ウサギ見てクマを放つ
世の理不尽に翻弄されるのは社会人の常であるとはいえ、金にならない忙しさは心身に堪えるものだ。
今年で三十二になる彼――くまもと熊本たけし武は、下げたくもない頭を低く低くしながらそう思った。
彼は業者向け建材問屋に勤めて数年になる。
今日も、彼の会社がシステムキッチンを卸した工務店が施工業者とトラブルを起こしたという連絡が入り、現場へと火消しにはせ参じた次第だ。
半ドンのはずだった土曜就業は、今日も間延びした忙しさに見舞われそうである。
一通り挨拶の終わった武は、社用車へ戻る前にコーヒーで一服でもしようと自動販売機に立ち寄った。
はたして間の悪いことに、誰かがドリンクを選んでいる最中である。最寄りのコンビニを探すのも億劫だった武は、先客である女性のすぐ後ろに並んだ。
何とはなしに、その後姿を眺める。
ふわふわとたっぷりした黒髪が首筋でかき分けられ、目に眩しいほどのまっ白いうなじが初夏の陽射しに晒されていた。
襟ぐりの大きくあいた生成りのワンピースからは、素朴ながらも誠に精緻なオフホワイトレースが覗いている。
ぽってりしたパフスリーブからのびる柔らかそうな二の腕も、ひらひらフレアシルエットからちょっぴり見えるふくらはぎも、匂い立つようなすべらかさであった。
なんとも美味そうな背中である。
横にも縦にも大柄な武は、目の前のごくごく小柄な女性を上から覗き込む形となったわけだが、魅惑的な曲線を描くなだらかな双丘もその谷間もばっちり視界に入れていた。
つんと上をむいた、実にふくよかで形よいバストである。
自販機の取り出し口に屈んだ彼女が、その小さな手には少し大きすぎる財布をかかえて立ち上がる。
振り向きざま、ベビーパウダーの香りが武の鼻をかすめた。
「まあ、お先です」
――しろウサギ!
律儀にも会釈してよこした彼女を正面から見た瞬間、武は雷でうたれたような衝撃を覚えた。まっちろの、ウサギが、ここにいる!
武の目には、彼女の小さい頭からひょこっと生えるふこふこの耳が見えるようであった。
ちょっぴり首をすくめてこちらをうかがい、くりくりお目目をしばたかせる仕草は、まるで臆病なウサギである。
全体的な色白・小柄さもあいまってか、武のような無骨者でさえ「ポッケに入れて大事大事したい」という庇護欲に抗いがたかった。
白皙でちんまりと小柄、さらにはとっても愛敬のある容姿に、だめ押しで巨乳ときたもんだ。
アノミー状態となった武のオツムを代弁するとしたら、この点に集約するといっていい。
好みとかそういった次元を吟味するまえに、彼は目の前の女性をむんずと抱きかかえて家に連れて帰りたくなった。
なんだ、このかわいい生き物は!
彼女はすでにその場を後にしていたが、武は彼女の胸元にあったネームプレートについてぼんやり思案していた。
小さい文字でよく見えなかったが、確か『どんぐり手芸』と書いてあったように思われたのだ。
このあたりに手芸店などあったろうか、と武は公団住宅の立ち並ぶ周囲を見渡した。
そこで、道路を挟んで向かい側に、先ほどの彼女がぽてぽて歩いているのを目ざとく見つける。
彼女は、まるで流行りのカフェのような店構えに入っていった。
白塗りされたドアの隣にはお決まりの黒板が出されているわけだが、そこにようやく『どんぐり手芸』の文字。
ガラス越しにも洒落た照明やら椅子やらが目を引くあの店は、まさか手芸店だという。
彼の田舎にある、値引かれた毛糸や布地を所狭しと並べるだけの埃っぽい店屋とは随分毛色が違っていた。
武はがっかりした。モロ体育会系な職業の俺と、手芸屋の店員じゃあ、どう逆立ちしたってご縁もクソもない――。
「うん?」
足元でひらひらしているものを何気なく拾ってみると、リネンのハンカチだった。
そう、どんぐりの刺繍が入った、リネンのハンカチだった。
「うお、うおお?」
とりあえず良い予感しかしない。ぜったい、うん、これはまさしくそう、えっと、ぎょうこう?
