17星
隊長二人は一旦スザクに帰還した。ブループラネットが攻めてくる。情報を抱えるだけでは何も出来ない。去り際ヒノエは苦笑した。
「簡単にハックと言ってくれますが、政庁のマザーに気軽に侵入しないでください。形無しじゃないですか」
六年前に取り入れた強固なシステムだ。未だ一度の侵入も許さない鉄壁のシステムなのだ。ヒノエ自身も採用時の検閲で試験的に攻めてみたが全く歯が立たなかった。著名なハッカー達が軒並み諦めていった。名こそフィナンシェと美味しそうだが、軍も使用しているシステムだ。どんなサイバー攻撃にも太刀打ちできた実績がある。
ユズリハは、ああ、と頷いた。
「だってあれ、私が作ったシステムですもん」
スクールの宿題で作ったのだ。先生が知り合いの大学教授に見せ、使っていいかと聞かれたからいいよと答えたらああなった。
「フィナンシェが食べたかったんです。マドレーヌにしようか悩んだんですけど、どちらかというとそっちの気分だったんです」
「ああ……だから懐かしかったのか」
言葉も無い人々の中で、アクアはぽつりと問題発言を落とした。
レオハルトはぎょっと振り向く。
「あんた、まさかハックしてねぇよな!?」
「少年法は廃止すべきだよな」
「未成年時かよ! 捕まったのか!?」
「捕まるくらいならやらない。前から思っていたが、お前真面目だよな」
鼻にかかるほどの優等生だと信じていたアクアの新たな一面に、レオハルトはもうついていけない。ホムラは頭を抱え、ヒノエは口笛を吹き、ルカリアは手を叩いて喜び、エミリアに頭を叩かれた。
「でも、あれは頂けない。私、ロキなんて名乗った覚え無いのに、どうして定着してるのさ。私はブラウニーとかタルトとか、焼き菓子系がいい」
「ああ…………だからあんなにトリッキーだったのか」
今度こそ卒倒したのはレオハルトだけではなかった。ロキを鍛えたのはレポート攻防戦で罠を張ってウイルスを仕掛けたアクアだったことを、本人も今知ったのである。
部屋の中でキーボードを叩く音が二人分重なる。後輩三人は眠らせた。ぎゃあぎゃあと騒ぎ、最終的にはエミリアの拳骨で眠りについた。
洩れる光を考慮して窓のない部屋に移動した。背中に凭れ鼻歌のユズリハは、何が楽しいのか足をぱたつかせる。軽い振動がアクアを揺する。
温かいのに。
アクアは唇を噛み締めた。温かくて柔らかくて、どうやって男と信じてきたのか自分でも不思議なほど女の子だったのに。弾む鼻歌、踊る指、背中越しの体温。全てが『彼女』の生を伝えているのに。どうして。
「ヒトゲノムの解析。数値化。よく出来たな。興味なんてなかったろうに」
「うん。私も思った。父さん達の資料のおかげだけど、人間やれば出来るもんだね。今は人工星に接近しすぎないよう、一定の距離内には移動できないシステムを組んでる。……完成させてないんだ。あいつらに見つかったら盗られちゃうから。今度は何に使われるか分かんないし。私はどんなシステム渡されても玩具に活用できる自信があるけど、あいつらは全部武器にしちゃうから」
「お前の才能は認めるが、人工毛が頭の上で踊り続ける機能は必要なかっただろう」
「あれってなんの宿題だっけ? ナノマシン使うの楽しかったけど、絶対先生の私欲で選定された宿題だったよね」
他愛のない会話は互いが逃げているだけだと分かっている。アクアにはどうしても踏み込めない。背の温もりが崩れ落ちてしまう恐怖が消えない。青白い光の中でひらひらと掌が動く。そこにすら隠し切れない死斑が現れていて、もう逃げられないと分かった。
「…………ユズリハ」
「ん――?」
喉が張り付く。
「お前、どうして死んだ」
ぴたりと動きが止まる。
ややあって、聞いてくれるんだと、体重が圧し掛かってきた。
「研究しろって連れてかれて、しないと酷い目にあった。私以外にもそうやって捕らえられた人がいた。彼らは主に十二人工星の人達だったけど。大量生産の兵士の彼はね、非常にコピーしやすい珍しいタイプだった。ブループラネットはほとんど人間が生きていない。十二人工星はそれに気づいていない。どちらにしてもシステムを奪われている状態で反乱なんてできない。幾度かあった反乱は、空調異常を起こされて鎮圧された。私はずっと研究室の中だった。ずっとソファーの上で寝泊り。殴られたり蹴られたりしたよ。殺さなければ何してもいいと思ってたんだね。けど、そんな事じゃ私は死なない。私にはルカリアに対する責任がある。彼が幸せに生きているなら生の存続を、怨んでいれば復讐を。私は自分が生き延びる為に奴らに力を与え、第五人工星を危機に陥れた。私は罪深いよ」
