるはずがない。こんな暴力的でへらへらして何考えてるか分からなくて、言動共に迷惑な奴。
「ね? いい奴でしょ?」
思わず頷きかけて、慌ててかぶりを振る。
「じゃねぇ! あんたがめちゃめちゃひどい奴なだけじゃねぇか!」
「あ、くそ、ばれた」
舌打ちして、ユズリハはにたりと笑った。本能的に後ずさる笑みだ。
「じゃあ、忠告を」
じりじりと近づいてきて、胸倉を掴まれ、彼のほうに引き倒される。さっき殴った頬の柔らかさに突き飛ばすのを躊躇ったレオハルトは、引かれるままに覆いかぶさった。柔らかく細い腕が頭に回り、吐息が耳にかかる。
「意固地になってると、見失っちゃいけない物まで無くしてしまうよ。意地で、君を損なう行動を取らないほうがいい。間に合うなら、それに越したことはないのだから」
がちゃりとリビングの扉が開いた。表情はそれぞれ違う。口笛を吹く、驚愕と顔に書いている、無表情、だ。
「おかえり――」
「…………ただいま」
アクアは袋を片手にキッチンへと向かった。
「アクア、牛乳は冷凍庫に入れちゃ駄目だよ? アイスはレンジじゃないねぇ。あれ? いま買ってきた玉ねぎ捨てちゃうの? 油は飲むものじゃないし、蓋開いてないからね。うんうん、ラップは茹でれないし、お玉でトマトを切る気かい? 斬新だねぇ」
無表情は崩れない。淡々と奇行を続けるアクアに、ユズリハは固まったままのレオハルトの耳元で囁いた。
「ね? アクア、面白いでしょ?」
冷静沈着鉄の心臓アンドロイドと言われ続けてきた男の姿が崩れた瞬間だった。