18星
キーボードを叩く手は止まっていた。握り締めた拳から血が流れる。悔しくて堪らない。こんな些細な事で、過去には当たり前だった事が最大の幸福だと告げる彼女が苦しい。彼女をそんな目に合わせた全てを断罪したい。彼女を苦しめた相手への復讐にこの身全て捧げたいと、するりと思考が動く。極当たり前のように、残りの人生全て彼女の為で構わないと。けれどそれは彼女自身が止めていた。幸せになれと釘を刺されている。人生全て懸けて構わないと思った相手からの末期の願い。無下に出来るはずも無い。
「君は幸せになる。私の自慢の友だもの。あ、違うか。大自慢だ。君はおじさまと仲直りするの。君を理解してくれる可愛い奥さん、可愛い子どもが産まれて。ちょっと不器用だけど、君の周りの人は分かってくれる。後は君が幸福になる努力を怠らなければいい。無表情をやめてみれば早いと思うよ。君の表情筋は外で固すぎる!」
人の未来を勝手に語る。ぺらぺらと見てきたように。合わさる小さな背中が笑う度に揺れる。アクアは拳を床に叩きつけた。背後の言葉は止まった。
「なら、お前はどうなるんだっ……!」
お前の未来はもう絶たれていると納得しろというのか。ここにいる彼女を無視して、彼女のいない未来を想えとは、随分酷いことを言う。
「お前はそれでいいのか? 本当に望みはないのか? お前はそんなに諦めがよくなかっただろう。何をあっさりと納得している。だったらそれを過去に発揮しておけ!」
抱きしめた身体は細くて弱い。庇護してくれる存在もなしに彼女が生きた人生はあまりに惨い。固まった身体はようやくもがいた。力を入れると折れそうで、首元に現れた死斑が苦しくて、そっと拘束するに止めた。
「ユズリハ」
ひどい声がする。ひどい、何てひどい声音で人を呼ぶんだ。ユズリハはもがいていた動きを止めた。止めざるを得なかった。彼に呼ばれて無視できるほど想った日々は軽くない。地獄さえもっと楽なのではと思える日々の中で、彼との記憶が救ってくれた。ここで生きている彼がいたから、ユズリハはユズリハのままここにいるのだ。
「こんな時に我儘を言わないでどうする。どうしようもなく泣き虫で我儘なお前に我慢は似合わない。大体、俺相手に今更する遠慮もないだろう。散々人に迷惑かけたくせに。俺に取り繕える体面なんて、お前はもう持ち合わせてない」
「ひどいな」
「事実だ。そして、お互い様だ」
アクアの横で宙に浮いていた両手が床に落ちる。何も掴まぬ掌が天井を向いた。
「君は、幸せになるんだ」
はしゃいで背中から圧し掛かるくせに、こういうときは決して縋ろうとしない両手。ならばこちらも勝手にするとばかりに頭ごと抱え込む。
「俺はお前を一人には出来ない。俺には、出来ないよ…………こればかりはどうしようもない。俺に残されるのはお前を想うことだけだ。俺は残りの人生全てでお前を想う」
床に落ちた両手が激しく暴れ始めた。
「馬鹿! 死人に人生捧げてどうするんだ! いいか、今の私はイレギュラーだ、いないと思え! 腐り始めた廃棄物なんだよ! そんな物に君の一生を、ばか、ばかだろ、絶対」
震える身体をより深く抱え込んで逃がさない。アクアは絶対に引く気は無かった。
「俺とお前の関係を、お前だけで決められると思うな。お前は相変わらず傲慢だ。俺はお前と切れるつもりはない。お前の為に生かしてくれないのなら、俺は勝手にお前を想う。どの部類に分別するかは知らないが、ユズリハ、お前が好きだ。これ以上の感情を、俺は他の誰にも向けられない」
友情だろうが親愛だろうが恋情だろうが、どれでもいい。ベクトルが向かう先はどれも彼女だ。恋より幼く、愛より優しい。名はなくとも譲れず、失えない。
「お前は? 俺が嫌いか?」
暴れ回っていた額が力を失って肩に落ちた。
「それは、ずるいよね」
「ずるいのはお前だろう。死を理由にはぐらかすくせに」
「それ以上の理由がある!? ないよね!?」
「ほら、はぐらかす。自分が劣勢で都合が悪いとはぐらかす。お前の悪い癖だ」
長いため息が洩れた。温かい呼気は生きている人間そのものなのに。肉体はここで息をして、精神は間違えようもなく彼女なのに。
「……私は君に幸せになってほしいんだ。私の気持ちなんて二の次だ」
「お前が捨てるなら俺が拾う。俺はお前の気持ちを優先する」
「だったら、オリビア可愛いよ!」
「却下だ」
「優先しないの!?」
釈然としません。ユズリハはぶつぶつ文句を言った。これじゃオリビアから見た私は悪女じゃないかと唸っている顔を両手で上げる。アクアは脱力した。額を合わせて呆れる。
