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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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シャーロック・ホームズ  少女とヴァイオリン

作者: ぶっくどあ
掲載日:2026/05/30

       シャーロック・ホームズ     少女とヴァイオリン


 午後の箱根は、霧と雨が混じり合い、山々の輪郭を曖昧にしていた。ホームズはパイプを燻らせながら、窓外の白い霧を見ていた。

 しかし、彼の機嫌は悪くなさそうだった。それもそのはずで、週末に芦ノ湖畔の小さなホールで催される、ヴァイオリンとチェロの二重奏コンサートを楽しみにしているからだ。

 ワトソンはその向かいで、紅茶を片手に呟く。

「この国の霧は、ロンドンのものとは違うな」

「ロンドンの霧は煤煙を孕む。こちらは山が吐く息だ」

 ホームズは静かに答え、それから友人の手元に視線を落とした。

「それにしてもワトソン、君の頑なさは霧の濃さ以上だ。この地に飛ばされて二週間、まだその赤い湯に固執しているのかい?」

「仕方ないだろう。ここの家主が置いていった『センチャ』という緑色の茶は、どうにも苦くていけない。私にはまだ、東洋の洗礼は早すぎるようだ」

「おやおや。弾丸を摘出する大胆な軍医殿が、お茶の渋み一杯に怯えるとはね。慣れればあれも悪くないものだよ」

 ホームズは悪戯っぽく微笑むと、手元の湯呑みを小さく掲げてみせた。そこからは、ほのかな茶葉の香りが立ち上っていた。


「おや、外に誰かいるな」

 ホームズそう呟いた直後、戸が叩かれた。

 応対した浜崎愛理が、少し不安げな顔で戻ってくる。

「……女の子です。一人で」


───


 少女は十七歳ほどだった。

 制服ではなく、地味な灰色の上着。黒髪は肩口で切り揃えられている。細い体躯。だが、目だけが妙に澄み、そして冷えていた。

 少女はややおどおどしていたが、目は真剣だった。興味本位で訪ねてきたようには見えなかった。 


 この場所は公にされてはいなかったから、ワトソンは訝ったが、そんなことを気にするホームズではなかった。

 そして、ここがベーカー街であったなら、ホームズはこうした訪問に露骨な不機嫌を示したかもしれない。だが、霧を纏う山中まで、一人で訪ねてきた日本の少女には、彼の興味を引く切迫があった。


 彼女は畳に座ると、ホームズを真っ直ぐ見た。

「あなたがシャーロック・ホームズさん?」

「相談があって伺いました」

 片言ではあったが、意志の疎通は可能だった。

 ホームズは少女に目をやり、

 そして、ぽつりと言った。

「君は徒歩で来た」

 少女の眉がわずかに動いた。

「……どうして?」

「靴底だ。濡れているが泥跳ねが浅い。車道の飛沫ではない。山道を歩いた跡だ。加えて呼吸がわずかに乱れている」

 少女は黙る。

 ホームズは続けた。

「さらに、想い人がいる」

 今度はワトソンが眉を上げた。

「ホームズ、それは?」

「左手薬指に、ごく薄い金属摩擦の跡。指輪ではない。細い鎖状のもの――ペアリングを首から下げていた習慣の痕跡だ。だが今はない。外したばかりだ」

 少女の指が小さく動いた。

「そして、弦楽器奏者だ」

 ホームズの視線が、彼女の右手へ落ちる。

「左指先の角質。押弦の跡。右手親指と人差し指に樹脂――松脂。弓を扱う者だ。ヴァイオリン、あるいはヴィオラ」

 少女は、ふっと笑った。

「……本当に見抜くのね」


「さて、私を訪ねてきた理由を伺いましょう。必要なら、そこにいる浜崎に通訳を頼むといい。彼女の沈黙は保証できます」

 少女は軽く頷き、浜崎を見た。浜崎も小さく会釈を返す。その目は、すべてをホームズに委ねていいと語っていた。

 少女はしばらく黙っていた。

 雨音だけが古民家を打った。

 やがて彼女は言った。


「私は、彼を殺します」


 浜崎の肩が、ぴくりと震えた。その瞳に宿るものを見て、ホームズは一瞬だけ浜崎へ視線を向ける。

 彼女は、顔色を失っていた。

 同じだった。

 かつて、自分が引き返せなかったあの日と。

 紅茶を啜っていたワトソンが、戸惑ったようにカップをソーサーに戻した。

「……それは、何故だい?」

 ワトソンの穏やかな、しかし当惑の混じった問いかけに、少女は答えなかった。ただやがて、ぽつり、ぽつりと、記憶の糸を解くように語り始めた。


「彼と私は、近所の音楽館のレンタルルームで、いつも二人きりで練習していたの」

「一歩中に入れば、重い防音扉が、外の世界の雑音を完全に遮断してくれる場所。譜面台を二人で覗き込むと、肩や髪が触れ合うほど狭いその空間で、私たちは「世界には自分たちしかいない」という錯覚に囚われていたの」

