九話 入れ替え
――生まれて初めて見た光景は快晴の青空に、うごめく海面だった。はるか遠くまで鳥が飛んでいるわけでも陸が見えるわけでもない。波の打ち寄せる物は何もないからとても静かな真っ青な世界だった。
私はふと気付くと、大海原の上空に浮いて一人ぼっちでそこにいた。
どこから、どうやってここに来たとかはわからない。ただ突然に、意識と頭の中で考える力だけがあった。
私はしゃべる相手もいないのに移動し、途中海鳥に目を奪われながらたまたま日本という国にたどり着いた。そこを見て回り、私は人間という存在を知った。そう、人間は多い……。多くて……みんな仲良くやってる。私とは違う……。
私はたまたま目についた人間の家に入りたいと思った。珠水という家名だ。だから私は自分の力を使った。私が人間じゃないという記憶を私にもわからないように封印して。
――そして今、目の前で天蓋司くんが顔を伏せてくつくつと押し殺すように笑ってる。
「やはり人間じゃなかったか。ようやく疑念が晴れた。そして、やはり既存のどの存在とも違う。単独種族だったな」
「……単独種族?」
人間と変わらないサイズをした蝶のような羽の生えた光の玉。そんな姿で浮かぶ美咲が疑念そうな声で聞いた。
「妖怪には単独種族という概念がある。この世に一個しかいない存在。それにとっては親も他民族もいない。人間にとっての他人がおらず、河童にとっての河童がいない。だから珠水の種族は『珠水美咲』という他ない」
「……そんな……それが、私」
「天蓋司であるおれには相手がどんな能力を持っているかわかる。珠水はこの世にあるものの要素というべきか属性というべきかいうものを別物に変えることができるようだな。おれが人間か妖怪か半信半疑になったほど、化けた珠水の肉体は全く人間そのものだ」
「……」
「さて……」と、明晴が呟き、場に静寂が満ちた。空気も、時も止まったみたいに何も動かない。だが、それでもこの場の光景が異様なのは、微妙に発光の強弱を繰り返す表情のない光の玉が浮かんでいることと、その前に立っているのが霊能力者だからだ。そのとき、明晴の目がスッと細くなった。
「ヒッ」と、恐怖の声が上がる。美咲が後ろに下がる。同時に光の玉に細い人間の両足が生えた。
「うわああああ!」
美咲が叫びを上げながら反転しそのままバタバタと走って逃げ出すのを明晴は眺めている。
「……」
あてもなく逃げ出した美咲が息を絶え絶えにしながらついに立ち止まった。目の前にあった木のベンチにうなだれて手をつく。しばらく息を整えて汗を拭きながらかすんだ目で辺りを見回すとそこは見たこともない誰もいない小さな公園だった。さっきまでいた施設はバスに乗って地元から遠くやってきたから、そこからでたらめに走ると、もう自分が今どんな地名の場所にいるのかすらわからない。ふと、いつの間にか自分が人間の体に戻っていることも今更気付いた。美咲はベンチに腰を落とすとがっくりとうつむいた。
「もう、めちゃくちゃです」
重いため息みたいな声だった。
「これから、どうしましょう……。家に帰っても。もし天蓋司くんが来たら……」
呟き、ハッとした顔をして公園の入り口に目を向ける。幻覚を見そうなほどこらした目つきをしてるけどそこには誰かがやってくる様子はない。また顔を落とした美咲は膝にこすりつける両手を強く握りしめ「うぅ……!」とうめいた。
「苦しんでるみてぇだな」
と、いきなりそこに声がかかった。バッと顔を上げると、前に人が立っていた。短めの金髪を逆立てた眉間に力があり目つきの鋭い男だ。夏なのになぜか茶色い毛皮のコートをはおっている。
「もっとも、苦しんでるのは俺も同じだが」
その男は血のあふれる脇腹を手で押さえていた。
「えっ!?」と、美咲は声と目を張った。思わずベンチから立ち上がる。
「だ、大丈夫ですか!? きゅ、救急車呼びますからとりあえず座って!」
「おいおい。よせよせ。病院なんて、無駄だって」
男はグイグイとコートのそでが引かれるのに腕を引いてあらがう。
「無駄ってなに言ってるんですか。大丈夫です。助かりますよ」
男は「ふっ」と鼻で笑った。
「人間が、俺たちみたいなのを助けてくれることなんかねぇよ。お前だってわかってるだろう?」
美咲は男のそでから手を離した。
「このケガを見ろ。人間は俺たちを傷つけるばかりだ」
「……その傷、誰にやられたって言うんですか?」
「霊能力者、さ。もちろん」
美咲は顔に動揺を示した。
「それより、俺はお前に期待してるんだが。お前の持つ物事を自由に書き換える力に」
