24星
猛攻が嘘のように静まり返った。ブループラネットは従順な配下のように入り口を開き、アクア達を招き入れる。豹変した敵に躊躇いを見せた友軍は多かったが、アクアは用心一つせずにブループラネットに乗り込んだ。ユズリハが全力を懸けた。信じない理由がどこにあるというのだ。
しかし、躊躇いなく突入して戦闘機を下りたアクアは動きを止めた。
一人の少女が立っている。
白い一枚布で作られた衣服を着ていた。髪は剃られ、頭には大きく生々しい傷跡が無数に這っている。異様な立ち姿にぎょっと息を飲んだ仲間の中で、アクアはそんなもの見てはいなかった。
「ユズ、リハ」
その顔は失った幼馴染と同じだった。
「これはタイプB型98号機です。オリジナルの指示により、これが案内します」
淡々と言い放ち、ユズリハの顔をしたコピーは裸足で歩き始めた。
人間の気配が極端に少ない施設の中は機械だけが静かに作動している。ユズリハのウイルスはアクア達に無害な機械には関与しないらしく、日常どおり作動していた。清掃ロボットは小さな作動音だけで大して汚れてもいない廊下を丁寧に磨き上げていく。
「君は、わたし達が来ることを知っていたのですか?」
一応周囲を警戒しながら、ヒノエは痛々しい傷跡を気にも留めない少女に尋ねた。アクアは強い衝撃に言葉を発せなくなっている。
「知っていたのはオリジナルです。これはオリジナルが作ったチップの通りに動いています。チップは壊れる前に次に移し変える。これらに意思はなく見張りはない」
少女の頭は乱雑に縫われた縫い傷が縦横無尽に走っていた。自らの手で頭を裂いてチップを移し変えたと事も無げに言ってのける。
清掃ロボットがゴミを運ぶ。人間が輩出したゴミをシステム通りに処分する。運ばれてきた物を見て、レオハルトは吐き気を催した。
白い手足が重なって、長い赤がね色が絡まっている。オレンジ色の髪を垂らした青年がごろりと転がり落ちていく。虚ろに開いた伽藍洞の瞳は輝きを完全に失っていた。かくりと首が傾き、脳が零れ落ちたとき、レオハルトは耐え切れずに吐いた。すぐに清掃ロボットがやってきて床を磨く。
「あれは、何だ」
喉を震わせることでようやく言葉を搾り出したホムラに、少女は淡々と答える。
「廃棄物です。これも明日にはああなります。よってあなた方が現れなければ本日中に次に移し変える予定となっていました」
湧き上がるものが、嫌悪なのか憎悪なのか分からない。ホムラにとっては出会って間もなく死んでいった少女だった。ほとんど何も知らない相手だ。それでもあんな目に合わなければならない罪を犯したのだと、どうしても思えない。
山となった死体は全て同じではなかった。目の前の少女のように髪を剃られたものから、足先まで伸ばしたもの。様々だった。
「オリジナルのコピーは幾通りかに分けて使われます。これのように実験用、雑務用、玩具用に分けられます」
「玩、具」
「普段はこの部屋にしまわれています。ご覧になりますか?」
誰もが、自分が思うより悲惨な光景が目の前に広がると予測できた。自分が抱える常識では及びもつかない光景が、既にここにあるのだから。
開かれた扉の中は思ったよりも広い。暗い部屋に足を踏み入れてすぐ、何かが足に触れる。
紫、黒を斑に散らせた白い腹だった。
「やめて、ぶたないで、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
少女達は頭を抱えて身を寄せ合っている。頬は腫れ上がり、眼球が潰れた者もいた。足がおかしな方向に折れ曲がり、爪は剥がされている。動けない身体を寄り添い、ずるりと引きずり道を空けていく。
「明かりをつけます」
淡々とした声と共に、奥まで広がった部屋が煌々と照らされた。
アクアは思う。人間とはこうまでも穢らわしいもので、醜いもので。ならば存在しなくてもいいのではないだろうか。今までの出会いや、今なら分かる恵まれた人間関係全てかなぐり捨て、一瞬、本気でそう思った。
