22星
ロキの名は伊達ではない。
そもそも自称でなく他者の評価で成り立つ世界だ。伊達のはずがない。他のメンバーがついていくのも必死の中、何のフォローもなくユズリハは先陣を突っ切った。
情報の海を己が世界とする。数字と文字の羅列、瞳だけがぐりぐりと動き、宙に散らばったボードはついては消えてを繰り返した。瞬地移動禁止区域設定システムの完成、システムを組み込む位置を制圧。残りのメンバーはついていくだけで精一杯だった。
アクアは久しぶりに酷使した指を軽く振って、細く長い息を吐いた。
地下の一室に装置を設置している間にユズリハがチェックする。調整液の状態も良好。使えずとも電源を入れ続けていたことが好を相した。不純物も混じっていなくて良かった。
機器の横にはベッドが一組設置され、エミリアが横になる。それを見てルカリアが慌てた。
「ルカリア、早く脱いで調整槽に入って。私、他にもすることあって忙しいんだなぁ」
青ざめたルカリアは、泣きそうな顔でユズリハに縋りつく。
「なんで、エミリアから何をとるの!」
「血液を君と循環させる。これ、液体系と生殖器官系は作れないんだ。だからそれ系の病は解決できない。ほら、急いで」
ルカリアは真っ青になった。自分の心臓の位置を握りしめる。
「僕はエミに渡す物があるけど、エミから奪っていい物なんて一つもない!」
泣きそうに叫ぶ弟の胸倉を掴んで、エミリアは額をぶつけた。いい音がした。
「お前からはもう貰った。お前は尊い心をくれたじゃないか。何より価値あるものだ。だから僕はお返しを渡さないといけないけど、血液くらいしか需要がない。お前がくれた尊いものは、僕の心だけじゃ足りないんだよ」
全身全霊の心をくれた。幼いからこそ純粋な想いに報いたい。血液といわず、取れるものは全部持っていってほしい。それで弟が助かるなら惜しいものなんてない。
エミリアは兄だ。兄弟の始まりがどうであれ、誰がどう言おうが、兄なのだ。世界でたった一人の弟が助かる方法を、躊躇う理由がどこにある。
「ルカリア、早く入って。アクア達もやり方覚えて。これだけじゃ終わらないんだから」
一日二日で終わるはずがない。初めは頻繁に、回数は減っても、少なくとも彼らが三十を越すまでは常にだ。そこから減るのか増えるのか誰にも分からない。
そしてどうか、全てが終わった後は完全なる廃棄を。父母が半生懸けて一生を終えた集大成を、塵も残さずこの世から消してくれ。
小さなメモリをアクアに渡す。ここに全て入っている。ブループラネットの内部情報も、データの座標も、ユズリハが知っていることは全てここにある。語るには時間が足りない。伝えるには感情が追いつかない。だから、ここに置いていく。全てを彼らに託す。
アクアの手を開いて両手を重ねた。
「…………押し付けてごめんね、アクア」
「散々俺の宿題を奪っておいて、何を今更」
軽口を叩いてこつりと額に拳をつけると、ユズリハは困ったように笑った。
アクアも笑う。昔と同じ顔で笑えていないと分かっていても、それ以外の表情を表に出すわけにはいかない。ぐっと握りしめた小さなメモリは、とても重かった。
ユズリハは一度だけゴルトアと通信を開いた。軍の専用通信で厳重に守られた中、互いの作戦を確認し合う。
軍の方針を確認した後、頷いた。
「残してきたウイルスが役に立つでしょう。承認が必要ですが、アクアが向かうなら問題ありません。作動すれば警備もただの鉄屑だ。残るはコピー兵士と、僅かな生き残りだけです。兵士は中のチップを狂わせます。磁場嵐はスパコンを揃えて、人工星中のハッカーを集めてください。軍だけじゃ無理です。私一人の侵入を呆気なく許したんですから。まあ、システム創設者が私だったこともありますが、それでも足りません。罪状を軽くするだの身分隠していいだの適当に言って集めてください。正直、磁場嵐さえなければ勝てない相手じゃありません。敵の頭脳はマザーだけです。他のどの人口星に無理でも、この人工星なら出来ます」
ゴルトアは厳つい顔を崩さなかった。画面上の少女は死斑に侵された顔面を下げた。