美咲は男の顔を見張った目で見上げる。ちょっと目を見合わせて、美咲はサッと顔を落として唇を引き結んだ。男は「頼むよ」と言う。美咲が血のあふれる男の脇腹を上目に見る。すると、数秒して不思議なことが起きた。男の脇腹がいつの間にか何事もなかったかのように治っている。汚れたコートもきれいに。
「ハ、ハハ。スゲエ。こりゃとんてもねぇぜ。考えた以上だ」
男は腕を広げて脇腹を見下ろしつつ興奮してるらしかった。
「あなた、なんなんですか? どうして……」
男は聞かれて、ああ、と顔を上げた。
「俺は、妖怪『覚』。どうしてお前の力を知ってるかっていうと、覚は相手の思考、心を透かして読む力を持ってるからさ」
「えっ、心を?」
途端に美咲は胸に両手を重ねて不安そうな表情を浮かべた。覚はそれに「おいおい。嫌がるな」と言って、続ける。
「お前には同族というものが一人もいない。そんなお前のことを理解して寄り添うことができるとしたら、それは心を読める俺だけなんだぜ?」
「……」
「お前のことは生い立ちからさっき天蓋司に言われたことまで全部わかってる。辛かったな」
「……」
「だが安心しろ。俺がお前を助けてやる」
「え……助けて……?」
「俺たちは同じ人外という仲間だ。それに、お前にはケガを治してもらった恩もある。ありがとう、感謝してるぜ」
「……」
「とりあえず、お前の家に帰ろう」
「え……でも、私の家にいると天蓋司くんが来るかもしれません」
「心配するな。そこは俺に考えがある。まったく天蓋司め、自分の家に帰るのにお前が不安にならなきゃいけないなんておかしいぜ。さあ、行くぞ」
美咲は堂々と歩き出した覚の後ろについて家に向かった。
着いて美咲は家族にわからないように覚といっしょに自室に滑り込んだ。入るや覚はドッシとベッドに座る。
「それで、どうするんですか……?」
美咲が立ち尽くしたまま聞くと、覚はニヤリと笑った。
「天蓋司を無力化する」
「天蓋司くんを……?」
「嫌がるな。じゃあこれからやり方を説明する。まず、前提として俺たちは戦っても天蓋司に絶対勝てない。だからこのまま襲われるのを待つのも先手を取ってただ襲うのもまずいわけだ。そこでお前の能力を使う。お前の能力で、天蓋司の肉体とお前のその人間体を交換する。やってみようぜ」
「天蓋司くんと私の体を!? そんなこと! ――」
「とりあえずやれ。それしかない」
「……そんなこと、嫌ですよ。それに私だけじゃなくて……」
すると覚が「お前」と言って目を鋭くした。
「天蓋司が見逃してくれるんじゃないかと思うとは。捨てろ、馬鹿げた期待だ。これまで天蓋司と会った妖怪、幽霊がどうなったかお前も見てきたはずだ」
「はい……」
「天蓋司の一族は神から人間を守る最後の盾を自称してる。つまり、必要なら神とすら平気で戦い始める連中なわけだ。妖怪を祓うなら余計になんのためらいもない」
「……」
「その天蓋司の謎の力の源が体の奥深く根源にあり、血に乗ってめぐると昔から妖怪たちの間ではよく言われている。その体を手に入れるんだ。そうすれば天蓋司は弱体化し、狙われることを恐れなくてよくなる。……なにしろ、体を手に入れて力を手に入れられるかもしれねぇし……」
「で、でも、やっぱりそんなこと……。そんなことをしたらむいが、なんて思うか……」
「むい」
口にした覚が、そのときクッ、と笑った。
「別にその女への気づかいはいらないと思うぜ。思い出せ。お前が人間でなかったように女もまた普通の人間じゃない。霊媒体質なんだ。お前の心越しにしか知らない俺でもどうも引き付けられるぐらいの。つまり」
「ま、まさか……」
「そう。いいね、自分で考え到れるじゃねぇか。そうだ。お前の感じてた友情なんてのは霊媒体質によるものだってことだ」
美咲は今度こそ血の気の失せ魂の抜けたような表情となった。すると覚は立ち上がり、美咲の肩にそっと手を置いた。
「だが俺は違う。偽りなくお前のことを想う仲間だ。さあ、やってみろ」
声をかけられても美咲は微動だにしない。そのまま砂に水が染み込むような時間が過ぎたとき、突然変化が起きた。覚が肩に置いた手――その位置が変わっている。そしてそのとき、静かな部屋に電話の着信音が鳴り出した。美咲がギクリとしてポケットから携帯電話を抜き出す。震えるそれの画面を見るとそこには『珠水美咲』と表示されていた。ゆっくりと電話を耳に当てる。
「やってくれたな」
聞こえてきた声こそ恐ろしい。電話口の声は自分の声だった。美咲はじんわりと顔を動かし横目に姿見の鏡を見る。いつもの自室で電話を構えて立っているのは白いボタン付きのシャツに黒いジーンズをはいた天蓋司明晴だった。
気付けば電話は切れていた。ツーツー、とむなしく鳴っている。