アクアの背にぐっと体重がかかる。
「責を取るんだ。私は第五人工星の為に出来ることをしにきた。あいつらが大量に作った私のコピーの中に精神だけ滑り込ませて、一人で人工星に来たんだ。全ての完成品はここ、私の頭の中だけ。手っ取り早く情報を取り出すなら脳からが便利。抵抗も無いしね。いきなり私でやって失敗したら困るから、模造品を大量生産。けどコピーはコピー。後天的に獲得した物は脳に刻まれていないのかもしれない。その辺りはまだ確定できるほど研究してない。模造品は適当に再利用されてたな。精神はここ、身体は贖いにあげたんだ」
「あげた?」
「私の研究対象に当て嵌まってしまった青年、あの頃は少年かな? 三つ年上のギルバート・サイモン。彼の妹に刺された。避けようと思えば避けれたけど、これは私の贖いだ。あの子から自由と兄を奪った。あの子は兄が抵抗しない為の質で、頭が良かったから私の助手にされてた。憎む対象が手の届く範囲にいる。あれは必然だった。馬鹿なマザーは人間の感情の有無まで計算できなかったけどね」
死ねと少女は叫んだ。幼い顔を憎悪に歪ませ、口汚くユズリハを罵った。
兄を返せ、優しい兄を返せ、許さない許さない許さない!
少女、ミナは血走った眼でナイフを構え突進した。ユズリハは両手を広げてそれを受けた。痛みは感じず、ただ熱かった。
ごめんねと一度抱きしめ、彼女を突き飛ばした。鬱陶しい奴らが来る前にやるべきことがあった。がたがたと震えるミナに笑顔を返し、カプセルの中に収まる。パソコンを接続してシステムを起動した。元から食事を受け付けなくなっていた身体は麻痺して痛みは少なかった。血で滑るキーボードを叩きつける。準備は既に整っていた。元よりこの身体ごと連れていけるなんて思っていない。ここで朽ちて問題ない。そして彼女の憎悪は正当な物で。
だから、そんなに泣かなくていいよ。
途切れる意識の端で取り押さえられるミナの姿を見つけたけれど、カプセルの中を溜まっていく血液で物理的に視界が遮られる。
ことりと、自分の心臓が止まる音を聞いた。
小さく呆気ない、生の音だった。
目覚めたのは作られたばかりの粗雑なコピー。すでに死亡しているコピーから服を奪った。服を着ていたということは、あれは比較的長く生きたのだろう。自分と同じ顔をした死体がごろごろ転がっていた。ハッキングしておいたシステムはユズリハをスムーズに通してくれる。本体ならこうは行かなかっただろう。コピーには意思がない。逃げるなんて思われもしなかったからほとんど苦労しなかった。
シャトルを奪い、僅かな間に空間移動装置を完成させる。設置はされていたが完成させていなかった部分の仕上げをしたのだ。ロボットを麻痺させ、システムを混乱させている間に最後を仕上げた。動き出したシャトルの中で目を閉じる。すべきことを反芻する。
その中に輝く、したかったこと。
幼い彼の姿を思い出して、ユズリハは数年ぶりに微笑んだ。
「……本当に、会うつもりはなかったんだ。君に会いたかった。でも、会ってしまえば幸福を感じてしまう。何より会えるとは思っていなかった。なのに、会えてしまったね。あの時私は、存在も確認されていない神に感謝した。ねえ、アクア、私にはすべき事が沢山あるんだ。あんな研究を生み出した私の責、それにより傷ついた人への贖い、データの破棄、これから齎す人災の排除。しなくちゃいけない事は沢山ある。けど、したい事は一つだけだった。そのたった一つが叶ってしまった。……ふふ、苦しんで死ねと言われたけど、どうしようね、アクア。幸せで堪らない。君と会えた。会えないと思っていた君と、こうして語り合える。背を預けられる」
これを幸福と呼ばずなんとする。
「あの地獄で死ねない理由は多々あれど、生きたい理由は一つだけだったんだ」
ユズリハは、そう言って幸せそうに笑った。