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黒猫勇者と怠惰の宰相 〜引きこもりの俺、安眠のためにリモートワークで異世界を改革する〜   作者: 香箱
第2章:怠惰の辺境

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第35話:領主の責任

 領主邸の応接室。窓から差し込む午後の光が、磨き上げられた黒檀のテーブルを冷たく照らしていた。そこに座る四人の代表者たちの表情は、それ以上に硬い。

 主座に座るグスタフは、内心でわずかな焦燥を感じていた。彼はこの地の領主であり、軍事においては絶対的な指揮権を持っている。だが、この辺境の地フェルゼンにおいては、日々の暮らしや商売、職人の掟といった民政の細部は、彼ら代表者たちの自治に依存している部分が大きかった。

(……力で従わせることは容易だ。だが、それでは街は死ぬ。彼らが自らの意志で『未来』を選び取らなければ、ゼクトさんの描いたこの壮大な図面は、ただの燃えやすい羊皮紙に成り下がってしまう)

 グスタフは貴族としての矜持と、一人の運営者としての慎重さの間で揺れていた。命令ではなく、納得を。それがゼクトから学んだ「真の統治」への第一歩だと自分に言い聞かた。


「……さて、領主様。単刀直入に伺いたい」

 商人ギルド長のエドモンが、扇子でテーブルを軽く叩きながら切り出した。

「最近、街の連中が噂している『新都市』というお伽話についてだ。まさか、本気で今のフェルゼンを捨てて、隣の平原に街を造り直すなどと言い出すのではありますまいな?」


 農村代表のホルストも目を閉じて頷いていた。


 否定的な視線が集中する中、グスタフは努めて冷静に、ゼクトが徹夜で仕上げた「フェルゼン新都市構想図」をテーブル一杯に広げた。


「……なんだ、これは」

 真っ先に身を乗り出したのは、職人頭のガラムだった。職人としての本能が、図面の異常な完成度に反応していた。

「建物が並んでいるだけじゃない。道の幅、勾配、建物の配置……すべてに規則性がある。グスタフ様、この住居エリアの広さはどういうことです? 今の五分の一もあれば十分なはずだが」


「『最大キャパシティ』の確保です」

 グスタフは、昨夜ゼクトの眠そうな、しかし確信に満ちた言葉をなぞるように説明を始めた。

「今のフェルゼンは密集しすぎており、一度火が出れば防ぎようがない。汚水と生活動線が混ざり、疫病のリスクも限界です。この図面は住居、商業、工房を明確に分けることで、それらのリスクを根絶するための設計図なのです。

 ですが、それだけではありません。ガラム殿、私はこのフェルゼンを、いずれこの辺境で最も人が集まり、栄える『中心都市』にするつもりです。今は広すぎるように見えるこの区画も、数十年後には家々で埋め尽くされていることでしょう。場当たり的な拡張を繰り返せば、いずれまた今の街と同じ行き詰まりを迎えます。だからこそ、最初から『完成形』を想定して、余白を持たせているのです」


「ふん、理屈はわかった。ですが領主様」

 エドモンが冷ややかに笑う。

「今の店を畳んで、更地に引っ越せと言われて『はいそうですか』と言える商人がどこにいるんです?」


「エドモン殿、誤解しないでいただきたい。これは一方的な立ち退きの要求ではありません」

 グスタフは居住まいを正し、力強い声で続けた。

「新都市に用意される店舗や工房、住居は、すべて領主である私が責任を持って建設し、皆さんに無償で提供します。今よりも広く、頑丈で、最新の設備を整えた場所への『格上げ』です。公共の利益のために現状の土地を譲っていただく以上、皆さんに金銭的な負担を強いるつもりは毛頭ありません。『立ち退き』に対する『保証』です」


「無償での提供、ですと……?」

 驚きに目を見開くエドモンに対し、グスタフはさらに図面の外縁を指差した。


「その上で、この『門』の設計をよくご覧ください。そこには巨大な門と、そこから伸びる異様に広い道が描かれています。現在のフェルゼンの門は狭く、馬車のすれ違いすら困難で、入街審査のたびに大渋滞が起きています。ですが、この新都市では入り口と出口の動線を完全に分離し、主要な幹線道路は馬車が三台並んで走れる幅を確保します。物流の詰まりは経済の死です。この門があれば、貴殿のギルドの馬車は今の三倍の速度で荷を運び込めるようになる」