僥倖かどうかは置いておいて、ロマンティックなふち編みのハンカチから漂うベビーパウダーの香りは、武にそういう《、、、、》予感を味わわせるのに十分だった。
**
後日、意を決して彼はどんぐり手芸を訪れていた。
いかにも瀟洒な北欧風インテリアがゆったり据置かれ、色とりどりの手芸品がかわいらしい棚やバスケットに陳列されている。
春物ストールやベストの作品サンプルは、男の武でさえも思わず「こんなものが作れたら服や何やらを買う必要がなくなるなあ」と感嘆するほどの出来栄えであった。若い女性でにぎわう繁盛ぶりも、なるほど道理である。
さて。
偶然掴みかけた件の女性との縁、ほぼ在って無いようなその縁を、武は放し難く感じていた。
もしこのハンカチが本当に彼女の落し物だったなら、もちろん彼女の手元に返してあげて。
どうもわざわざスミマセンいえいえ、みたいな雰囲気になって。いいお店ですねありがとうございます、みたいな雑談をかましつつ。手芸とかにご興味がおありなんですかまあチョット嗜む程度に、みたいな嘘八百を交えるかも。それから―――それから?
武は、考えるのをやめた。
もともと色事に関して野暮ったいところのある武は、そういう算段をつける器量がないのである。
知り合って食事をしてねんごろになって云々のプロセスを楽しめる男ではないのだ。
質朴、訥弁といえば聞こえは良いが、有体に言うと口下手が過ぎるのである。
武は、考えるのをやめる悦びに浸った。
今はただ、この不安と期待を楽しめばいい。
だって、そういう《、、、、》ことはまだなあんにも始っていないのだから。
あの日拾ったハンカチを何度も手に取っては、尻のあたりから鳩尾を通って胸に去来する寒慄を武は愉しんだ。
人はその震えを「恋のときめき」やら「胸きゅん」やらと呼ぶわけで。
もちろん武も弁えてはいるが、今はそこで足踏みをする自分勝手さを満喫したいのであった。
「お?」
毛糸コーナーの一角にある展示スペースの前で武は足を止めた。
そこには、犬や猫をはじめとする様々な動物の編みぐるみが並べられていたが、中でも武の目を奪ったのは――やはり、白兎の編みぐるみであった。
ええ、何だこれ、かわいい。かわ、かわ、かわいい!
特に、サーモンピンクのお鼻とぷりぷりの尻尾に視線が釘付けである。
しかし、これは売り物なのだろうか。値札が見当たらない。
ああ、こういうときにこそ店員が話しかけてくれたらいいのに――。
「その兎さん、とっても触り心地がいいんですよ。よかったらお手にとってごらんください」
ホンモノ!
武のウサギさんは前触れもなく現れた。彼女だった。
胸元のプレートにはあの日と変わらず「どんぐり手芸」のロゴと、下にちいさく名前が書いてある。丸文字で、宇佐野まみこ。
「ええ」
気の利いた返事のひとつでも、と編みぐるみを眺めるが、もやもやとした衝動が喉元につっかえるだけであった。
くったりしたお耳やぷにぷにお口がどうして可愛いのかを説明する語彙が、はたしてこの朴念仁にあるはずもない。
彼の手は、鞄の中で例のものを手探りするという逃げを打っていた。
「これ。こないだそこで拾ったんですけれど。あなたが落とされたように見えたのですが」
しまった。武は思った。
もっと会話を楽しんでから本題に入るべきだったと早くも後悔の嵐である。
これでは、あっさりと用件が終わってしまう。
「うそ、ほんとに!これ私のハンカチです。まさか見つかると思っていませんでした」
わざわざ届けてくださるなんて、何とお礼を申し上げて良いか。宇佐野は元々やわこい顔立ちを猶もふにゃふにゃほころばせた。
小さい身体をちまっと縮めてぺこぺこ頭を下げる度に、あの何とも言えず良い香りがする。