「なんて顔してるんだ」
腹を空かせた子どものような、癇癪起こした老人のような、苦痛を堪えた青年のような、恋する少女のような、泣き顔。
「ユズリハ、お前の気持ちは? お前はどうしたい? 俺はお前の気持ちを聞きたい」
額を付けて話す距離はひどく近い。どちらの呼吸か分からないほどに。
「私は、死んでるんだ」
「酷く、つらい」
「この先が私にはない。私は君と歩けない」
「……無念でならないよ」
おそるおそる背中に手が回る。ぎゅっと服を掴んで、ユズリハは泣いた。
「君が、好きだ」
一言零れたら、後は止まらなかった。
「ずっと、ずっと好きだった。君が私を男と思ってる時から、ずっと。でも仕方ないじゃないか! 私は死んだんだ! 死んでから想いが通じてみろ! こんなもの悲劇ですらない! 狂劇だよ! 死者に愛を告白されて可哀相だよ、君は!」
次から次へと零れ落ちる涙にアクアはずっと救われてきた。だけど、こんな悲しい涙は知らない。
好きと言ってくれた。アクア自身も『彼』に向ける感情はその一言に尽きる。相手が『彼女』ならどうなるのだろう。結論は代わらない。極自然に好きだった。気づけなかった間も愛してくれた。ずっと変わらず思っていてくれた。過去に戻れない以上、アクアが返せるのは未来でしかない。
「ユズリハ、俺にお前を想う権利をくれないか。幼馴染だけでなく、親友だけでなく、一生の理由をくれないか」
重ねた身体は互いの鼓動が交じり合う。生きている証だ。少なくとも今この場所で二人は生きている。間に合ったのだと気づけてよかった。
この関係に終わりが来るとは思わなかった。理不尽な死で母弟と別れているのに、どうしてもユズリハの消失が思い描けなかった。大事で、大切で、大好きで。どの感情も振り切れていて失ったら自分が壊れてしまう気がしていたのだろう。本能が喪失の事実から目を背けていた。
「ユズリハ、好きだ。お前が大切で堪らない。誰より大切な友で、あの頃の俺には誰より愛した兄弟で、誰より好きな人間だ。一人で何役もこなしたお前だ。お前一人失えば、俺はどれだけのものを無くすのかは分かってる。けれど、それを承知で頼みたい。お前を想う許可をくれ、ユズリハ」
「無理、無理だよ、アクア。私は君が好きで、大切だ。だから、駄目だ」
「俺達は間に合った。至上の幸運だと思う。頼む、ユズリハ、俺からお前を奪わないでくれ。それ以上の悲しみを、俺は知らない」
困った時、手放しに彼を頼った。迷惑を顧みず全身で助けてと叫んだ。彼の元に行けば何とかなると思っていた。甘ったれで傲慢で我儘な自分をいつだって甘やかし、面倒を見て、引っ叩いた。
何て酷い人だろう。とっくに知っていた事を思い知って、ユズリハは声を上げて泣いた。
「私は悪魔じゃないか! 君から幸福を奪い取り、死者に縛り付ける悪魔だ! そうなれって、どうして君が言うんだよ!」
ユズリハにとって優しいだけの選択。紛い物の身体が壊れる瞬間まで心を繋いでいてくれるという。その先の約束をくれるというのだ。
一人は嫌だ。一人は怖い。一人は寂しい。
君がいい。君じゃなきゃ嫌だ。君といたい。
君が恋しい。君が愛おしい。
弱虫で甘ったれの自分に、優しいだけの約束を強要する。己の望みだと罪まで被って、ユズリハに背負わせてもくれない。
そんなつもりで帰ってきたのではない。己の贖いの為だけに偽りの余命を使い切るつもりだった。
彼がいる。それだけで救われた。ワンピースはただのお守り。彼に見てもらいたいなと思うだけで良かった。会えるなんて思わなかった。泣いてくれるなんて思わなかった。泣かせたかったわけではないのに、嬉しかった。
たくさんの人間を巻き込んだミスト家の発明は、最早誰かの不幸にしかなれない。そんな罪の中、どうしてこんなに幸せで許されるのだろう。どうして、彼は許してくれるのだろう。
「お前の時間を俺にくれないか。お前の最後を共に過ごす権利を与えてくれ、ユズリハ」
「私は、君に、幸せになってほしい」
それしか答えられない。嬉しすぎて死んでしまいそうだ。この感情だけで満たされる。
アクアはどこまでも優しく微笑んだ。
「なるよ。幸福への努力を怠らない。けれどそれは、お前を捨てていく事とは違うだろう? 俺達は、俺達になるまでに互いの存在が不可欠だったと自負してるつもりだ。約束する。幸せになるよ。お前のいない未来でも、必ず、なるから。だからユズリハ、お前の一生を俺にくれ」
返事は出来ない。
「ユズリハ」
大好きな彼が近くなる。拒絶など、どうしてできよう。
ユズリハには、目を閉じることしか出来なかった。