「手前が『燃えるゴミ』。奥が『犬』となっています。嗜好に合わせ数タイプに分けて『飼育』されています。『犬種』は」
淡々と少女が言う。
「もう……黙ってくれ」
「了解しました」
奥の少女達は髪が異常に長い者もいれば、短い者もいる。服をほとんど纏わず、妖艶に笑って足を開く。媚びるようにしなだれかかり、胸を押し付ける。少女が怯えた目を向ける。自らの身体を掻き抱き、全身で男を恐怖する。長い髪を身体に巻きつけ、少しでも肌を隠し、距離をとろうと震える足で這いずる。美しく保たれた身体を開き、隠し、涙し、投げ出し、諦め、悦び、恐怖し、微笑み、嫌悪し、少女達はそこにいた。
「たすけて」
ほろりと星色の瞳が涙を零す。
「たすけて」
血の吐息を零す唇が乞う。
「たすけて」
身体を開く美しい少女が、妖艶に微笑む唇をそのままに強請る。
「「「ころして」」」
教えられたままに男を誘い、少女は微笑む。
「みないで」
「たすけて」
「ころして」
そうして最後には決まってこう言うのだ。
「「「アクア」」」
祈るように手を伸ばして、少女達は微笑んだ。
「爆薬を持ってはいませんか」
案内役の少女は淡々と問うた。
「…どうするんだ」
「保って十日ない命。それでも望む早急な終わりを、どうか叶えてください」
ホムラは迷った。すぐに朽ちる命だ。作られ、生産された間違った形。それでも命だ。痛みを持ち、死を持つ命。
「使われる為だけに作られました。終わりの自由をこれ達は得たい。これ達は『アクア』を初めて目にし、初めて乞うた。初めて名を呼び、口にした」
装備している手榴弾に手をかけたアクアをホムラが止めた。自らの装備から引き抜く。
「止めておけ。お前にはあまりに酷だ」
ホムラの制止をアクアは感謝と共に断った。
「俺が、渡します」
同じ声、同じ顔、同じ言葉を紡ぐ少女達に近寄る。ブループラネットは研究をほぼ完成させていたのだ。彼らはそうと知らずともだ。
アクアは彼女達と会ったことはない。誰よりもアクアを知り、誰よりもアクアが知っている少女は一人だけだ。それなのに、彼女達は口を揃える。
「アクア」
記憶は繋がっていた。思い出は共有されずとも、刻まれた想いが繋がっている。ユズリハの想いの強さに、自分は報えるのだろか。
「遅くなって、ごめんな」
少女達は嬉しそうに笑う。一人の少女が手榴弾を両手で受け取り、うやうやしく円の中心に置いた。
「だいすき」
誰も確認などしていないのに、全員がそこに頭を向ける。ユズリハの徹底した願いだ。研究の廃棄を。己が脳の破壊を。コピー達は忠実にオリジナルの願いを守る。神事を行なう神官の如く、崇め奉るように全員が膝をつき頭を掲げた。
扉は完全な防御を誇っていた。部屋を焼け焦がす衝撃を完全に防いでしまうほどに。
「次に参ります」
少女は淡々と促した。
アクアは頷いた。思考はノイズの中で正常に動いている。どこか異常をきたしているが問題ない。身体も思考も動く。おかしいほど冷静に。
無残な扱いを受けた彼女を見る度、人間として扱われなかった彼女を知る度、歩は進む。彼女の願いを叶えるのだ。彼女の望みを果たすのだ。崩れ落ちるのも壊れるのも、その後で幾らでもできる。
恋しい恋しい親友を害した者共を殺した後で、幾らでも絶望すればいいのだ。
同じ顔をした兵士が並んでいる。虚ろな瞳のまま動きを止め、身体は傾いでいた。直接戦闘をしたのはこの顔だけで、彼はブループラネットの象徴だった。人間の居住区域が近づくにつれて多くなっていく『欠損』『破損』した彼らを見るたびに思い知る。彼もまたユズリハと同じなのだと。
刻みついた思考だけを意味なく繰り返すコピー達。オリジナルではない。けれど全く違うわけではない。彼らは彼女らは、確かにオリジナルから作られたのだ。
「ミナ……」