むぎゅううう、と武の腕にあった編みぐるみがふた回りほど小さくなった。
だめだだめだ、この笑顔はだめだ。こう、む、胸が苦しい。苦しい?ちがうちがう、そう、くるしきもちい。
もともと考えることの得意でない武の筋肉質な脳みそは、より一層血の巡りを悪くしていた。
そこからの記憶は定かではない。
彼女のお礼に適当な相槌をうってからは当然間が持たず、おおむね社交辞令の範疇を出ない応酬で打ち止めとなったのである。
脇に編みぐるみをしっかり抱えたまま店を出そうになった武は、いまだ彼女の留まる編みぐるみコーナーに戻る気概もなくて、結局白兎をお買い上げしたのであった。
またおこしくださいませー。
ところで。
自分のことでいっぱいいっぱいだった武は知る由もないけれど、やはり女性客ばかりの手芸店において彼の姿は相当浮いていた。
無論彼が男性だからというのも一つ理由ではあるが、そもそも彼はどこに居たって人目を引く風貌をしているのである。
百九十センチメートルはあろうかという長身に、岩をノミでこそぎ落としたような荒削りの強面はそれだけで迫力満点である。
職場では責任ある立場ということもあって、短く刈られた髪もパリッとしたスーツも意識された清潔感に溢れてはいるのだが、丸太のような手足とずんぐり逞しい首筋、胸板から腹筋にかけての固太りした厚みは、如何ともしがたい威圧感をふりまいていた。
スポーツジムに居たって注目される男が、手芸店にいて目立たないわけがないのである。
そして、この手芸店で働く宇佐野まみこも多分に漏れず、彼が入店したときから大きな背中をそれとなく目で追っていた。
常連の奥様方や此処どんぐり手芸の店長は「あんな殿方が手芸をなさるなんて意外よねえ」などと含み笑いで冷やかしていたが、宇佐野はというと、まるっきり悪意のない好奇心で地に足つかぬ興奮を覚えていた。
あんな立派な体躯の男の人、どんな手芸に興味があるのかしら。
模様編みの付け襟?花柄のブックカバー?クロッシェレースのモチーフ?麻ひものかばん?それともやっぱり、あみぐるみかしら?
身の丈二メートルのヒグマが大きい背中をしょもっと丸め、鋭い爪でこちょこちょ靴下を編んでいる。
夜なべに疲れ、そろそろ寝ようかと向かったベッドには、これまたむくむくの編みぐるみや縫いぐるみが所狭しとぎゅむぎゅむ並んでいて。
ヒグマはそれらを潰さないように、ちんまりとベッドに横たわってお気に入りのもふもふを抱っこして眠る――。
「店員さーん、八号の棒針ってあります?」
はっ!いけない、見ず知らずの男の方に、ヒグマ、だなんて。失礼だわ。
宇佐野は我に返って接客しながらも、時折ヒグマの手仕事を妄想してはむふふと楽しんだ。
今日一番の自信作だった白兎に、いち早く目を付けた彼。あのヒグマみたいに大柄な人が、もこもこ白兎をむぎゅっと膝に抱いて編みぐるみを作る姿を想像したら、なんだか胸のあたりがぽかぽかして居ても立っても居られない宇佐野なのであった。
**
職場のデスクにずらっと並んだ毛糸の兎たちを眺め、どうしてこうなったと武は甘いため息を吐いた。
あれからも武はきっちり週に一度、どんぐり手芸に足を運んでは白兎を購入している。
手ぶらで店を出るわけにいかないといっても、彼が購入出来そうな商品といえばそういった雑貨くらいしか無い。
その中でも武が毎回あの白兎を選んでしまうのは、やはり彼女にそっくりなぷくぷくほっぺに「連れてかえって?」と言われているような気がしてしまうからだ。
さて、何度も通っているうちに、頭に血が上りやすい武がちょっぴり冷静になったのかといえば、いやいや全くそうではなかった。
