26星
「アクア」
黒い制服をきちりと着こなして振り向けば、ホムラが小走りで駆けてきた。目の下の隈がすごい。さっきまで会っていた同じ量をこなしているヒノエの涼やかな表情を思い出す。
「これから下りるのか?」
「はい」
シフトを終了したアクアはこれから休暇だ。当然ながらホムラにはない。給料はいいが、使う暇が全くないホムラだった。
「ガキ共が探してたぞ。休暇ご一緒したいです、だってさ」
「………………一歳しか違いませんが」
微妙な顔を浮かべたアクアに、ホムラは爆笑した。後輩達の懐きようがすごいのだ。元々懐いていた双子は身の内の事情を知ったアクアに更にべったりだったし、同居を始めた兄らのラブコールにたじろぐレオハルトも結局隣に納まっている。羨ましいと恨めしがる兄達から、レオハルトレポートを提出させられたアクアは、実は巻き込まれ型の不運かもしれない。意外とよかった面倒見の良さがそうさせるのか。
「今月の射撃課題こなして追いかけるって言ってたぞ。あ、やべ。俺も課題こなしとかねぇと減給だ。伝言あったら承るぞ、先輩」
茶化して畏まったホムラに、アクアは微かに苦笑を滲ませてはいたものの、柔らかく微笑んだ。その姿を見てホムラは目を細めた。
「いつもの場所にいると伝えてください」
「よっしゃ、任せろ。あ、そうだ。俺さ、仕事七割終わらせたんだけど、振り向いたら四倍になってたんだ。あれなんでだと思う? 人生って不思議なことで満ち溢れてんなぁ」
寝不足で正常な思考が働いていないホムラに同情すると同時に、アクアは黙秘権を貫いた。真剣に首を傾げるホムラの背後で、目の下にべったり隈を張り付けて親指を立てたゴルトアがいることを告げるのは、あまりに酷だと思うのだ。
ユズリハが廃棄を望んだデータは、アクアが完全に破壊した。どれだけ情報の海をさらばえても存在しない。プランクトンより細かく分解した上で水に溶かして、更に蒸発させるくらい、徹底的に壊しつくした。
旧第七人工星生き残りであり、ブループラネットは、事実上壊滅した。旧第七人工星はそのまま第五人工星が管理下に置くこととなり、大量の脳の墓標となる。
占領下から脱した第十二人工星も、第五人工星宙域に停滞することが決まっている。旧第四人工星宙域のデブリ帯を抜けてまで、元の宙域に戻る必要性がなかったからだ。徹底した管理下に置かれていた第十二人工星は、解放の恩ある第五人工星に永続的な友好を約束した。
今回の事態を受け、第六人工星も移動を開始した。第五人工星、第十二人工星が近距離に定住したことにより、より一層の繁栄が予想される。出遅れるのを恐れ、また、もしも今回のような事態が起こった際に、人工星一つだけでは標的になりやすいことも理由の一つだった。
各地でテロ行為を繰り返していたブループラネットは本体が解体されたことにより鳴りを潜めた。それでも一つの思考として宗教的に残っている。危険思想だと排除も望まれたが、人の意思を取り締まることは出来ない。きっとこれからも無秩序に個々の思考で凝り固まっていくのだろう。
最大の被害者といえる二人の男女は、政府と軍の護衛の下、同じ病院に収容されていた。
アクアは通いなれた病院の門を潜る。ユーラ家より歴史の深い第五人工星病院だ。
「あら、アクア様」
鈴のような声を転がして、オリビアが現れた。今日も柔らかなワンピースを着ている。ふわりと編まれた髪には白い花の髪飾りがあった。手には小さな鞄以外何も持っていないから既に見舞いを終えたことが知れる。
「オリビアは帰りですか?」
「はい。両親と食事の約束がございますの」
ふわりとした微笑に笑みを返す。
「ギル様が先日のチェスの続きを楽しみに待っておいででしたわ」
「……キングはドリフトしないし、クイーンは空を飛べないと覚えたら付き合いますよ」
「あら、まあ。わたくしと良い勝負が出来そうですわね」
アクアも先日、実に数年ぶりに父親と食事をした。誘ってきたのはあちらだったが、した会話といえば両手で事足りた。だが、特に居心地の悪い沈黙ではなかった気がする。無駄な事を喋り続けて安堵するタイプではお互いになかった。意外だったのが、父が無類のプリン好きらしいということだ。十六年親子をやっていて知った、厳つい父の意外な好物に、コメントは特にない。