「ミスト家を代表して謝罪します。惑星を混乱させて申し訳ありませんでした。全員の死亡を贖いとして頂きたい」
死者に鞭打つ必要はない。
彼女は充分贖った。最早言うべきことは何も無い。
『ご苦労だったな。ゆっくり休め』
重厚な声と表情とは裏腹に、最敬礼を向けられたユズリハは泣きそうに笑った。
作戦は至ってシンプルだ。
掻き集めたハッカーと軍情報部共同で磁場嵐を解除する。『天然』要塞を破壊すればブループラネットは他の人工星と同条件どころか人がいない分それ以下となる。ほとんどを機械に頼っていると分かれば対処の仕方も変わった。そのままサイバー攻撃を仕掛ける。磁場嵐の影響でどこまで第五人工星に近寄っているのか判断をつけられないが、ユズリハの話では下手をすると一月分も離れていない可能性がある。
敵はあれからも断続的に兵を送り込んできていた。ユズリハのシステムにより、人工星内部と近距離宙域への移動は制限されたが、兵士の疲労と健康を考えないので無理な遠征が可能となる。送り込まれる過程で大半が壊れて使い物にならなくなっていたが、機体はほぼ無傷だった。尋常でない数の機体が生産されている。厄介なことに全機自動操縦に切り替えられていた。『中身』は相変わらず『破損』している。それなのに送り込み続ける。機体だけで充分戦闘ができるにも関わらず。成功するまで実験は続くとユズリハは平然と言った。戦争と研究を同時並行する。合理的に物事を進める。機械らしい考え方だ。
ルカリアの容態は良好だ。生とは呆れるほど単純だ。諦めれば急速に死へ向かい、光明が見えればあざといまでに生にしがみつく。だからこそ貴く愛おしい。
エミリアはほっとしていた。一回の治療で死斑は目に見えて薄くなった。透析のようにこれからずっと付き合っていく治療だ。希望が目に見えたほうが苦痛は少ない。
移動を続けていた捕獲対象が一ヶ所に留まった。一気に激しくなった攻撃にアクア達は再び地上へと戻った。社員も一緒に自警団に混ざった。ルドルフの姿もそこにあった。
ひょいひょいとシャッターを開け、敵が来たら閉めて閉じこめるユズリハに苦い顔を向ける。
「自分ちみたいに簡単に乗っ取らないでくれ。これでも軍と同じシステム使ってんだぜ」
「兄さん、無駄だって。こいつそれ作った奴で、先輩それ破った奴だから」
「…………兄さんと呼んでくれて嬉しいぞ」
同じ顔を殺し続けて、アクアはふと足を止めた。敵の増援はもうないが、既に送り込まれた部隊全てがここを目指している。留まることを知らない相手に、自警団の疲労は濃い。
「……ユズリハ?」
銃声飛び交う中に幼馴染を見つけられない。
「先輩、奴らが移動します!」
返答を返す必要はなかった。敵兵は急にアクア達に興味をなくし、ぞろぞろと移動を始めていた。撃ち殺されても止まらない。熱に浮かされたよう上を目指していた。
「……上階には何がありますか」
「普通のオフィスしか……屋上にはヘリポートくらいだ。特殊なものは本当に何もないぞ」
嫌な予感がした。
開けた屋上に、少女が一人立っていた。給水塔が設置されている一段高くなった場所で髪を靡かせている。
衛星から見えるようフードも外し、輝く赤がね色の髪を靡かせて心地良さそうに目を細めた。無造作に銃を握った手は力なく垂れている。
「ミスト博士、お戻りを。博士、研究を続けてください。博士、これが最終警告です」
集まった同じ顔の敵兵が揃えた声など気にも留めず、舞台上のように声を張り上げた。
「見えるだろう、マザー! ブループラネットを支える、有能なだけの木偶の坊!」
テレビ局のヘリが飛び交おうが、軍用ヘリが飛び交おうが気にも止めない。ユズリハが見ているのは人工星を越えた先だ。
「そこで指をくわえて見てるがいいさ。楽園に帰るのだと夢現な馬鹿共を抱いて、そいつらと一緒に絶望すればいい!」
高々と宣言する様は終焉を定めた魂の叫びだった。
「やめろ……」
アクアの口からか細い悲鳴が漏れた。
「やめてくれ、ユズリハっ……!」
ユズリハは背を反らせて空を仰ぎ見る。細い死斑だらけの身体を資源に命を燃やす。