むしろ来店を重ねるにつれて、少しずつ心を許した表情を見せてくれる宇佐野にはますます入れあげてしまっている。
客商売ゆえと頭では理解しているものの、たまらないものがある。
はじめは草の陰からこちらを窺うようにしていたしろウサギが、今では膝の上にぴょーんと乗り上げて鼻をすぴすぴさせながら「いらっしゃいませ」と言ってくれるのだ。
もちろん、妄想だけれど。
毎週兎の編みぐるみを買いにくるゴツい男を宇佐野だって訝しく思っているだろうに、不躾な質問などしてこない。
ただ、武が兎の編みぐるみを手に取ると、まん丸お目目をぱちぱち、嬉しそうに口をむにゃーっとさせるだけである。
彼女のことをもっと知りたいと思って、武は『はじめてのニット』なる入門書を注文してみた。これでは、彼氏の趣味に合わせてゴルフや競馬を始める女の子とまるで変わらない。
「あれ、熊本さん。そのぬいぐるみどうしたんっすか?」
編みぐるみだ、と思いつつ。「きいてくれるな」という顔を一生懸命してみたけれど、入社したての後輩には通じない。
実際誰に通じたこともないのだが、横着な武はなかなかだんまりの癖が治らないのだった。
「もしかして、彼女さんへのプレゼントっすか?」
これまた「違うぞ」という顔をしてみたわけだが、一人で納得した後輩はすでに給湯室へと消えていた。
せっかく口があるんですもの、少しはお話しになったら?武は、兎たちの視線にそう責められている様な気がして座りが悪い。
男は、ここ一番ってときに話すため口がついてんのよ。
武はまたしも、「そう思わないか?」と顔で語りかけていたのであった。
**
宇佐野は今日も、店番の暇を見て販売用の作品づくりに勤しんでいた。
ときに、宇佐野は近頃妙に浮き足立っている。
週に一度ほど顔を出すようになった例の客のことが、気になって気になって仕方ないのだ。
それもまあ、無理からぬ話である。
六年間一貫教育の高等女学校を卒業し、そのまま女子短期大学で現在を過ごしている彼女にとって、異性との接触は一大事と言っても過言ではないのだ。
これといった努力をしない限り男性とお付き合いする機会は降って湧くものでなく、積極的とは程遠い宇佐野はしたがって娘盛りを半ば棒に振っていた。
そんな生活を送る中で出会ったあの男性は、あまりにも強烈にオトコを意識させる存在であった。
浅黒い肌、きりっと太い眉、低い声、そして宇佐野が両手を回しきれないほどの分厚い身体。
あんまりじっと見ては失礼に当たると後ろめたく思いながらも、宇佐野は彼のむせかえるような雄々しさに「ふおおおおお」と圧倒されるばかりである。
店長は彼が来るたびに、またヒグマがやってきたわ、などと嫌がっている。
この間など「宇佐野さん、あなたどうして彼にああも睨み付けられているの?」と同情されてしまったが、宇佐野はその件に対して首肯しがたいものを感じていた。
ヒグマさんは睨んでいるのではなくて、会釈というかはにかんでいるだけだと思うのだけれど、という具合なわけで。
眉間に皺を寄せ三白眼をギラギラさせている彼の形相がはにかみに見えるのだから、魚心あれば水心ありとはまさしくこのことである。
その彼が兎の編みぐるみを手に取ると、まるで本物の熊が兎を捕まえたみたいでどうにも和む。
というのも、食べるためというよりは、可愛くて思わず寝床へ連れて帰る、といった佇まいなのである。
そんなわけで宇佐野はこのところ、兎の編みぐるみを作る際には「ヒグマさんのところにお嫁にいくのよ、可愛がってもらってね」という妙な親心と不思議な羨望を覚えている。
はりゃ、あたしったら、ヒグマさんのお嫁さんになりたいのかしら?