「明日もお会いできますの? わたくし先日お借りした本をお返ししたいのですが」
「それなら続きも持ってきます。オリビア、また明日」
「ええ、ごきげんようアクア様」
ユズリハの友に他人行儀にしていたら怒られる。アクアはオリビアの名を再び呼び始めた。元々友人に近しい存在だった。アクアは、決してオリビア個人を嫌いではなかった。
一般客を抜けてエレベーターを十七階で降りると、前から何かがぶつかった。鞠のように跳ね返った身体は、柄も悪く舌打ちした。
「いってぇ! どこ見て歩いてんだよ、ぼけ――…なんだ、あんたか」
「すまない。大丈夫か?」
今日も愛らしい服を着ているが、いかんせん口が悪い。オリビアのお下がりだ。ふっくらと愛らしいのに大股で座る。とりあえずスカートの時は止めたほうがいい。
「あれ、兄貴は?」
ミナはきょとりとアクアの背後を探した。
「窓から見えたあんたに会うつって、スケッチブック片手に飛び出してったけど」
「会っていない」
「………………なんでだよ」
ギルバートは画家だ。何でも描くが風景画が一番好きだと言っていた。はずだ。なのに、目覚めて兄妹感動の再会を果たし、後ろで付き添っていたアクアを見た途端描かせてくれとのたまった。妹は強烈な拳を叩きこんでいた。チェスで勝てたらと言ってみたはいいが、いつまでたっても王は奥義を繰り出し、クイーンは色仕掛けで敵を落とそうとする。たまにポーンが反乱を起こして自軍の王が落とされ、ナイトはビショップと駆け落ちした。
今の問題はそこではない。ギルバートは致命的な方向音痴だった。風景画が好きな画家として以前の問題で、人として致命的だった。
「……エレベーターまでは送ったんだ」
「正面玄関まで一直線だな」
ミナは少女にあるまじきため息を吐いた。深く険しいため息だった。
「どうせ護衛の兄ちゃん姉ちゃんがついてるだろうけど、あいつら兄貴を甘やかして好きにさせるから戻らねぇな、これ。探してくる。病室、いま誰もいねぇよ。オリビアの姉ちゃんがくれた花はもう生けた」
「ありがとう」
ミナはエレベーターに駆け込み、ふと思い出したようにスカートの端をつまんだ。
「似合うか?」
「とても似合うよ」
「そっか!」
にかりと太陽のような笑顔を浮かべた。
穏やかな風がレースを揺らす。少し肌寒さを感じたが、歩いてきた身体は温まっている。
毎日違う寝巻きを着たユズリハの長い髪は丁寧に梳かれ、こちらも毎日違う髪型になっている。オリビアは新しい雑誌を手に入れては、毎日どれがいいかユズリハに話しかけながら髪を結っていた。今日は一つにゆるくまとめ、柔らかく結って横に流している。白い花の髪留めはオリビアがつけていたものと同じだと気づく。お揃いですのと微笑むオリビアの姿が見えた気がした。
「五日ぶり、ユズリハ」
アクアは十日と空けずここに通っていた。休暇が取れなくとも、特別許可を貰って夜間に見舞ってもいる。見舞うためだけに人工星に下りることもしばしばで、見舞いを済ませると軍にとんぼ返りする日々が続いていた。
後に箱庭戦争と呼ばれた争いが終わった日から四ヶ月が経過していた。
目覚めてすぐにリハビリを開始したギルバートは、補助機具があれば一人で歩行できるまでに回復していた。歩行は問題ないが、残念ながら向かう方向はいつまで経っても安定しなかったが。
「後で三人も来る。オリビアと鉢合わせしないから、今日は静かだぞ。どうしてレオとオリビアはあんなに折り合いが悪いんだろうな。気は合ってるようにも思うけど」
ユズリハは目覚めない。精神が二度の死を経験してしまった。二度目は精神の移動も行っていない。人が死んだらどこへいくかなんて知らない。科学では解明できない分野だ。肉体と精神、それぞれ死を経験してしまった人間の分類方法なんてないのかもしれない。
ブループラネットはユズリハを徹底的に蘇生していた。脳を失わないようにとの魂胆だったが、必死の救命は致命傷を負っていたユズリハを救った。それでも担当医師は言う。極度の疲労、無数の傷、精神衰弱。およそ健康から程遠い肉体は一度死に、極限まで衰弱した精神は二度の死を得てしまった。
