4星
「なに、言って。君にしたら質の悪い冗談」
「第四人工星にいたんだ」
ユズリハは眩暈を覚えて壁に寄りかかった。
知らないはずがない。人類が宇宙に出て、史上最も極悪な非道が行なわれた事件だ。母星を、あの青い星を壊した愚行よりも許されない所業だとさえ言われる。
十億に近い人間が一瞬にして命を落とし、遺体さえ宙に取り残されたままの悪夢。人が起こした、過去最悪の惨事だった。
どんな凄惨な事件でも、越えてはならない一戦がある。その線を何本も踏み越えて、星が落とされた。星が、生きる星そのものが殺された。
事件以来、第五人工星は一気に軍事力の強化に乗り出した。戦争とはそういうものだ。全てが桁違いに早く動く。平常の何倍もの速さで作り上げられていく。それが進化と呼ぶのかは別の話だ。そうして進んだ技術の先に、人類は故郷の星を失ったのだ。
膝をついて喉を押さえたユズリハを、大きくなった長い手が自然に支えた。ユズリハは叫びだしてしまいそうな喉を必死に抑えた。
「母さんは第四人工星出身だからな……親善大使として出向いていたんだ。朝、電話があった。お土産いっぱい買ったから楽しみにしててねって、笑ってたよ。あの日、帰ってくるはずだったんだ……ユズリハ、父は変わったよ。それまでも決して優しいとはいえない人だったけど、それでも、母さんを亡くして、あの人は変わった。もう笑わない。母さんによく似た俺を見るのも嫌なんだろう。早々にお爺様から頂いたこの屋敷をくださった。成人祝いと銘打っていたけれど、俺は十二だった。成人どころか、卒業も、してなかったよ」
決して子煩悩な人ではなかった。家庭より仕事が大事だったし、抱き上げられた記憶も片手で足りる。けれど母を愛していたのだと思っていた。アクアを抱き上げた母を見て、ほんの僅かに緩められた目元だけが父から感じた愛だった。だが、もう二度と有り得ない。
「……お前は会ったことないけど、俺は兄になったんだよ。弟がな、生まれたんだ。ウォルターっていって、目が、父さんに似てたんだ…………我儘で、甘えたで、まるでお前みたいだった。俺をよく、慕ってくれた…………けど、甘えただったから、母さんの二週間の出張が耐えられなくてついていってしまった。俺で我慢しろと言えばよかった。あいつの我儘を許さず、俺がもっと強く止めていれば……あんな幼さで死なせなくてよかったんだ」
アクアは、電気をつけていない暗い廊下に胡坐をかいて座りこんだ。どうしたものかと頭を掻く。こんなつもりじゃなかった。こんなことを話すつもりではなかった。ユズリハを前にするとどうしても口が緩む。
両手で顔を覆って蹲るユズリハの腕を掴む。
「……悪かった。そんなに泣くな。力を入れすぎだ。顔に、傷が」
ユズリハは剥ごうとする手に抗って渾身の力を篭めた。手の隙間から零れる涙の量があまりに多いから心配になり、アクアも力を篭めたが、あまりの細さに折れそうだと諦めた。
歯を砕きそうに喰いしばるのは、ユズリハが本当につらくて堪らない時の泣き方だ。転んだり、叱られて泣く時は大声で泣き叫んだ。
「君が、泣かないからだ!」
吐き出された声は涙で溺れてしまいそうだった。ユズリハはいきなりアクアの胸倉を掴んで上乗りになった。反射的に組み返そうと動いた身体を渾身の力で止める。これは敵ではないのだと、反射を理性が止めた。
「君のことだ。絶対泣いてない。叩き込まれた英才教育とか、君のたっかいプライドとか、どうでもいいことで君は泣いてない! だから私が泣くんだ! 泣くことだけがおばさまを偲ぶ方法だと言うつもりはないよ。けど、泣くのは、残っている人の為なんだ。君は君の為に、泣いて、おばさま達を悼むべきだ!」
そんな顔をしているくせに。ユズリハは叫んで殴りかかった。呆気にとられて一発許したが、更に振りかぶられた腕を慌てて止めた。
「止めるな!」
叫ぶ度に涙が降ってきて、こっちまで溺れてしまいそうだ。
「止めるに決まってるだろう! 泣きながらマウントポジションとってどうするつもりだ。それに殴り方! お前の指が折れるぞ!」
「そんなのどうだっていいだろ!」
「よくないだろうが!」
上を取っておきながら両腕を押さえられて悔しげに吐き捨てたユズリハは、そのまま額を打ち付けた。
「いっ……!」
思わず舌を噛みかけた。流石にこのまま受けていられない。再度振りかぶられた頭を肘で受ける。固さに怯んだ隙を見逃さず、長い足を駆使してユズリハの身体を蹴り飛ばした。手加減はしたが、軽い身体は予想以上に吹っ飛んだ。壁にぶつかったユズリハは息を詰め、すぐに飛びかかってきた。今度は予想がついていた。殴りかかった腕を取ってひねり返す。床に押し倒してポジションを取り返す。手足を縫い付け押し倒しても、ユズリハは激昂が篭った瞳でアクアを睨みつけていた。
「大人しく殴られろ!」
「何を言うんだ、お前は! っ、暴れるな!」
ユズリハの癇癪の予想をアクアはつけられなかった。とにかくアクアの予想もつかないことで怒り、笑い、泣くのだ。
「いい加減にしろ!」
「いいから黙って殴られてくれ」
「いいわけがあるか! 訳も分からないまま殴られる所以は無い」
行動と言葉が一致していない。泣かせたいというよりは怒らせたいように見える。
ため息をついた隙にユズリハが口を開いた。咄嗟に頭を引いて歯型がつくのを回避した。悔しげに舌打ちして、ユズリハはアクアを睨み付ける。