そこまで考えて、彼女の頬はぼっと赤くなった。
だめだめ、もう、私ったらなんてはしたないのかしら。
彼はお客様で、お付き合いしているわけでもないのに――。
武の妄想の中で自分がどんな破廉恥な恰好をさせられているのか、知らぬが仏である。
白兎に着せるウェディングドレスを縫いながら、宇佐野は胸の奥の一番やわらかいところがむずむずと息苦しくなるのを甘受していた。
同じ頃、武は抜き差しならぬ状況にあった。
休出の帰り、いつものようにどんぐり手芸へ立ち寄ろうとしたところ、近くの工務店へ営業まわりしていた後輩にばったり出くわしてしまったのである。
しかも、半分店へ足を踏み入れた状態で。
「なんだあ熊本さん。ここで彼女さんへのプレゼント収集してたんすね」
断じて違う、と思い切り白を切った顔をしてみるわけだが、案の定伝わらない。
「俺ものぞいてみよっかな。うちのも、こういうの好きかもしれないし」
じゃあ今度女を連れて他の手芸店へ行けよ、と武は収まりの悪さを感じていた。
昼飯を奢るとでも言ってここを退散すればよかった、と入店してから思いつくあたりが彼の彼たる所以である。
ぐるりと店内を見渡したところで、レジ横のテーブルで縫い針を持つ宇佐野と目が合った。
ほにゃ。今日も、武の不器用な笑み(のつもりの形相)に応えてくれる彼女。
ああ、何て可憐なんだ。
「いらっしゃいま・・・」
「あ、これっすね?熊本さんが彼女さんにプレゼントしてるやつ」
ぶおん。武は勢いよく後輩を振り返った。
なんだとコイツ、よりにもよってこんなところで適当なことを言いやがって。彼女に聞こえていたらどう責任を――。
「・・・あ、やっぱり恋人の方へのプレゼントにして頂いていたんですね?」
「そうみたいですよ。彼女の部屋を兎小屋にする勢いっす」
「編みぐるみの兎さん、ご贔屓にして頂いているんです」
「ちがう、彼女なんかじゃありませんよ」
彼にしては、めずらしく声に出して否定した。
「またまたあ」
「照れちゃって」
彼女なんかじゃありません、あの兎、あなたに似ていたから思わず手に取っちゃったんです。というか、そもそもこの店に来る口実に過ぎません。
さてどれから言い訳しようかと考えているうちに、果たせるかな機を逃す。
というより、言葉にならなかった。
俺と彼女は、何か言い訳をするという段階にも達していないわけで、その局面へ行き着く前にふんわり積み上げた「きゅん」は吐息とともに霧散していった。
あとには、ガラスの破片を飲み込んだような差し込みが残るばかりである。
恋人の方へ編みぐるみ、素敵です。そう話す彼女を前にして、武は胸の中で徐々に育っていったそういう《、、、、》何かがへなへなと萎んでゆくのを感じた。
あえかな火花が臓腑をちりちり燻らせる中、炎が大きくなる直前の高ぶりは、最も口当たりの好い勢いを失ったことで尻すぼみになる。
結局、気づけば武はなにも購入せずにどんぐり手芸を後にしていた。
「熊本さん、昼メシどっかで食っていきません?」
「ひとりでいけ」
男二人連れを見送った宇佐野は、ひどく興を削がれたような心地であった。
あのヒグマさん、恋人、居るんだって。
そういう《、、、、》何かがはじまりそうな予感は、出鼻を挫かれてしまったのだ。
もうちょっと、あとほんのちょっと手を伸ばして彼の指に触れれば、沖融たる気味合を噛みしめられそうだったのに。
この踊り場よりもはるかにあったかくて、ふこふこで、とろみがあって、力強い何か。
恋に恋する一歩向こう側は、宇佐野が思っているよりもずっとすぐ足元にあったのだ。
大事に大事にお嫁へやった白兎たちが彼のねぐらではなく彼の恋人のお部屋に並べられるのかと思うと、矢も盾もたまらない。
だってあの子たちは、ヒグマさんのお膝でむぎゅっと抱きしめられるはずだったのに。
「まみちゃん?この商品、配達行ってきてちょうだい」
ぼんやりと店長から小包を受け取る。
どんぐり手芸は配達も承っているのだが、経費節減のためにあて先が近所だと店員が足で届けている。
店番は一人で十分なので、大抵は宇佐野がその配達人の役割を負っていた。
「はあい・・・行ってきます」
「今日はそのまんま上がっていいからね」
なんだかとっても、白けた気分。つまんない。つまんない、つまんない!
「なんて言っていても、仕方ないよね」
これではよくないわ。お客さんに失礼な、とってもぶちゃいくな顔をしてしまいそうだもの。とりあえず気持ちを切り替えて配達に行きましょう。
あて先は、えっと―――熊本武さん。
**
届け先の住所は、トタン屋根のバルコニーが今にも腐り落ちそうな風情の小さなアパートメントであった。
どこどこの社宅であるという赤錆びの浮いた看板を横目に、宇佐野はインターフォンを押す。
「はい」
「すみません、お世話になっておりますどんぐり手芸から商品をお届けに参ったのですが」
ばきっどたたたた。
インターフォンの受話器が壁にぶち当たる衝撃に続いて、家主のけたたましい足音。
わざわざそんなに急いで下さらなくても結構なのに、律義なお客様だなあ。
宇佐野はそう思いながら、右手で気休め程度に前髪を整えた。すぐさま、重たそうな玄関扉が開く。
「あっ…」
「……どうも」
先ほどまで宇佐野のちいちゃな頭を占めていたまさにその人が、きまり悪そうに頭を下げた。
その拍子に、玄関先の棚が目に入る。
靴棚の上に並べられているのは、見間違えようもない、宇佐野の手で編まれた白兎たちだった。
「その、印鑑をこちらにお願い致します」
「……お世話様です」
シャチハタでぽむと認印を押した彼は、受領書を握りしめたままのっそり動きを止めた。
おや?と思った宇佐野がバックカーボン紙をちょいちょいと引っ張っても、彼はそれをぎゅっとしたままピクリともしない。
「お客様?」
「熊本です」
「えっと、熊本様?」
宇佐野がその名前を口にした瞬間、武はくわっと面を上げた。
何やら思いつめた表情で、意思の強そうな眉が今はしゅんと下がっている。具合でも悪いのだろうか?
