第8話:黒猫の名は、静寂を守る
結界の外で騎士たちがざわついている。鎧の擦れる音、魔力を探る気配。……本当に静かにできないのかしら。
(あいつが怯えてるじゃない。仕方ないわね)
私は窓から音もなく外へ踊り出た。
空中。重力に逆らうように滞空しながら、私は猫の皮を脱ぎ捨てる。
漆黒のドレスが夜に溶け、長い銀髪が魔力の余波でふわりと広がった。着地した瞬間、私の足元から影が爆発的に広がり、周囲の草木を「沈黙」させた。
「な、何者だ……! 魔族か!?」
「バルトス隊長……魔力酔いで……立って……られ……」
松明の光が揺れる。かろうじて姿勢を保ち騎士たちの先頭に立つ男――バルトスが、剣を引き抜きながら私を見据えた。だが、その剣先は小さく波打つように震えている。
当然ね。今の私は、ルミナが用意した「救世主」のスペックを全開にしている。存在しているだけで大気を震わせるほどのプレッシャー。
「名を名乗れ! この不気味な館を守る守護者か!」
(名、ね……。正直に答えてあげるわ)
私は冷たい月明かりを背負い、静かに唇を動かした。
「……たま」
その瞬間。バルトスの顔から血の気が失せた。
背後の騎士たちが、まるで物理的な衝撃を受けたかのようにのけぞる。
「……タ……ター、メイン……?」
(……は? 今、“たま”って言ったわよね?)
「黒き救世主……『ターメイン』。古の予言にある、災厄を喰らう死神の化身……!」
騎士たちが次々と剣を落とし、その場に膝をついた。
(……ああ、そういえばルミナも私を“ターメイン”と呼んでいたわね。この世界の発音だと、そう聞こえるのかしら)
私は一瞬だけ考え――すぐに結論を出した。
(まあ、都合がいいなら利用してあげる)
私は一歩、彼らへ踏み出した。
地面が凍りつき、闇の衣が周囲の音を吸い込む。
「……そう。あなたたちがそう呼ぶなら、それでいいわ」
私の声は、夜の風に乗って彼らの脳内に直接響く。
「ここより先は、私の領域。館に住まうのは、私が仕えるべき貴き主……この世界の理を超越した御方。あなたたちが無闇に触れていい存在ではないわ」
バルトスが地面に額をこすりつけ、震える声で問う。
「き、救世主様が仕える御方……!? では、あの方は……?」
「想像に任せるわ。ただ、覚えておきなさい。あの方は『静寂』を好まれる。あなたたちの野蛮な音、無礼な気配……すべてがあの方の不快に繋がる。もし次に寝所を騒がせたら、この領地ごと闇に沈めてあげる」
嘘ではない。今の私なら、そのくらいのことは容易にできてしまうだろう。
バルトスは恐怖と法悦の入り混じった表情で、激しく頷いた。
「ははっ……! も、もちろんです! 二度とこのような無礼はいたしません! ターメイン様、我々は……我々はどうすれば……!」
「訪れるなら礼節をもって。二、三人まで。剣は抜き、頭を垂れて来なさい。……そして、ここの主には私の正体を明かさないこと。あの方は、ご自身が『普通の人』として過ごされることを望んでいるのだから」
(あいつは私が勇者だなんて知ったら、ショックで寝込むでしょうしね)
「承知いたしました! 決して、決して秘密は漏らしません!」
「……いいわね。消えなさい」
私が指先をひと振りすると、闇の衝撃波が騎士たちを森の奥まで押し戻した。
静寂が戻る。
私は溜息をつき、再び猫の姿に戻った。
闇のドレスを脱ぎ捨て、四本の足で慣れ親しんだリビングへと忍び込む。
(……便利な誤解ね。これでしばらくは、あいつのニート生活も守られるでしょう)
ソファの上では、カズヤがまだ間抜けな寝息を立てていた。
私はその腹の上に飛び乗り、わざと重みをかけて起こしてあげる。
「……うわっ。たま、重いって。……外、なんか静かになったな」
「ナァ(掃除しておいたわよ、アホ)」
私は満足げに喉を鳴らし、あいつが差し出してきた指を甘噛みした。
異世界の騎士たちに「ターメイン」と崇められるよりも。
この無防備な男に「たま」と呼ばれて撫でられる方が、よっぽど私の性に合っている。