「私が最後だ! 最後の元兇だ! 世界にとっての災で、お前達にとっての希望を、私が潰やす。お前達の願いは永久に叶わない。私は命を、お前達は絶望をもってして世界に贖え!」
死斑だらけの手を赤く透かせて、陽光を眺める。
目も晴れる青空は人工的な空だ。
その昔、人類が母星にいた頃、天災というものがあったそうだ。地震、台風、洪水、雷、竜巻、土砂崩れ、大雪、津波。管理された人工星内に制御できない災いなど有り得ない。ひたすらに穏やかで、安穏とした生活環境。全てが統制され管理され、一片も無駄なく再利用されて循環する独立した人工星。
は、と、小さな息が洩れる。うまく息が吸えない。不思議と苦しくはない。苦痛を司る神経が麻痺しているのかもしれない。どす黒い染みが浮かび上がった醜い手。罪の証。躊躇いなく繋いでくれたアクアを思い出して自然と口元が緩ぶ。近くにいるのに触れられないのは罰なのだ。当然と理解していて納得済みのことだ。だから、こんなにも穏やかだ。
ごめんね、私達の第五人工星。生まれてきてしまってごめんね。私達の脳は存在してはいけなかったね。生まれてきてしまってはいけなかったね。それなのに、とても幸せで本当にごめんね。
幼い彼の声が聞こえる。今度は今の彼の声。大好きな声が重なり合ってユズリハを呼ぶ。逢いたくて堪らなかった。逢える訳がないと思って尚、心は勝手に彼を求めていた。
「こんなっ……一人でなんて、許さないぞ! ユズリハぁ!」
もう何も見えない。何も聞こえない。生命活動に必要な機能が死んでいく。
終焉は既に決まっていた。緩やかに銃口を持ち上げる。それだけで全力を尽くした。繋がったまま死に逝く許可をくれた。彼には苦しみしか遺らない選択を強引に押し付けてくれた。優しい優しいアクア。
かつて、青い星にあった巨大な命の器。
ユズリハの、青。
「…………幸せだったよ、父さん、母さん。貴方達はどうだった? 私は、アクアがいるから、なぁんにもこわくないよ――……」
涙腺は既に機能を停止していて、涙は流れなかった。
命の終焉にはあまりに、あまりに軽い音がして。
脳を撃ち抜いたユズリハの身体はぐらりと傾き、アクアの腕の中に落ちてきた。軍人として鍛えあげられたアクアに受け止めきれぬはずもない軽い身体だ。それなのに、アクアは少女を受け止めた勢いのまま座り込む。既に力も命も喪った手足が重力に従って揺れる。呆然とした虚ろな瞳のまま、少女の身体の一切が地面につかぬよう己の中に抱きしめた。
薄く、細い身体だった。薄い肉の下で歌う鼓動と、体温だけが生の証であったのに、最早それすら喪われた身体はただの肉塊だ。
力の限り揺さぶって頬を張り、目を覚ませと怒鳴りたい。けれど、アクアには出来なかった。疲れきり、やせ細った身体を目覚めさせるなんて酷なことだ。
アクアの涙が伝い落ち、まるで彼女が泣いているようだった。
「……ずっと頑張ってきたから、もう疲れたよな。ゆっくり休めばいい。ゆっくり、誰にも邪魔されず、ご両親といればいい。何も心配するな。お前の心残りは全て俺が引き継ぐから、安心して眠っていいよ」
幼い頃共に眠ったあの日のように頬に口づけを落とす。怖い夢を見なければいい。願いを込めて瞼に。ああ、どうか、君の眠りが穏やかなものでありますように。祈りを込めて額に。もう誰も、二度と君を害したりしないように。
ユズリハ
ユズリハ
ユズリハ
『アクア!』
ユズリハ
最後の祈りは、もう二度とアクアを呼ばない唇へと。
たった二回の口づけと思い出だけを抱いて、アクアは進むのだ。喪失感と絶望を彼女がいた場所へと据え、幸せにならなくてはならない。そう、ユズリハが望んだのだから。
「…………おやすみ、ユズリハ。またいつか、彼岸で逢おう」
享年十六歳。
ユズリハ・ミストは、短すぎる生涯を、二度、終えた。
ゆらりとアクアの身体が傾ぐ。
握ったナイフはぶれることなく敵兵士の首を一線の元に抉った。手加減など欠片も無い。誰かが手を出す暇も与えず、全て殺しつくすまで止まらなかった。
ユズリハが最期まで愛した水色は撒き散らした赤だけを写し取る。
真っ赤に染まった瞳から止めどなく流れ落ちる涙さえも染め上げ、また一人、同じ顔の赤を撒き散らした。