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見えざる地球温暖化

作者: 密室天使

 テレビをつけるたびに"地球温暖化"に関するニュースが報じられていることに気づく。

 生態系の壊滅。干ばつや酷暑などの異常気象。また、地球温暖化が進行すれば、ツバルやモルディブなどの海抜の低い国は沈没してしまうというのだ。

 ……言っておくが、これは必ずしも自分たちに関係のない出来事ではない。日本でもツバルより海抜の低い土地はあるし、地球温暖化が悪化すれば日本列島そのものも沈没してしまうのだから。

 人間の営為が生み出した所産。

 早く手を打たなければ、僕たちの街は水浸しになってしまうだろう。そういう伝説が古典ギリシアにある。神の怒りに触れた国。海底に沈む都。それはアトランティス……。

 そうなる前に――神の裁きを受ける前に――手を打たなければならない。

 その覚悟を問われている。



 *




 野球部の前原まえはら君がのどのあたりを押さえて苦しみだしたのは、ちょうど西の空に太陽が沈み始めたころだった。

 体を変に揺り動かすものだから、手に持っていたバッドがグラウンドに落ち、かぶっていた野球帽が風に乗ってどこかに行ってしまう。

 前原君はパクパクと口を動かしている。まるで金魚のようだ。えさを求める金魚。体を小刻みに痙攣させている。顔色は青白い。

「な、なんだ?」

 漫然と夕空を眺めていた僕は、つんのめるように窓の(へり)から身を乗り出した。二階の廊下の窓からグラウンドを見下ろしている姿勢。

 グラウンドでは、のどを鷲掴みするようにして押さえている前原君がいる。

 どうやら声を出そうと試みているようだが、前原君は声を発せないでいる。気管に異物が詰まったように苦しみもがいている。そしてなぜか、"つま先立ち"をしている。

「なんだ、前原のやつ?」友達の三田(みた)君は困惑したような表情をしている。「さっきまで元気よく素振りしてたってのによぉ。……心臓発作か?」 

 心臓発作ならば、心臓部に手を置くのが普通ではないのか? と思ったが、前原君はのどを押さえている。

 しかしながら、なにか尋常でないことが起こっているのは確かだ。

 "発作"に襲われているのは何も前原君だけではない。

 グラウンドにいる生徒全員が、まるで示し合わせたかのようにのどを押さえ、苦しみ始めた。十人以上はいる。ほとんどが部活動生だ。一様に棒立ちになり、顔を上げて唇をパクパクと動かすさまは滑稽というか、異様だった。

 そして。

 前原君は地面にうつぶせになった。倒れたのだ。受身はとっていない。まるで炎天下で意識を失ったスポーツプレイヤーのようだ。

「おいおい……前原のヤロウ、痙攣しながら倒れやがったぜ。前原だけじゃねぇ。陸上部やバスケ部の奴らも次々と倒れている……」

 三田君の言うとおり、パタパタと倒れている。その声には不気味に彩られた不安が内包されていた。

 僕と三田君は状況が全く飲み込めず、ただその光景を見つめることしかできない。

 打ち上げられた魚。

 僕の脳裏にしきりに死んだ目をした魚のイメージが浮かび上がっている。

 必死に息を吸おうとしている。何よりもまず、"呼吸"を優先させているって感じだ。首を押さえている。パニック状態に陥っているみたいだ。血中の酸素濃度が低下すると、無意識に呼吸しようとしてパニックを起こすと聞くが……。その状態と酷似しているように感じられた。

 斜陽に照らされた世界。

 倒れる部活動生。

 三田君はハッとなって廊下を走り出した。倒れだした生徒たちを目撃して言葉を失うみなを尻目に、自分がすべきことは何かを自覚して、行動に移している。「んなこと言ってねぇで連中を助けねぇと! おまえは保険室の先生を呼べ! いいか、とにかく保険室の先生を呼ぶんだぞ!」

 そこからが輪にかけて奇妙だった。

 階段を降りようとした三田君はなぜか、「(つめ)たっ」という言葉を口にした。階段に差し入れた足を慌てて引っ込ぬく。その様子はプールにつま先だけ入れて、予想外の冷たさに足を引っ込める仕草に似ていた。