 その言葉を聞いた瞬間、エドモンの扇子がぴたりと止まった。彼は図面の門の構造を食い入るように見つめ、やがてゆっくりと扇子を閉じてテーブルに置いた。

 彼はそれまで手をつけていなかったコーヒーカップを手に取り、一口啜ると、静かに呟いた。

「……ふむ。苦いが、悪くない。物流の加速は、銀貨の雨となって降ってくるのと同義だ。もしこれが実現すれば、商売の規模は桁が一つ変わるでしょうな」


「さらにホルスト殿」

 グスタフは農村代表へ視線を向ける。

「新都市の市場は、農村からの搬入路と直結させています。今の狭い路地をかき分けて重い荷車を引く必要はありません。商店街の道幅も広く取り、買い物客が常に回遊しやすい構造になっています。農産物が新鮮なうちに、より多くの市民の目に触れる。流通が劇的にスムーズになれば、村の収益も安定するはずです」


 ホルストの硬い表情がわずかに緩んだ。村の若者たちが、ぬかるんだ悪路と狭い市場に、野菜が傷むと愚痴をこぼしていたのを思い出したのだ。


「……ですがグスタフ様。これほどの大規模な移転、立ち退き後の土地はどうなるのです」


 その問いに、グスタフは不敵に微笑んだ。

「これは単なる移住ではありません。『段階的統合』です。まず、隣接する更地に完璧なインフラを備えた新都市を造り、そこへ皆さんを無償で招待します。そして、全員の移転が完了した後に――空になった旧市街を完全に解体し、最新の防火設備と広場を備えたエリアとして再開発します。最終的には新旧二つのエリアを統合し、今の数倍の規模を持つ、この領地最大の巨大都市へと変貌させるのです。皆さんの店は、新都市で実績を積んだ後、より好立地となった再開発エリアへ戻る権利も保障されます」


 代表者たちの間に、形容しがたい衝撃が走った。市民連合代表のマルタが戦慄したように図面の一部を指差す。「この『スイドウキョク』……各家庭へ水を運ぶだけじゃない。地下に別の配管が並んでいるように見えますが、これは?」


「マルタ殿、それは『下水道』です。汚水を地下へ流し、一箇所に集めて処理します。これにより、夏場の路地の悪臭は消え、疫病を媒介する蚊やネズミの発生も劇的に抑えられるでしょう」


 マルタの瞳が大きく見開かれ、震える手で図面をなぞった。医師でもあるマルタが長年頭を悩ませてきた汚染問題を、街の構造そのもので解決しようという発想。


「……素晴らしい。これが実現すれば、救える命は数えきれません」


「その通りです。蛇口をひねれば、清浄な水がいつでも手に入る。……ただし、その管理コストとして『水道代』を徴収することになります」


「水に金を取るだと!?」

 エドモンが再び声を荒らげた。

「水は天の恵みだ。それを領主様が管理し、対価を求められるというのは、庶民が納得するはずがない!」


「奪うのではありません、皆さんが『時間』と『健康』を買うのです!」

 グスタフの声が応接室に響く。

「水汲みに費やしていた時間が浮けば、職人はより多くの品を造り、商人はより遠くまで足を運べる。病が減れば、家族を失う悲しみも、医療の負担も減る。そして――どうしても払いたくないという方のための『公共の水場』も、公園に用意されています。強制ではありません。どちらの生き方を選ぶかは、住民の自由なのです」


 重い沈黙が流れた。強制ではないという一言、そして何より、目の前の図面が「住民が楽をするため」に病的なまでに計算し尽くされているという事実。


「……蛇口をひねる楽を知った者が、わざわざ桶を持って公園まで歩くとは思えんな」

 エドモンが力なく笑い、椅子に深く沈み込んだ。

「そこまでが計算されているようだな。この図面を描いた者には」


「……わかった。この図面通りに造らせてもらえるなら、俺は職人の意地にかけてやってみたい」

 ガラムが力強く宣言し、他の代表者たちも、未来への不安を上回る確かな期待を込めて頷いた。


 代表者たちが退出した後、グスタフは一人、静かになった応接室で深く長い息を吐いた。

 震えていた指先が、今は熱を帯びている。力で従わせるのではなく、言葉と利で彼らと繋がることができた。その安堵感とともに、これから始まる「理想郷」の建設に対する、抑えきれない希望の炎が胸の中で燃えていた。

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