「あの!」
「ひゃい!」
「話があるんですけど…ちょっと中、寄っていってもらえませんか?」
「はい」
「え?」
「へ?」
何をどう転がすかという腹づもりをつける前に、武は意を決して彼女を引きとめた。
この機を逃してなるものか。物ぐさなヒグマは気付いていないけれど、彼は彼女のしっぽを追いかけてもうずっと前からその重い腰をあげていたのである。
そういう《、、、、》ほとぼりは、それと心づく前から武の身を焦がしていた。
しかし、二つ返事で彼女が部屋にあがるのを了解するとは武も予想だにしていなかった。
今も、きょとん、と武を見つめる宇佐野を信じられない心持ちで眺めている。
どこの世に、赤の他人である男の部屋へ無防備にあがりこむ女がいるだろうか?
武の想像をはるか超えてお人よしの彼女は、己の放り投げた爆弾にこれっぽっちも気付くことはなかった。
話があると言われたならば、ああ話があるのだなあと思う。
それ以上のことも以下のことも、起こるなんてことは全く想定していないのである。
加えて武のただならぬ雰囲気、宇佐野はぼんやりと「何かお手伝いでも頼まれるのかな?」と彼の体調を慮ったり、てんで的外れな心配をしていた。
そういうわけで、L字ソファに腰掛けた二人はまんじりともせずコーヒーを飲んでいる。
宇佐野は、頼みごとならいつでも切り出して下さったら良いのにあれでも何か雰囲気ちがくない?と。
そして武はもちろん、弁解の機をうかがっていた。
もう少しスマートなやり方があったような気もするのだが、今からだって遅くないはずである。ほら、昔の人も言っているではないか。うさぎ見て犬を放つ、と。
――実は手芸店の近所で見かけたときからあなたのことがずっと気にかかり、野暮ったくも店に通いつめたりしていたわけなんですが、会うたび会うたびもうあなたにどうやっても触れてみたくて仕方なく、かわりに兎をしこたま買い込んでしまう始末、つきましては俺の恋人なんていう存在は全くの事実無根でありまして、とどのつまり
「彼女なんていないんだ」
やはりどう立ち回っても手際の悪い武は様々に口上を考えた挙句、しかし最後の結びだけがぽろっと口から零れ落ちてしまったのだった。
いやはや、これはまずい。
宇佐野の方へ体ごと向き直り、武は続ける。
「その、あなたに誤解されたままでいるのは我慢ならないんだ。玄関の兎だって、本だって…!」
勢い余って語気の強まる武は、まるで獲物を前にしてがるるるると低く唸るヒグマそのものであるように宇佐野には思われた。
これは何というか、私の自惚れでなければ、ひょっとしてそういう《、、、、》雰囲気なんじゃあ――?