 僕はなんだか胸騒ぎがして、三田君のもとに駆け寄った。

 保健室に連絡を入れるのも重要なことだが、それ以上に何か、名状しがたい変事が起こっている……。

 僕が近づいたのに気づいたのか、三田君はわなわなと唇を震わせて僕を見た。腰が抜けたらしく、廊下で尻餅をついている。

「おいっ、なんだこれ……。なんだこれ! 冷たい! 冷たいぞ。階段から下が……冷たいっ」

「冷たい?」僕は三田君の言葉をそのまま返した。

「とにかく、おまえも触ってみろ。変な感触がするんだ。まるで"水"みたいに」

 僕は階段のほうを凝視する。

 いつもと変わらない階段だ。異状はない。当然水らしきものも見えない。頭の中でしきりにビックリマークが出たり消えたりしている。

 とにかく触ってみろと三田君が目交ぜをよこすので、仕方なく階段のほうに手を伸ばしてみた。

 チャポン。

 僕の耳がおかしな音を拾う。

 一瞬、何もない空間から波紋が広がったかのような錯覚を覚えた。水面に石を落として、磁力線のように広がっていく模様。

 手を沈ませていく。廊下に四つん這いになって、腕を伸ばす。そうしていくうちに指のつま先から手のひら、そして上腕に至るまでが、ひんやりとしてきた。

 冷たい。

 慌てて手を引っこ抜いた。

 濡れてはいない。

 しかし、この感触は……。

 僕は三田君と目を合わせた。

「見えない水……」

 三田君は恐る恐る言った。

「階段から下……つまり一階やグラウンドが目に見えない水で浸水してるんだ」




 *




「ということは……グラウンドにいた前原君たちは例の"見えない水"によって溺死させられたみたいだ。のどを押さえる動作も、顔の血色がよくなかったのも、酸素が全然足りなかったからだよ。助けを呼べなかったのも、水が喉頭や声帯に侵入したからだと思う。それに、地上から二階までは約6メートル強だ。一階のほぼ全部が浸水してるとしたら、グラウンドは今水の中。水中では声は届かない……」

 二階の廊下で僕たちはうずくまっている。

 放課後まで教室で居残っていたり、だらだらとしていたメンバーである。

 幸か不幸か、ニ階にいたことで水死を免れた。地上から約六メートル。この六メートルが生命線だ。六メートルの高さがあったから死なずに済んだ。

 僕の脳裏にふと、昨日見たニュースが思い出された。

 それは"地球温暖化"に関するニュースだった。ニュースキャスターは淡々とした口調で海水面上昇について報じていた。ヒマラヤ山脈の氷や南極の氷が融解すると、陸地に大量の水があふれ出すという……。

 "地球温暖化"は現在も進行している。

 そういうことなのか?

「ってことはよ、あいつらは……前原たちは……陸の上にいたってのに溺死しちまったってことかよ! んなバカなことがあるか」三田君はしきりに信じられないと連呼している。

 しかしよくよく考えてみればそうだ。

 校舎ではいつの間にか人の気配がもやのようにかき消えている。車の排気ガスの音や、人々の話し声もだ。雲散霧消。消失している。窓の外を眺めてみれば、人の姿はない。

 というか、全員倒れている。

 水死体。

「せ、先生たちはどうかなぁ? こういう時は先生たちを呼ぶべきでしょ? 先生たちを呼べば……」

 たまたま二階に居合わせた女子生徒がそんなことを言った。

 しかし残念ながら、職員室は一階にある。

 おそらく全滅している。この水に抗う術はない。先ほどの前原君の様子から推測するに、この水はなんの前触れもなく訪れたのだろう。濡れることも水しぶきもなく、ただそこにあるだけ。触ることはできるが、見ることはできない。実際に皮膚で感じない限り、水の存在を認識するのは困難を極めるだろう。

 とはいったものの、やはり水は水だ。人間は水中で呼吸することはできない。

 みな恐慌に陥っている。理不尽な出来事に対し怒りや不安や焦りがないまぜになっているようだ。それが澱のように溜まり、人の心にパニックを生じさせるのだ。

 そして、だ。

 この世に救いはない。

「なんかさぁ、足元冷たくない?」

 誰が言ったのかは判然としないが、くるぶしのあたりに凍てるような冷たさを感じ取ることができた。まるで浅瀬に足をつけているかのようだ。 僕の体は知らず知らずのうちに恐怖に打ち震えている。

