23星
遺体は本人の希望通り燃やした。時間がないのは分かっていたが、遺言だった。精神だけのユズリハは記憶と知識を持っていた。つまり、脳に記憶が複製されていたともいえる。今は精神が揃わなければ引き出せないが、いずれ取り出す術が見つけられるかもしれないと危惧してだ。
スザクの入り口で聞き覚えのある声がアクアを呼んだ。長い髪を靡かせたオリビアだった。父である議員と共にスザクに訪れ、人工星襲撃で戻れなくなっていたのだ。
今は何の話にも付き合えそうにない。アクアは一言断って先を急いだ。
「お急ぎなのは承知しておりますが、その、ユズリハ様のことでご相談が」
思わず足を止めた。
「彼は妙な事を仰って……自分に出来るのはここまでだと。なんだか、まるで、あのまま消えてしまいそうで……わたくし、不安で」
オリビアは整えられた眉をぐっと寄せた。アクアを見上げているが意識を向けているのはあの日のユズリハだ。
「ミス・ルーネット。もしもユズリハが女性だったらどうします?」
「どういう、意味ですの?」
「そのままの意味です。ユズリハは男でなく女性で、性別を隠していた。どう思います」
質問の意図が分からない。相手の意図を汲み取って返答する習慣がついているオリビアだったが、アクアの意図が全く理解できない。しかし、ここでそう答えるのは彼との会話を一生失ってしまう気がした。
オリビアは両手を合わせて、夢見るように微笑んだ。
「……素敵。宜しければお友達になって頂きたいわ。ルーネットの名前なんてちっとも気にされませんの。わたくしをそんなもので判断したりなさらなかった。わたくし、嬉しくて。とても心地よかった。発言を利用しようとなさらず、あるがまま応えてくださった。本当に嬉しくて、もっと仲良くなりたいと思っていましたの。恋愛ではありませんわよ? わたくしが好きなのはあくまでアクアですもの。ユズリハ様が女性でしたら、きっと良き好敵手になれましてよ?」
ユズリハと出会った幼い時分、アクアもそう思った。アクア自身でしか判断しない『彼』の存在が嬉しくて、貴重で、幸福だった。嘘ない笑顔を向ける友に、紛れもなく惹かれていた。今更気づいても遅いのだけれど。
きっと気が合うよ。笑った友の顔が浮かぶ。本当だ、気も合うだろう。同じように救われた身だ。自由な『彼』に憧れた者同士だ。
「……あいつを好ましく思っていてくれたのなら、どうか覚えていてやってください。あいつがいたことを。どんな奴だったかを」
出逢うはずのなかった彼の人を。潰えた中で得た出逢いを。夢のように現れて、雪のように消えた光色した人を。過酷な生の中で最期まで精一杯生きた、アクアの大切な人を。
オリビアは息を飲んだ。はらりと美しい涙が流れ落ちる。
くしゃりと顔を歪めて子どもの様に声を上げる、外聞をかなぐり捨てた姿。ただただ悼むその声に、純粋な死者への悼みに、アクアは心から感謝した。
「流石に名だたるハッカーがいるなぁ。シルバーウルフにヒドラ、赤い雷神に……ユグドラシルはいないのか。名札がシュールだなぁ……マリリン男かよ。繊細且つ美しいプログラムで男性ファン多かったのに……ごついな、おい。筋肉隆々だ」
「お前こういうの大好きだものね。外で遊ぶのも好きだけど。今度また遊園地行こうね」
「いいの!?」
「いい子にしてたらだけど」
ぱっと輝いたルカリアに飛びつかれ、エミリアは支えきれずにひっくり返った。
戦闘員はパイロットスーツに着替えて自機の前で待機だ。作戦が実行されて二時間、モニターで様子を確認していた。
「どう見る、ヒノエ」
「芳しくありませんね。さすが旧第七人工星が作ったマザー。三二七台投入したスパコンで互角ですか。元々ハッカーは個人主義です。彼らを統率する要が必要ですね」
「……お前それ隊長に言うなよ。中華鍋振り回して恐怖政治始めるぞ」
「……ああ、ありましたね、それ」
人工星の危機とあって、ハッカー達は比較的好意的に集まったものの、軍とは犬猿の仲。互いの疑心とぎこちなさが目立つが、腕は情報部も一目置いている。それでもマザーで統括された一枚岩はぶれがない。ゼルツコーポレーション含むスーパーコンピューター所持者達を含めての、第五人工星一丸となってのプロジェクトは、あまりに時間も準備もない中で進めざるを得なかった。
ざわりと格納庫が騒がしくなった。
「食い破られる! 何やってんだ、情報部!」
敵の攻撃が磁場嵐を越えて覆いかぶさった。
