第3話:停滞する聖域のルール
異世界に家ごと放り出されてからの数日間、俺はただ震えて過ごしていた。
窓の外には見たこともない極彩色の鳥が飛び、夜になれば巨大な樹木が青白く発光する。明らかに地球ではない。だが、玄関のドアを開ける勇気なんて、あの日たまを抱き上げた瞬間にどこかへ消えうせていた。
そんな俺が、この家の「異常」に気づいたのは、転移して三日目の朝だった。
「……あれ?」
冷蔵庫を開けて、俺は固まった。
前日の夜、空腹に耐えかねて最後の一袋を開けたはずの「冷凍うどん」が、未開封の状態で冷凍室に鎮座していた。横にある飲み干したはずのコーラも、キャップが閉まった新品の状態で冷えている。
最初は、恐怖で頭が狂ったのかと思った。だが、その翌日も、同じことが起きた。リビングのゴミ箱に捨てたポテチの袋は夜が明けると消え、キッチンにこびりついていた油汚れは、毎日少しずつ薄くなり、ついには入居したてのような輝きを取り戻した。
そして何より、たまだ。あの日、泥と血で汚れていたはずの黒い毛並みは、信じられないスピードで修復され、以前よりも艶やかな漆黒に戻っていた。
「たま……お前、本当に元気になったんだな」
「ナァ(当たり前でしょ)」
たまは、以前と変わらぬ様子でリビングの特等席に居座っていた。
一ヶ月が過ぎる頃、俺はこの家の「ルール」を完全に理解した。
午前0時。日付が変わるその瞬間、この家の中にある全ての「状態」が、転移したあの日――「停滞の起点」へと強制的に巻き戻るのだ。
ふと、疑問が脳裏をよぎる。
この世界に電柱もガス管も水道も通っているはずがない。なのに、スイッチを押せば電気が灯くし、コンロを回せば火が出る。蛇口からは勢いよく水が飛び出す。
(……待てよ。電気とかガスとか、これどこから来てるんだ? 支払いどうなってんだ? 異世界の電力会社から督促状でも来るのか?)
数秒、真剣に考えた。だが、すぐに思考を放棄した。
(まあ、いいか。使えるんだから。0時になればあの日残ってた分の資源が復活するんだろ。理屈は知らんが、タダで使い放題ってことだ。ラッキー)
この「深く考えない力」こそが、俺がこの異常事態に適応できた最大の武器だった。
「ふぅ……。極楽だな」
異世界の夜風が窓を叩く中、俺は湯船に肩まで浸かり、深く溜め息をつく。
バスタブに溢れんばかりにお湯を溜め、入浴剤を贅沢にぶち込む。0時になれば、使ったお湯も、汚れたバスタブも、あの日と同じ「沸かしたての清潔な状態」に戻る。掃除すら必要ない。
俺は風呂の中でスマホを掲げ、保存しておいた動画を観る。
この絶望的な立地にもかかわらず、俺のスマホはあの日観ていた動画の「読み込み中」の画面を維持し続け、少しずつデータを吸い上げていた。0時になれば通信量もリセットされる。パケ死すら恐るるに足りず。
たまは夜になると、数センチだけ開いた窓の隙間から、するりと外へ出ていくようになった。
最初は心配で生きた心地がしなかったが、朝になれば、たまは何事もなかったかのように窓から戻り、俺の足元で喉を鳴らす。
「……まあ、いいか。元々ノラだったんだ。外の世界はこいつにとって必要なんだろう。俺みたいな引きこもりに付き合って、このリビングに閉じ込めておく方が酷ってもんだしな」
「外に出る理由……本当にないな」
一歩外に出れば、そこは弱肉強食の異世界だ。
だがこの家の中にいれば、俺は飢えることも、老いることも、公共料金の督促に怯えることもなく、永遠の安寧を享受できる。
俺が守るべきは、この「変わらない日常」だけだ。
外で魔王が暴れていようが、人類が滅亡の危機だろうが、0時になれば俺のコーラは満タンに戻り、電気は灯る。なら、それが俺にとっての唯一の真実だ。
――そして、この「聖域」に引きこもって半年。
俺たちの平和をぶち壊す、あの騒がしい女神がやってくることになる。