酷く殴打された青年は、妹の名を呟き事切れた。清掃ロボットが小さなモーター音を出して片付けていった。
案内されるままにデータを破壊していく。ウイルスはアクアが作ったものを使った。必要あらば物理的にも破壊した。感情を叩きつけ、鉄と同じ強度を持つ合金が歪むほど破壊しても、誰の発散にもならなかった。
人間の姿は見つけられない。マザーの元に逃げたのだ。好都合だ。纏めて壊してやる。
少女は何の感情もなく扉を潜った。殺風景な部屋だ。多々あるコンピューターから繋がる配線。ガラス張りの向こうにある何らかの実験器具。人が一人納まるほどのカプセルが数個。白い書類で作られた折り紙が何個も転がっていた。
ホムラは眉を顰めた。
「何だ、ここ」
「何らかの研究室でしょう。研究人数は少なかったようですが……」
ルカリアは頷いた。
「椅子が少ない。二つしかない。椅子二つに、ソファー一つ、シーツ……」
ルカリアはびくりと背筋を伸ばしてエミリアの手を握った。悪意に晒されてきた彼は、感情の機微にひどく聡い。怯えた瞳が向いた先はアクアだった。ざわりと髪を逆立たせている。
違和感の正体は、あれだけ動き回っていた清掃ロボットが立ち入っていないからだ。監視カメラ、部屋の隅に固定された枷。引きちぎられた髪の毛。白いソファーにこびりついた大量の血液。どす黒く変色した血はガラス張りの隣の部屋へと続いていた。壁に掌の跡が残っていた。小さな手は、血を流しながらも責務を果たそうと動いたのだ。
「ここで、ユズリハは死んだんだ……」
血の跡を辿り、一つのカプセルに辿りつく。溜まった血は凝固していた。閉じられた内側に掌の跡はない。救いも求めなかったのだ。中に輪があった。持つとぱりぱりと音がした。
「オリジナルの首輪です。反抗的態度を取った際、電流が流れます。オリジナルは反抗的態度が頻発して見られた為、手足にも装着されていました。研究成果が出ない際にも使用されます。時に何もなくとも作動されます。『執行人』は笑いますが、オリジナルはまたかと言います。その際、これらは対象外となります。通常『執行人』はこれらへ行います。オリジナルの場合作業の大幅な遅れが懸念される為、執行時間が規制されています。人が優越を感じる為に行う下らない行為は、相手が人間に近ければ近いほど悦ばれるものだ、オリジナルの言葉をこれより17前が聞きました。これだけのことをした後で、暴力が効果的と思ってる所がまた愚かしい。これより63前が聞きました。これはオリジナルを見たことがありません。これが出来る前にオリジナルは逃亡しました。これは一際出来が悪く、これは明日廃棄です」
少女は淡々と語った。
続き部屋はドームよりも広く中は寒い。徹底的に管理された部屋は、入る前にひどく消毒された。眼前に広がるのはかつて第七人工星と呼ばれた場所に住んでいた人間達だ。脳だけと成り果てた、元人間だったもの。
いつかは甦る。帰ってくる。待つ者を失った今でも、思いの残骸だけが管理されていた。
呆然と脳の羅列を見ていたレオハルトは振り向いた。小さな声が聞こえる。髪の隙間から見えたアクアの瞳にぞっとした。レオハルトを通り過ぎ、緩慢な動作で強化ガラスに拳を叩きつけた。割れはしないが鈍い音がガラス全体を通り過ぎていく。
行動の激しさとは裏腹に、声音はひどく落ち着いていた。それが何より恐ろしい。
「こんな物の為にユズリハは死んだのか。こんな、もう終わった人間の為に、こんな物の所為で、あいつはあんな地獄を生きなければならなかったのか」
彼女を害した全ての人間は、地獄より深くへ堕ちなければならない。生まれてきたことを後悔し、死んでいけ。死した後も救われぬ業の中、未来永劫苦しみ抜け。
ふらりと動いたアクアの腕を、ホムラが掴んだ。
「何しようとしてる」
「壊します」
「九億七千万の命をか」
アクアの頭は凄まじい速さで動いていた。どこに爆薬を設置すれば効果的に多くを壊せるのか計算している。それが出来ると知っているホムラはアクアの頬を打った。