あれ、あれあれあれ、と宇佐野は泡を食う。
この期に及んで彼に「実は腕を怪我してしまって、かわりにそこの電球替えてもらえませんかね?」などとは決して言われぬであろうことを肌で感じていた。
己の勘違いではなかろうかという恥じらいと、すぐそこに一歩向こう側が控えているかもしれない期待が入り乱れて、宇佐野の視界を狭くする。
気を落ち着けるように何度も何度も武が深呼吸する。
そうすると徐々に部屋の空気が薄くなっていくような気がして、宇佐野は頭がくらくらした。
待って、待って、あとちょっとだけ。
本当は一時も待っていられないくせに、宇佐野はそう叫び出したくなった。待って、でも、はやくして。
「つまりその・・・す・・・」
ええい、ままよ!と心で掛け声をしたところで、肝心の言葉がなかなかどうして出てこない。
あとちょっと、もうちょっと、と意気込むうちに、武はどんどん宇佐野のほうへにじり寄っていた。
気づけば、もう膝が触れ合うほどの距離である。
「宇佐野さんのことが、その・・・」
武にとっては気の毒な話ではあるが、もうこの段階において宇佐野は彼の話など半分も聞いていなかった。
つん、と膝が触れ合った瞬間、何ともいえぬ痺れが体中を駆け巡り、甘やかな吐息がふう、ふう、ふうと漏れる。
だめ、もう、やっぱりはやくしないで、待っていて、あとちょっと!
腕を胸の前できゅっと組み、宇佐野は武の顔を仰ぎ見た。
男の顔には紛れもなく、食べてしまいたい、と書いてあった。
少なくとも宇佐野にはそう見えたのであった。
「だから、す・・・」
気づけば、武は彼女をソファの一番端まで追い詰めてしまっていた。
そりゃあ、大男にじりじりと膝行られて逃げぬ女性など居ないだろう。
彼女はまるで、ケージの隅っこでぷるぷると震えるウサギだった。
怖いこないで触らないで、と。
ぶわっと皮毛を膨らませ、耳をぺったり伏せながら、一生懸命こちらを警戒しているウサギさんである。
たまらない、武は思った。
食べてしまいたい。
ふ、ふ、ふえ、と泣き出す直前の子どものような彼女の表情は、嗜虐欲と庇護欲を同時にもみもみ刺激した。
ちょっぴり下がった目尻が赤らみ、涙のベールでまんまるお目目がきらめくその顔を見たとたん、もう武は考えることを投げ出し、両手を伸ばしていた。
――あみあみあみあみ、むちゅううう。はむはむ。
口付けというよりはむしろ、その大きな口にまぐまぐ食べられているような心地であった。
たべ、た、食べられてる!と宇佐野はまさに混乱のさなかである。
腰を引けば、それ以上の力で引き寄せられた。
丸太ん棒の腕にしっかり腰と後頭部を抱きこまれてしまった彼女は、体のどこに力を入れようとも彼の胸から逃げ出すことはできない。
ましてマタタビを嗅がされた子猫のようにふにゃんふにゃんの今、よりいっそう彼の固めは決まっている。
後ろ頭を揉みしだくようにしてうごめく彼の手のひらが、豊かな髪と共に彼女の心まで指に絡め取っているようであった。
この逃げられない感じ、なんだかすごくいい気持ちかも――体がふにゃふにゃして、もう、どうにでもしてほしくなる?
「ん…」
佐野のむにっとした口元を見たとたん武の理性は焼き切れ、血の巡りを悪くした脳みそは痺れのきている足腰に思考の先行を許しつつあった。
わずかな抵抗を示して、てしてし、と彼の腕をひっかくお手手が可
愛くてたまらない。
形の良い頭を撫でさすればむずがり、その上、ブラジャーの固い布地の感触が胸元にむにゅううと沈んで、もう、もう――。
武は、もやもやとした熱がぐっと腹に溜まるのを感じていた。
胸にすっぽり収まる、どこもかしこもふにふにの、いとしいこの娘。
こんな状況下でも俺の足を踏まぬよう足をぺったり畳んだこの娘が、可愛くて可愛くて、どうしてか胸がはりさけそうだ。
武は、自分勝手にふんがふんがと彼女のお口を貪りながら、目じりに昂奮の涙を浮かべた。
「ん…」
ようやく彼女の唇が解放されたとき、部屋の空気は一変していた。
口腔でしつこく吸い弄られた舌が、じんじんと熱をもってたまらない。
宇佐野は思った。ああ、これが恋なのかしら。こう、叫びだしたくなるような、むずがゆい、もじもじしてしまう感じ。
――なんて心地よくて、えっちなんだろう。
「宇佐野さん、その…」
いまだ昂りの尾に引かれて心をたゆたわす武は、ふとキャビネットの上でこちらを見つめる白兎と視線を交わした。
せっかく口があるんですもの、少しはお話しになったら?そんな悪戯する前に!
男は、ここ一番というときに話すためついている口をゆっくりと開いた。
おわり