「向こうが上手か! 双子お前らも行け! 戦闘員も腕に覚えのある奴は全員走れ!」
ゴルトアの怒声に走り出した該当者の中にアクアもいた。アクアは部屋の一番手前で画面に齧りついていた情報部から席を奪い取る。文句を言おうと口を開いた情報部員は呆気にとられた。
戦闘員の指が滑るように動く。早い。早く正確だ。枝を張るように攻撃を受け止め、探るように磁場嵐に根を張った。どこにでもいる、どこまでも根を張り、枝をしならせる。
よって人々はこう呼んだ。
「ユグドラシル…………?」
ロキと並ぶハッカーの神さま。
世界樹の名を持つ少年は、小さく息を吐いた。
「よくやった! 後でちょっと職員室な!」
「どこが職員室に当たりますか。また査問ですか」
「お前罰したらハッカー全員捕まえなくちゃな。よくやったよ」
ホムラは複雑な表情で笑った。
ユグドラシルはハッカー達を導いた。根の先で探り当て、繁らせた葉で覆い隠し、しなった枝で弾いた。全てを知る生命樹の大木の名を欲しいままに、磁場嵐を消滅させた。ロキほどの派手さも目新しさもない。どこまでも真面目と思えるほど誠実なハッキングで有名な彼は、黙々と磁場嵐に打ち勝った。
伝説の二神を一目見ようとハッカー達は群がったが、情報部も多数混ざっていたのはどういうことだ。アクアは眉を顰めた。
「見事なものですね。ロキとはどちらが強いでしょう」
際どい質問に、アクアは素直に首を振った。
「アカデミーに入ってからは手を引いています。先日の件で少々指慣らしした程度で、せいぜい全盛期の七割、よくて八割です。現役とでは歯が立ちません」
平常通りのアクアに、後輩が好奇心丸出しで手を上げた。
「質問です。先輩達の宿題争奪戦はどんだけ高レベルだったんすか!」
アクアは少し考えた。とりあえず全力だったとしか言えない。ロキを鍛え上げたのはアクアだったけれど、ユグドラシルにしなやかさを与えたのはロキだった。
「問題はブループラネットですが……さて、どこまで進軍してきているのやら」
ブループラネットの位置が把握できなくなって三年。位置によってはすぐに戦う必要がある。息を殺して磁場嵐の溶けたモニターを見遣る。悲鳴が上がった。
ゴルトアは壁を叩きつけてへこませた。
「やってくれるぜ、くそやろう。近距離衛星から視認できるか!」
総員戦闘準備、直ちに出撃せよ!
どすの効いた声に戦闘員は踵を打ち鳴らして手を上げた。
思ったよりもずっと近く、シャトルで飛んでも二週間かからない距離までブループラネットは位置を変えていた。本格的に落としにきたのだ。ゴルトアは舌打ちした。奴らの目的が分からない。ユズリハの情報を信じるなら奴らは人口のほぼ全てを失っている。その上で他人工星を襲撃し、第四人工星を落とし、一体何をしたいというのだ。
分からないが、分かるまで待つ時間はない。目に見える脅威を排除する。話は全てそこからだ。敵は既に人工星一つを落としている。人類史上最悪の非道を行なった相手を目前にして、日和見などしている暇はない。終わった後にゴルトアの首が飛ぶかもしれないが、それならそれでいい。飛ぶ首が残っているのなら部下の命も残っているはずだ。亡者どもの願いの為にどれだけの者が犠牲になった。
「……少し、違うか」
ユズリハを犠牲にしたのは亡者だけではない。死者も生者も彼女から奪い、害した。死して尚終われない罪を背負わせた。彼女に罪がないとはいえない。理由はどうあれ恐ろしい物を生み出してしまった。
偉業でなく罪となったのは彼女の責ではなかったけれど。
ゴルトアは悼むために瞳を伏せた。
強大な力に翻弄された少女の生は、幼馴染との再会で救われただろうか。そうならいい。短い生涯の大切な数年間を地獄の中で過ごした少女は孤独に死んだ。限りある偽りの生でも微笑んで逝けたのなら、少しは救われる。
今はまだ祈る言葉も時間も無い。
ゴルトアは慌しい格納庫に負けない怒声を張り上げた。軍全体が雄たけびを上げ、人工星内からは人々が空を見上げた。ずっと戦ってきた軍人の存在を久しぶりに思い出した人々は、祈るように偽りの空を見上げた。
アクアは呼び止められて足を止めた。
会話をしなくなって久しい。いつからか何て記憶にない。いつもなら足を止めない。それでも足を止めた。それが彼女の願いだからだ。
テレビで見るより幾分年をとった印象を受ける。それでも記憶にある厳格で厳めしい父がそこにいた。
「父さん」
挨拶も相手の用件もどうでもいい。全てを許せるほど大人ではない。全てを信じるほど子どもではない。父への信頼は既に潰えていた。