 突然ある可能性がポップコーンのように弾けとんだ。

「目に見えないから何とも言えないけど……。おかしいな。水位が……上がってきているのか?」

 僕の言葉と同時に、魂を絞り取るような悲鳴が廊下に響き渡った。

「みんな気をつけろ! 水量が明らかに増してきている! 増水! 見えない水がついに二階にまで侵入してきたぞ!」

 みなが何もできずオロオロしている中、三田君ただ一人が階段のほうに鋭い一瞥を向けた。決然とした表情。その視線はしなやかな意志を備えている。

 僕には三田君の意図が瞬時に分かった。

 三田君とアイコンタクトをしたあと、僕たちは息せき切って階段へと向かった。

 いきなり走り出した僕たちを見て、みなが眉をひそめる。

 三田君が走りながら言った。「屋上に行くんだよ、バカ。何固まってんだ」

 その言葉が合図だというように、みな全速力で走り出した。

 水位は膝のあたりにまで迫っている。みるみるうちに上昇しているんだ。

 いずれ胸や肩のあたりにまで浸水するだろう。ひょっとしたら、あっという間に頭のてっぺんまでつかってしまうかもしれない。

 目視できないので皮膚の感覚でつかむしかない。この水がどこまで上がってくるのか……。

 屋上へと続く鉄扉を無理やりこじ開け、僕たちはコンクリートの海へと降り立った。鉄の柵と給水タンク。殺風景な光景が眼前に広がっている。しかし視線を下界に転じてみれば、いたるところで人が倒れているのがわかった。血が出ていないことが幸いか。でも、顔や体は水を吸って大きくむくれている。

 僕はすがるような気持ちで携帯電話でワンセグにつないだ。テレビだ。不可視の水――"地球温暖化"がどの程度まで進んでいるのか調べる必要がある。

 願わくば局所的なものであってくれと心の中で願いながら、僕はワンセグ画面に見入った。

「――現在アメリカやヨーロッパ各地、そして我が国を含む各国では謎の不審死が相次いでおります。その原因も理由も不明で、ある一定の地域を網羅するように発生している模様です。イギリスでは国民の八十パーセント以上が死亡するという異例の事態のため、非常事態宣言を発令している模様。またアメリカの被害は特に甚大で、政府は機能しておらず駐日大使の連絡にも一切応じていない様子です。一部ではアメリカ全国民が死滅したのではないかとの見解もあり、日本政府は全世界が壊滅的な打撃を受けていると発表しております」

 僕は。

 僕は、そっと携帯電話を閉じた。

 



 *




 少年が水槽の前に立っている。水がなみなみとつがれた水槽だ。ちょうど魚を飼うためのそれに似ている。

 水槽の中には"球"が入っている。プカプカと水面をビーチボールのように漂っている。

 球体の表面には、列状に連なる島々が描かれており、加えて"JAPAN"と記されてもいる。

 水槽の横には台座がある。神が創りし聖なる台座だ。

 しかし重要なものが欠けている。

 暫時(ざんじ)球に見入っていた少年は、不意に両手で球を取り出した。見るからに飽きてしまったかのような表情をしている。愛着も失せたのか、その辺の床にポイッと捨て置いた。

 その様子をたまたま目撃していた女が、慌てて少年の腕をつかんだ。顔には怒気が混じっており、少年の顔を無理やり自分のほうへと向けさせた。

「こら。勝手にお父さんのものいじっちゃダメでしょう? おまえをお父さんのお仕事の邪魔をするような子に育てた覚えはありません」

 その声は静かではあったが、有無を言わせぬ迫力があった。

 少年の顔が急に引き締まっていく。

 女は不意に穏やかな表情をした。

「さぁ、お片付けの時間よ。それを元の公転軌道に戻しなさい」

 少年はこくんとうなずき、そっと抱えた球を聖なる台座に固定した――。


 

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[一言] 初めまして。齋藤と申します。 まず、この作品は、目に見えない水という設定でした。ただ、水であるなら浮力がつくはずなのですが、それがありませんね。つまり、ダークマターのような位置づけでしょう…
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