「君は昔から自分の事で泣かない。私の所為で泣いたほうが多いくらいだ。だから、泣け。ここでしか泣けないと君が言うのなら、私を理由にしろ。私を理由に、私の所為で、幾らだって泣けばいい。殴られた痛みでも、怒りでもいい。私の我儘に振り回されてうんざりした虚しさでも何だっていい!」
自分の下で押さえつけている幼馴染を唖然と見下ろした。息が上手く出来ない。
「全部諦めた顔するな! そんな顔でおばさまの死を受け入れた振りするな! 大切な人を失って、泣かずに越えられたりするものか!」
ユズリハは緩んだ隙に引き抜いた腕で、不利な体制からと思えない力でアクアの頬を殴りつけた。怯んだ瞬間、顎にもう一発。脳が揺さぶられて眩暈がする。
「理由なんてどうでもいい! 全部私の所為にして、泣け!」
殴られた勢いそのままにアクアは後ろに倒れた。身体を支える気はなかった。両腕で顔を覆う。もう拳は振ってこなかった。その代わりに温かな雫が降ってくる。たくさんたくさん、とどまることなく。
「泣いても、どうにもならないじゃないか。どれだけ泣いても二人は帰ってこないし、父さんは二度と笑わない。戦況は巻き戻ったりしないし、第四人工星は母さんとウォルターを抱えて漂ったまま、奴らの資源と成り果てた」
再会して一日経っていない。十六年の人生の中で、一緒だった時より離れていたほうが長い。それなのに既に感情を揺り動かされている。母が死んでからは特に、自分でも分かるほど稀薄になった感情が、消えていないと主張するようにあれこれと溢れ出している。
アクアは歯を食いしばった。何を抑えようとしたのか自分でも分からない。悔しさか悲しさか、嗚咽か。もしかしたら苦笑だったかもしれない。
「それでも、君は救われる。涙ってそういうものだ」
「……俺は、救われたいなんて思わない」
「嫌だ、私は君を救いたい。そんな感情だけで君をいっぱいにしちゃ駄目だ。勿体ないし、何よりおばさまはそんなこと喜ばない」
腫れて赤くなった指が頬に張り付いた髪を払った。そのまま頭を撫でる。温かく、柔らかい。まるで母のようだった。ぐちゃぐちゃに溢れだす涙は、まるでウォルターのようで。
懐かしさに思わず涙が増えた。いつから泣いていたのか分からない。ユズリハの指が濡れた髪を払って気がついた。いつから泣いていないのかは覚えている。『彼』と別れる前日が最後だ。
散々泣いた。泣きすぎて腫れぼったい思考をぼんやりと動かす。有り得ない。幾ら幼馴染とはいえ、再会して二時間で号泣しなくてもいいじゃないか。
起き上がったら背中が痛かった。殴られた場所も痛いは痛いが、カバーするつもりもなく倒れこんだ背中が一番ダメージを受けていた。やけに静かだと思ったらユズリハはしゃがみこんだまま眠っていた。泣き疲れて眠るのは昔のままだ。散々泣いて、お互いに袖がぐしゃぐしゃになってしまった。
とりあえずユズリハを自分のベッドに放り込んでおいた。額を全開にして眠るユズリハに苦笑する。
「全く、まさか今も俺の感情剥き出しにする術に長けているなんて。流石だよ、お前は」
あまり変わっていない気がする。何年も経っているのだから変わっていないはずがないのだが、言動があまりに過去と一致しすぎで、自分も成長したことを忘れてしまう。子どもの頃に戻ったみたいだった。
昔を懐かしみながら柔らかい髪を久しぶりに弄っていると、鋭い電子音が響いた。
アクアは眉を顰め、音をたてずに寝室を出た。携帯を取り出してボタンを押す。腫れた目元で画像を開く気になれず、音声通話だけをオンにした。二言三言だけ聞き、了解の意を示す。何もこんな時にと思わないでもないが、敵はこちらの都合など考えて襲撃してくれない。久しぶりの休暇なんだけどなとぼやくが、朝から夕方まで休みがあった。この頃の忙しさからすればありがたいほうだろうと考え直す。通話を終了するとほぼ同時に、メールにテレビ、人工星全体でサイレンが鳴り響く。
『全住民にお知らせします。敵機確認。只今より全港出航を停止します。繰り返します。敵機確認。全港の出航を禁止します』
人工音声が淡々と告げていく。人々の様子は慣れたもので、ああ、またかと言わんばかりにうんざりした顔すらあった。
『防御隔壁作動中。只今より全展望室を閉鎖します。全住民は避難路を確認。警告レベルE発令中。レベルC発令より、シェルターへの移動を開始してください』
軍は軍事要塞を人工星周囲に幾つか配置している。人工星まで攻撃が届くことはほとんどない。物々しい警告音を疎ましがる人さえいる始末だ。一皮向ければ、自分達が見上げたその空で命が潰えているのだが、実感が沸かなければ絵空事と変わらない。ブループラネット賛同者が起こすテロ行為は驚くほど小規模だから、危機感も薄い。全物資のチェックが入る人工星内で一般人は武器を手に入れづらいのだ。
素早く準備を済ませたアクアは、少し考えてからメモを残した。
『戦闘を開始します。繰り返します。戦闘を開始します』
外に飛び出せば人工的な夕焼けが始まっていた。いっそ映像を全て切り、あるがままの宙の姿を映し出せば、少しは戦争の実感が沸くのではないだろうか。そんな物騒なことも考えてしまった。走りながら引き攣る目元に苦笑する。同じくらい腫れあがった目をした幼馴染は、自分が軍人になったと知れば、更に泣くか、更に怒られるかのどちらだろう。