視界がぶれて計算が乱れる。
「元第七人工星の住人達への対処はまだ決まっていない。手を出すな」
「関係ありません」
視界にはホムラを認めていても、思考に入ってこない。
「命令だ。軍機違反でお前を処断する権限が俺にはある」
アクアは切れた口元を拭いもせず、歪めた。
「だから、何です」
双子は息を呑んだ。これほどに何かを失った人間を見たのは初めてだった。いつもどこか清廉な空気を纏ったアクアが、何て濃密な闇を背負うのだ。
「奴らは、ユズリハよりも深い絶望を知るべきです。同等など許さない。生きてきた意味全てを失い、生き残った己を後悔し、全てを無意味として死より恐ろしい恐怖の中で死んでいかなければならない」
彼女を害し、尊厳を奪い、魂に罪を背負わせた。その責は何より重い。
罪には罰を、報いを、贖いを。
ユズリハは贖った。砕かれ奪い取られ、隠し持っていた僅かに残った人生さえも懸けて贖った。それでも奴らは救いなど与えなかったではないか。赦しを乞う権利すら奪い取った人間に、人間である権利などあるのだろうか。
再び頬を打たれた。忌々しい。目の前にいる人物が判断できない。今がどういう状況なのかも分からない。あるのは憎悪と呼ぶのもおこがましい衝動。穢れの象徴である何億もの脳を、人間の残骸を、破壊しつくしてもきっと止まらない。
「全部、消えてしまえばいい」
この身が壊れるまで止まれない。それでいい。
「アクア・ガーネッシュ!」
バシンッ!
ぶれて角度が変わった視界の端に誰かが映りこんだ。感情のない星色の瞳がアクアを見ている。ただただ見ている。何も言わず、反応を示さず、淡々と見つめている。
「お前の願望だけを重視して彼女を泣かせるのなら、お前もあいつらと同じだぞ! あの子にこれ以上の何を背負わせるつもりだ!」
『アクア』
つらくてつらくて堪らない。そんな顔で泣いている。そんな顔しか思い出せない。彼女を追い詰めたものを見るたびに、知るたびに、親友の泣き顔しか思い出せない。
「あの子は何て言った? これ全部壊してお前に罪を背負ってほしいって言ったか? お前のこの先を犠牲にして復讐してほしいって言ったか? 俺よりあの子に詳しいのはお前だろ! あの子はそういう娘だったのか!?」
『アクア』
星色の瞳が感情を移さずアクアを見ている。感心するほどくるくる感情を浮かべた瞳が、ただただまっすぐに。
ああ、泣いている顔しか。
泣きじゃくった顔はいつだって、アクアを見つけるとくるりと変わって。
『幸せになって!』
笑った顔が、一番、好きだった。
「ユズリハ――……」
笑った顔が一番好きだよ。
君が呼ぶ俺の名が一番好きだよ。
君が、好きだよ。
幸せでいてほしかったよ。誰より、何より、君に幸福でいてほしかったよ。君と一緒にいたかったよ。
君と一緒に、生きていきたかったよ。
背をつけてしゃがみこむ。憎悪は止まらない。欠片だって収まらない。けれど、自分の感情より大切なものがある。一生を懸ける憎悪より大切な人がいる。
優先されるのは彼女の願いだ。
何より。
誰より。
己より。
彼女が怨むならアクアは世界だって壊せる。彼女が願うなら悪魔になることも厭わない。
けれど、彼女が祈ったのは、願ってくれたのは、そんなものではなかった。
「……隊長、すみませんでした」
ホムラは握っていた銃をそっと離した。
「かまやしねぇよ。気にすんな。俺こそバシバシ叩いて悪かったな。立てるか?」
差し出された手を握り返す。
「すみません。もう、大丈夫です」
己の願いと彼女の笑顔。どちらを優先するかなんて子どもの頃から決まっていた。ガラスの向こうに広がる景色に思うものは変わらない。歪な憎悪は付きまとう。それでも、優先すべきは君の願いだから。
「行きましょう」
アクアは、己の全力を費やしてそれらから視線を剥ぎ取った。