一生目覚めない。
医師はその覚悟をアクアに求めた。覚悟なら当に出来ている。世界を壊すを厭わないこれを覚悟と呼ぶのならだが。
柔らかい髪を手で梳く。ふわふわと零れ落ち、陽光を弾いて光る赤がね色が一等好きだ。星色の瞳は開かない。光そのものだと思っていた。今でも思っている。
やせ細った手を繋ぐ。あまりの軽さに今でも俯く。誰にとっても激動の五年間だった。それぞれがそれぞれの苦境で苦痛を負い、もがいて生きてきた。
比べることなど出来ない。比べるものでもない。
それでも誰の苦界の中でもユズリハは群を抜いた。傷ついて傷ついて、それでも頑張りぬいた。
だから、休めばいい。ずっと一人で頑張ってきた君は、本当はもう、世界に愛想を尽かしたのかもしれない。人間の醜さ、愚かさ、機械の限界、科学の正当性。そんなものに囲まれてきた君は、もう目覚めたくないのかもしれない。
星色の瞳で呼んでほしい。一緒にバカみたいに笑いたい。願いは尽きないけれど、これはアクアの願いだ。ユズリハはずっと休みたいかもしれない。だから休みたいだけ休めばいい。眠りたいだけ眠ればいい。寝起きの悪さはアクアの特権だったが、交代しよう、ユズリハ。眠りたいだけ眠って、疲れを癒して、そしてほんの少しでも気が向いたなら。
帰ってきてみてほしい。
それまでアクアは待ち続ける。彼女に優しい世界を作って待っている。父とだって会うし、表情筋だって動かそう。出来るだけ他者と関わる。意外と抜けてると言われたりしながら、彼女が望んだ自分でいよう。
守るよ。君が守ってくれたこの惑星が、俺達の故郷が、ここで生きる俺達が、今度は君を守るから。君がそうしてくれたように、守り切ってみせるから。
「ユズリハ」
無理に起きなくていい。俺が口に出したいだけなんだ。
「ユズリハ」
大切だよ、お前が。幸せになってほしいし、笑ってほしい。傍にいたいし、いてほしい。
その気持ちを何と呼ぶ?
この気持ちが湧き上がる理由を、アクアはもうずっと前から知っていた。
「全部纏めると一言だな」
「……まとめ、ない、で、いいと、おもうよ」
アクアは呼吸のなり損ないを飲み込んだ。
そんなに強くなくていいんだ。つらければ逃げ出していいんだよ。さぼって、楽して、押しつけていいんだ。
そう言えたらどんなにいいか。休んでいていいんだよ。そう言ってあげたいのに、言葉どころか視線すら渡せない。
「まとめても、いいけど、ね」
視線を下ろせない。
無意味に窓の景色を眺める。高い窓から見えるのは偽りの空と、その下で毎日を生きる現実だ。広がる建物は上へ上へと伸び、それでも植物を増やそうと緑は常備された中で人々は忙しなく生きているようで、実はこっそりさぼっている。
「纏めると纏めないで、答えが変わったり、するのか」
「はは……まさか……ずっと前から、変わらないのに」
「じゃあ、どっちでもいいのか」
「……きみ、それ、ほかのこにいったら、そく、ふられるぞ」
「言う予定がないから問題ない」
ユズリハは掠れた声で咽て、小さな笑い声を上げた。
「泣きながら言われてもなぁ」
「うるさい。医師を呼んでくる」
乱暴に眦を拭って、アクアは立ち上がる。ユズリハは慌てて手を伸ばそうとしたが、身体が動かなかったので諦めた。身体機能の全てが鈍っていて大声は出せないが、それでも必死に声を張り上げる。
「あれ、ちょ、言ってよ!?」
「うるさい! 注射が終わってからだ!」
「とんでもないこと言いだしたよ!?」
騒ぎを聞きつけた看護師はひっくり返って医師を呼びにいった。あっという間に満員になり大騒ぎになった病室で、場違いなほど軽い声がアクアを呼んだ。
「アクアぁ――」
点滴の刺さった手の先が、ぴょこりと指を振る。
「好きだよ――」
「…………もうお前、ほんとやだ」
タイミングを逃したアクアが同じ台詞を言えたのは、全ての検査と連絡を終え、更に飛んできた政府関係者含む面会人が人心地ついて改めて二人になることができた、三日後の事である。