「ヴァイオリンを左肩に構え、並んで弓を引くとき、運指とボウイングが完全にシンクロした瞬間の高揚感は、言葉以上の官能だった」

『少し、ペグが固いかな』

「私が楽器の調律に苦戦していると、彼はいつも、後ろから包み込むように私の手に己の手を重ねてくれた」

「彼の手の温もりが伝わり、固かったペグがゆっくりと回る。$A$(ラ)の音が重なり、一つの響きに溶けていくあの時間は、私たちにとって至上の愛の儀式だったの。彼は私の$A$の音を聴くだけで、『今日は少し、気持ちが焦ってる?』と、私の心の揺らぎを完璧に見抜いてみせたのよ」


 少女は一呼吸おいた。


「私の誕生日に彼が、『これ、使ってみて』と、少し上質なEの弦をプレゼントしてくれたことがあったの」

「銀色に光る細い弦が、彼の器用な指先でピンと張られていく様子を、私は息を呑んで見つめていました。そのとき彼が、何気なく言ったの」

『弦ってさ、張り詰めていないと良い音が出ないだろ? でも、張り詰めすぎると切れちゃうんだ。絶妙なバランスで成り立っているんだよ』

「私たちは、E線が泣くように響く曲ばかり好んで弾いていました」

「それなのに・・・」

「高校を卒業した彼は、あっさりと『東京に出て就職する』と言ったのよ」


少女の口調が鋭くなった。


『もうヴァイオリンは、ここで終わりにするよ』

「彼は少し寂しそうに、けれど、どこか晴れやかな顔で笑ったの」

「彼にとって、あの防音室での濃密な時間は、ただの『青春の通過点』に過ぎなかった」

「でも、私にとっては違った。あれは、私のすべてだった」

「彼の手によって限界までピンと張り詰められた私の心は、彼のその一言で、音を立てて千切れてしまったの」


「……だから、私は彼を殺します」

 

 少女は語り終え、毅然と前を見つめた。その瞳には、一点の曇りもない狂気と、哀切が宿っている。

 ホームズの声が低くなる。

「どこだ?」

少女は微笑した。

「相談じゃないの」

 その言葉に、ホームズの瞳が細くなる。

「告解か」

「……記録してほしかったのかも。あなたなら分かると思って」

 彼女は立ち上がった。

「さようなら」


───


 戸が閉まる。

 ホームズが即座に立ち上がった。

「ワトソン!」

 だが次の瞬間、浜崎が低く呟いた。

「……止まりません」

 ホームズが振り向く。

「あの目は……もう戻れない目でした」

 その一瞬。

 ほんの一秒。

 だが、その遅れが致命傷だった。


───


 ホームズは縁側へ飛び出した。

 霧の坂を少女が駆け下りる。

 徒歩――ではない。

 坂下の藪に隠していた自転車を引き出し、一気に下る。

「用意していたのか……?!」

 ホームズの目が鋭く光る。

 同時に、少女のポケットが白く光った。

 スマートフォン。

 彼女は片手で操作しながら走る。

「通信……!」

 ワトソンが叫ぶ。

「何をしている?」

「呼び出しだ!」

 ホームズは歯を食いしばる。

「どこだ?どこで殺す?」

「レンタルルームだ。どこにある?」

「浜崎君、君のスマートフォンを貸してくれ!」

 ホームズは彼女の手から奪うように受け取った。

 ホームズの細長い指がスマホをフリックする速さは最早、現代人のそれだった。

「ここだ。ここしかない」

「箱根セントラル音楽館だ。急がねば!」


───


 だが現代は、彼の時代ではなかった。

 それに、ここは箱根。

 坂道。霧。交通。

 少女は自転車で駅へ。

 そこで待機していたタクシーへ飛び乗った。

 彼はスマホで呼び出され、「最後に弾いてほしい」と告げられ、レンタルルームへ向かう。


 ホームズたちは遅れた。

 浜崎の運転する車が霧を裂いて走る。

 だが信号。対向車。踏切。

 そして、渋滞がホームズ達を阻む。

「……また、間に合わないのかもしれない」

 浜崎の呟きに、ホームズは答えなかった。


 距離は、無慈悲だった。


───


 着いた時、部屋にはヴァイオリンが倒れていた。

 弦が一本、切れている。

 床に寄り添うように、二人。

 彼の喉には、細い弦が深く食い込んでいた。

Eの弦だった。

 少女は、その隣に横たわっていた。

 胸元に、弓。

 抜かれた弓毛が、白い糸のように散っていた。

 彼女は自ら頸を裂いていた。

 最後の力で、少年の手を握ったまま。


───


 雨が窓を打つ。

 ホームズは、長く沈黙していた。

 やがて床に落ちたヴァイオリンを拾い上げる。

 濡れた木肌を撫で、低く呟いた。

「ワトソン。君も知っての通り、E線は本来、繊細なソナタの最高音を奏で、聴く者の魂を天上へ導くためのものだ」

 ホームズは一呼吸置いて、続けた。

「この少女は、それを誰よりも知っていたはずなのに……なぜ」

 ワトソンは言葉を失っていた。

 浜崎は、ただ俯いていた。

 ホームズは霧の窓の向こうを見た。

 人は、変わらない。

 彼は、深く息を吐いた。

「我々が生きていた時代から百三十年以上も経っているのに――」

 静かな声だった。

「人類はなお、愛と憎悪が生むこの悲劇から解放されていないのか……」

 窓の外では箱根の霧が、何事もなかったように山を覆っていた。












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