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黒猫勇者と怠惰の宰相 〜引きこもりの俺、安眠のためにリモートワークで異世界を改革する〜   作者: 香箱
第1章:怠惰の聖域

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第2話:あの日、夜が壊れた。

【たま(黒猫)の記憶】


 雨の匂いと、アスファルトから立ち上る焦げた鉄の匂い。

 視界は赤く、そして急速に暗くなっていく。


 ……あのアホなガキ。あんな勢いで飛び出したら、撥ねられるに決まってるじゃない。

 気がついたら体が動いていた。子供を突き飛ばし、代わりに私の体が宙を舞う。

 鈍い衝撃。骨が砕ける音。

 不思議と痛みはなかった。ただ、急激に体温が奪われていくのだけが分かった。


(……あ、これ、死ぬわね)


 悟った瞬間、真っ先に浮かんだのは、一人の男の情けない顔だった。


 佐藤カズヤ。


 一日中パソコンの前に張り付いて、私がキーボードの上を歩けば「邪魔だよ」と文句を言い、

 私が膝の上で寝れば「重いよ」と言いながら、いつまでも撫で続ける男。


(あいつは私がいないと、世界のどこにも居場所がないのよ)


 私がいなくなったら、あいつはどうするのよ。

 ゴミ出しの曜日も忘れるし、季節が変わっても同じパジャマで過ごすし、

 私がサンダルに爪を立ててやらなきゃ、生きてる実感すら失うくせに。


(帰らなきゃ。……あいつのところに)


 動かない後ろ脚を引きずって、私は夜の闇を這った。

 一歩ごとに、命の灯火がこぼれ落ちていく。

 冷たい雨が、体温を奪っていく。

 それでも、あいつがいつも数センチだけ開けてくれている、あの「窓」の隙間を目指した。


 ようやく、サッシの縁に手が掛かった。

 部屋の中から、聞き慣れた男の声が聞こえる。


「……たま。遅いぞ。何時だと思ってんだ」


(……ただいま。……最後くらい、そんな情けない顔、見せないでよ……)


 私の魂が、身体からふわりと浮いた。

 その瞬間、頭の中に響く声があった。


『尊き自己犠牲の魂よ。お前を救世主として召喚する。世界を救う力を与えよう』


(……いらないわよ、そんなもの。私を、あの家に帰せ)


『だがお前の肉体は既に――』


(帰せ!! あの窓の向こうに、あいつがいるの。あいつを一人にするくらいなら、世界なんてどうなってもいいわッ!!)


 私の執念が、神のシステムを無理やり書き換えた。

 召喚の光が私だけでなく、私が執着した「家」と「飼い主」ごと、時空を抉り取っていく。



【カズヤ(人間)の記憶】


「たまッ!? おい、待て……嘘だろ……!」


 窓から滑り込んできた黒い塊を抱き上げようとした時、俺は理解した。

 たまの黒い毛並みは、泥と血で濡れそぼり、すでに力なく弛緩していた。


 俺の手の上で、たまの重みが「物体」に変わった。

 ふっと、魂の灯が消える瞬間を、俺の指先が覚えていた。


「たま……? たまッ! 目を開けろよ! 病院、今から……!」


 絶望した。

 この猫のいない世界に、明日があるなんて思えなかった。


(頼む……誰でもいい……たまを……返してくれ……)


 その時だ。


 ――バチンッ!!


 部屋中の電化製品がショートしたような激しい音と共に、家が大きく揺れた。

 地震じゃない。リビングごと、巨大な洗濯機に放り込まれたようなデタラメな重力が俺を襲う。

 棚から本が降り注ぎ、台所の茶碗が踊る。

 俺はたまの体を抱きしめたまま、意識を失った。


 ***


「……ん」


 顔を撫でる風が、妙に暖かい。

 俺はリビングの床に転がったまま、ゆっくりと目を開けた。


 そこにあるのは、見慣れた天井だ。

 雨漏りの染みも、一週間放置した電球のホコリもそのままだ。


「……夢、か……」


 最悪の夢だった。たまが死ぬなんて。


 俺は重い体を起こし、開けっ放しにしていた窓の方を見た。


「たま、いるか? 変な夢見てさ――」


 言葉が凍りついた。


 窓の外。そこにあるはずの「隣家のブロック塀」も「錆びた電柱」も消えていた。

 代わりに広がっていたのは、雲を突き抜けるほど巨大な樹木。

 空を優雅に舞う、翼を持った巨大な生き物。

 遠くで、鳥とも獣ともつかない鐘のような鳴き声が響いていた。


「……は?」


 恐る恐る、窓から身を乗り出す。

 俺の家は、浮いていた。

 大樹の根が複雑に絡み合った、天然のテラスのような高台の上に、俺のボロ家がぽつんと鎮座していた。


 足元で、何かが動いた。


「ナァ(遅いわね、いつまで寝てるの)」


 そこには、昨夜の傷一つなく、それどころか毛艶が良くなり、

『たま』が、当たり前のように香箱座りをしていた。


「……生きてる、のか?」


「ナァ(当たり前でしょ)」


 俺は、震える手で窓を閉めた。

 そして、二度、鍵をかけた。


(ダメだ。……これ、外に出たら何かが終わるやつだ)


 たまが生きていた。それだけで、もう十分だった。

 外がジュラシックパークだろうが異世界だろうが、たまさえ生きていれば、この家の中が俺の「世界の全て」だ。


 俺はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。

 中には、昨日飲み残したコーラ。

 電気はつく。水道も、ひねれば水が出た。


「たま、悪い。お前がピンピンしてるとか、窓の外に竜がいるとか、後で考えるから。……今は、うどん作って食うわ。そうしないと、俺の精神が死ぬ」


 これが、俺とたまの異世界生活。

 「一度壊れた夜」を繋ぎ止めるための、あまりに臆病で、あまりに図太い第一歩だった。

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