それでも、潰えたそこにユズリハが再び植えたものがある。それを枯らしたくはない。ユズリハが残したもの、何一つとして蔑にしたくはなかった。
「母さんとウォルターを愛していましたか」
同じ言葉を葬儀の前にも発した。あの時、応えはなかった。
惑わぬ息子の瞳を、ジェザリオ・ガーネッシュは静かに見返した。妻によく似た息子は、いつの間にか身長を伸ばしている。
ジェザリオは先日届いたメールを思い出して嘆息した。今となっては遠い昔としか思えない穏やかな過去に、息子の傍をうろちょろしていた妻の気に入りの子どもからだった。
「お前と同じほどに」
青い切れ長の瞳が見開かれた。
ようやく見つけ出した幼さに、ジェザリオは久方ぶりに小さく、ほんの僅かに、笑んだ。
蜘蛛が糸をつけて大量に飛び出すように、数え切れない敵兵がブループラネットから排出されたと同時に第五人工星軍も出撃した。
紛れてアクア達も出撃していたが、目的は違う。彼らは敵兵の撃墜、殲滅をミッションとする。アクアはブループラネットへの潜入、場合によっては破壊を任務とした。左右に双子を連れ、第四、五小隊に囲まれている。アクア自身は常にパネルをチェックして指を動かし続けている。
ハッカー含む情報部も、磁場嵐を失ったブループラネットへの攻撃を開始している。一つ食い破り、二つ食い破り、防御壁を張るマザーに全力で食らい付く。
アクアが操るのは自機だ。あくまで自分の機体に内蔵されているシステムでのハッキングでも、ユグドラシルの名は霞まなかった。
ユズリハがマザーの中に点在して残した痕跡を足掛かりに、内部に食い込んでいく。他者では見つけられないものを、アクアは光りのように簡単に拾い上げていった。
『ブループラネット補足! 左舷に第十二人工星をつけています!』
アクアはゆっくりと視線を上げた。アップにされた映像が視界いっぱいに広がっている。青い瞳が宇宙を映して暗く色づく。あれが、ユズリハに罪を擦りつけた牢獄だ。
「ユズリハ……お前の憂いを果たすよ……俺には、それくらいしかしてやれないから」
もうどこにもいない幼馴染は、子どものような泣き顔を浮かべるだけだった。
ブループラネットが肉眼で捕捉できるほどに接近すれば、人工星からの攻撃も激しくなる。全員、まだか、など無意味なことは口にしない。アクアがすべてを費やしてこの戦争に挑んでいると誰もが知っているからだ。
『パスワード画面が現れました』
「こちらも確認している」
『解析入ります』
浮き足立ったイヤホン越しの本部の声を、アクアは静かに遮った。
「必要ない」
疑問符を飛び交わせているイヤホンを取り、会話を打ち切った。
視線の先では、小さな折鶴が緩やかに揺れている。本に載っていた折り紙というものを二人で試した。昔、青い星の島国で行われていた遊びだという。四角い紙が幾百にも化ける様は、何度遊んでも飽きることはなかった。
嘴から文字を浮かばせて、鶴は揺れる。
【合言葉は?】
「お前はいつも【忘れた】だった」
【タルトにミルフィーユに】
「【アップルパイ】その三つでお前いつも悩むんだよ」
【ホップステップ】
「【ダイブ】何度も言うけど間違ってるからな、それ」
【位置について!】
「【よいどん】で出発するのはずるいぞ」
【手摺は滑る物。黄色は急ぐ物。宿題は】
「【奪う物】お前ちょっといい加減にしとけよ」
【誕生日プレゼントに可愛いワンピース買ってもらうつもりなんだー】
「【どんな趣味でも僕は構わないが、一先ずご両親には相談しておけよ】……悪かったよ」
【最初は】
「【パー】だから、ずるいからなそれ」
【やっほーい!】
「【飽きた】んだな」
淀みなくパスワードを解いていく。彼らの日常が暴露されていく。これはアクアでなければ解けない。なんて楽しそうな、確実に楽しかったであろう彼らの日々。
ぴこん。
場違いなほど明るい音が現れた。二人で散々遊んだゲームのスタート音だ。浮かんだ文字に、こんな時だというのに目頭が熱い。泣きたくない。みっともないとかそんな理由ではない。彼女のいない場所で泣きたくない。泣く場所をくれた彼女を失った今、泣ける場所など要らない。
要らないのに。
【ありがとう。ばいばい。私の大好きな、惑う星の解決法!】
無機質な文字だけで、恋しさと愛しさが溢れ出して、どうしようもなかった。
「ユズリハっ……!」
苦しくて、息もできない。無理やり飲み込んだ痛みは、胸を焼きながら深く深く沈んでいった。